Ⅰ プロローグ

公開:2020年6月1日最終更新:2020年7月1日
1、黄昏の来訪者

 

 

太陽暦485年

ハルモニア神聖国北西地方

穏やかな秋の陽気の中、とある森の中を男たちが隊列を成して進んでいく。まず道案内の村人が先導して歩き、その後を学者、魔術師、鑑定士などを含めた20人ほどの軍服を着た者達が続く。

「もうすっかり秋だね。このあたりのワインはなかなか美味しいんだよ」

北国の短い夏の終わりを噛みしめるように、頬を撫でる涼やかな風に秋の匂いを感じながら少年が誰ともなく呟いた。するとくつわを並べで付き従う、鼻の大きい男がそれに答える。

「申し訳ございません、生憎私は下戸でして
「そうだったかな。じゃあ君のお父上にでも買って帰ろう」

気を悪くした様子もなく少年は穏やかに笑みを返した。そんな取り留めのない話をしながら、赤や黄色に色づいた落ち葉を踏みしめて進む一行の先に、蔦がはこびり苔むした、まるで森と一体化したかような巨大な遺跡が突如姿を現した。

無論、本当に急に湧き出て来たわけではない。人の目の届かぬ森の奥に、この遺跡はハルモニアの建国以前から何百年の時をひっそりとそこに佇んでいたのだろう。その正面で立ち止まったディオスJrは、しみじみと遺跡を見上げた。

「しかし、ハルモニア国内のこんな所に、まだ調査が完了していないシンダル遺跡があったとは
「ここは比較的最近見つかったからね」

後回しにしてたんじゃないかな、と少年が軽い口調でそれに返した。

はるか昔に謎の古代民族シンダル族が世界各地に残していったといわれるシンダル遺跡。独自の高度な文明を築いていた彼らは北から南へ移動を続け、やがて姿を消したと伝えられている。真の紋章の収集を国策としているハルモニアでは、紋章に関する秘術が眠るシンダル遺跡の捜索は重要な任務とされている。

だがシンダル遺跡の探索は多くの見返りが得られる分、少なくない代償を払うはめになる場合も多い。無謀なトレジャーハンターが単身乗り込み、帰らぬ人となってしまうことも度々起こっているのだ。

この遺跡でもハルモニアは軍を送り込み調査を行っていたが、今のところかんばしい成果は上げられてはいなかった。鼻息荒く先遣隊を率いて入った地元の貴族が、モンスターとの戦いでちょっぴり怪我をしただけで怖じ気付いてしまい、全ての兵を引き上げてしまったと言うのだ。それで真の紋章を持つ神官将であるササライにお鉢が回って来た、という経緯だった。

遺跡の通路を隊列を組んで進む一行の中心、白い馬に乗った少年が神官将ササライである。年の頃は十代後半といった幼さの残る面影だが、実際はそれ以上に生きている。真の紋章の継承者という彼の特殊な事情が反映された姿だが、幾度となく歴史の節目に起こった戦争を戦い抜いた戦歴の将軍として、その実力は神殿の折り紙付きだ。

調査隊は石造りの回廊を進み、ひとつひとつの部屋を確認していく。いくらばかりかの先遣隊の調査済み区域と合わせても遺跡はそれほど入り組んではないらしく、朝から遺跡に入り午後には全体が見えてきていた。

「前任者殿の報告ではとんでもないモンスターがうようよしてるって言うから、馬も多めに連れて来たんだけど。どうやら取り越し苦労だったようだね」
「はあ。大袈裟な話でしたな」

もちろん遺跡に巣食うモンスターにも何度か出くわしていたが、ササライの魔法のサポートと士気の高さで死傷者はひとりも出てはいなかった。測量と宝物ほうもつの回収を優先して進んでも順調な調査に、ハルモニア兵達の顔に浮かぶ表情にも疲れと共に余裕が見えている。

「どうやら今日中に終わりそうですね」
「そうだね。喉が渇いたから早く戻りたいよ」

場にそぐわない緊張感の欠いた言葉だが不思議と嫌味には聞こえず、兵士達は美味しそうに紅茶を飲む上司の姿を想像したに違いない。ササライ神官将の紅茶好きは部下の間では有名な話だからだ。

最後の部屋と思われる大きな空白地帯を目指して、一行は突き進む。ひときわ長い回廊を通過すると、そこは天井が取り払われ、祭壇のようなステージを備えた広々とひらけた場所だった。すでに夕刻となっていた空には傾いた太陽と、顔を出したばかりの月が浮かんでいる。どうやらここが終着地点で間違いはないようだ。

「待て」

そのまま進もうとした兵を、ササライが凛とした声で制した。

「この先に魔力の痕跡を感じる。警戒を怠るな」

先程とは違う真剣な口調の命令に、兵の間にも緊張が走る。馬を下りた神官将ササライが武器を構える兵の間を進み前へと歩み出た。

夕焼けがつくりだす濃い影の中に何かが有る。鮮やかな朱色のコントラストの中で目を凝らすと、中央の一段高くなっている石造りの祭壇に横たわっているのは人影だった。それが動かないことを確認すると、躊躇いもなくササライは近づいていく。

「サ、ササライ様!」

慌てふためく兵にかまわず、彼は足元の人間の顔を覗き込む。それは涙をこぼしながら気を失っている、ひとりの女性のようだった。

「大丈夫だよ、危険はなさそうだ」

おそるおそるといった風で近づく部下たちを、ササライは呼び寄せる。

「まだ息があるようだ。近くの町娘かな?」
「さあどうでしょう。しかし、何故こんなところで寝ているんでしょうか。シンダル遺跡で行き倒れを見付ける事自体は、それほど珍しいものではありませんけどね」

皆目見当もつかないといった風にディオスJrは首をかしげる。

「そういえばササライ様、魔力の痕跡とは何だったのですか?」
「この人から魔力の痕跡を感じるんだけどもしかしたら、瞬きの魔法でここに飛ばされてしまったのかもしれないね」
「ではこの辺りの人間とは限らないですね」

言葉を交わす間も足元の陰はますます濃くなり、太陽は地平線へ沈んでいく。夜の闇が辺りを包むのも時間の問題だろう。

「とにかく、ここにひとりで置いては行けない。町まで連れて帰ろう」
ササライが軍服のコートを羽織らせ、部下の一人が抱きかかえて昏睡する人物を空いていた馬に乗せる。

「中に戻ろう、日が落ちる前に」

その言葉を合図に、他には何も無かったその部屋を後にして、一行は遺跡の中を引き返し始めた。まっすぐに出口へと向かえば外に出るのはそう時間はかからないだろう。ササライがもう一度女性の顔を見やると涙はもう止まり、頬を伝う雫の跡は乾き始めていた。

君は何故、泣いていたんだい?」

返ることのない問いかけのあと、神官将ササライはただ不思議そうにその横顔を見つめていた。

 

 

2、涙の名前

 

 

調査隊が町へと帰還を果たしたのは、時計の針がすでに深夜にさしかかった頃合いだった。

視界が悪化する夜の森を移動するのは本来危険な行為ではあるが、くだんの意識不明の人物を早く医者に見せるべきとの神官将ササライの判断により、無理を押しての急な帰還となったからだ。

夜半であることを理由に、詳しい調査報告は翌日に行うことにした。地元の領主である前任者の小心貴族が「よくぞご無事で!」と外で仰々しく挨拶を始めそうになるのを丁重に断り、部下たちも兵舎へ引き払えば、残す仕事は例の身元不明人の立会いだけとなる。

部下たちが泊まっている兵舎とは別に、身分ある身であるササライとディオスJrは、地元貴族が用意した町の高台にある邸宅に賓客として招かれている。面倒な政治的思惑の絡む歓待ではあるが、これを幸いとして事情を話し、その邸宅の一室を静養室として設えることにした。そこへ仕事を終えたササライとジュニアが入室すると、ちょうど診察を終えた医師が思いの外朗らかな笑顔で振り返った。

「問題ありませんな。暖かくして休めば、そのうち目を覚ますでしょう」

赤ら顔に白い口髭を蓄えた善良そうな町医者はそう言い残して、眠りについた町へと早々に帰っていった。

「どうやらひと安心みたいだね。後はちゃんと目を覚ましてくれればいいんだけど」
「明日にも目を覚ませばそれが一番いいのですが、そうではない場合は、どのようになさるおつもりですか?」
「そうだね

指一本動かさず眠るその人の様子を一瞥すると、ササライは考え込む仕草でジュニアのその問いにこう返した。

「僕たちも彼女も、ずっとここに居るわけにはいかないしね」
「はい。クリスタルバレーでは今も、沢山の書類がササライ様のお帰りを待っております」
「あはは。もう少しここに居てもいいかな」

寛容な上司の気質を知っている副官は、おそれもなく冗談めかした相槌を口にする。はたから見ればその光景は上司と部下というよりも、むしろ友人同士のそれのようにも見えるかもしれない。

ふと、思いついたように翠の瞳がジュニアを見上げた。

「彼女、サナディア人かな?」
「と申されますと、西方辺境領の
「ここからならそれほど離れていないし、黒い髪と白い肌なら条件に合う」

瞳の色はまだ見た事がないから分からないけど、とササライは言葉を付け加えた。

このハルモニアという国では、髪と目の色が何より重要と考える者も多い。金髪碧眼はすなわち貴族の血統の証となり、それ以外は烏合の衆といった扱いである。

もちろん例外も存在する。ササライ自身目の覚めるような金髪ではないが、生まれ持った類稀なる素養を評価されて神官将という要職に就いている。この発言もおそらく他意はなく、ただ単に目の前の人物を心配しての言葉なのだということは、ジュニアも理解していた。しかしこの国で黒髪を持つ者というと、他国の出身か3等市民のサナディア人が大半となる。

「私には分かりかねますが 町医者も言っていた通りこの町の人間ではないのでしょう。面倒を見ることになったら時間がかかりそうですね」

身分が高いわけでもなく、見知った者も傍に居ないのであれば、目覚めぬ相手を捨て置けば明るい未来などないことは想像に難しくはない。

「じゃあ、目を覚ましたら家の近くまで送っていってあげよう。もし起きない場合は、クリスタルバレーに連れて行ってもう一回医者に診せるのもいいだろう。僕は時間ならたくさんあるからね」

真の紋章をその身に宿す彼は、不老の体と強大な魔法の力を得ている代わりに、少年の姿のまま長い時を過ごす。たとえ共に過ごした人がやがて老い、自分から離れて行ってしまうとしても。ジュニアの目に映るその顔が少し寂しそうに見えたのは、目の錯覚かもしれない。二人が長い一日を終えてようやく休息を得る頃には、もう明け方に近い時間となっていた。

 

 

 

翌日、ディオスJrがササライを起こした時には昼過ぎを回っていた。只でさえ朝が強い方ではないササライは、慌ただしい調査が終わって昨日の今日であるため少しばかり疲れを感じさせる顔色を示したが、本日の予定に加えて昨日の事を話すうちに、頭がはっきりしてきたようだった。

「例の女性はもう目を覚ましたかい?」
「いいえ、まだです。ササライ様といい勝負ではありますが」

仰々しい作りの軍服の着用を手伝いながら、仕上げの皮肉も忘れない。

「言うじゃないか。じゃあ次は僕が彼女を起こす番という訳だね」

身支度を整えいつもの悠然たる佇まいへと切り替えたササライは、そう言うとジュニアを連れ立ってまっすぐに静養室へ向かった。本来ならば女性の寝室に了承を得ずに入るなど憚られることだが、任務が終わった今、自分たちは明日か明後日にはもう町を出なければならない。目を覚ましてくれて話が出来るなら、早いに越したことはなかった。

部屋に入ると、昨日と全く同じ表情で件の人物は眠っていた。控えていたメイドを下がらせるとササライが穏やかに声をかけた。

「きみ、起きてくれるかい? 朝だよ」
「いえもう昼です」

ササライはジュニアの言葉を無視すると、今度は軽く肩を揺らし声をかける。豊かな黒髪がわずかに揺れるが、それでも相手が目を覚ます気配はなかった。

「案外難しいものだね、どうすればいいかな?」

起こしてもらう事はあっても逆の経験は無いであろうササライは、早くも既に万策出尽くしてしまったらしく、心底困った表情を浮かべてジュニアを見上げている。

「どうしても起きて頂けない場合、私ならば緊急事態が起きたかのような口調で何度も名前を呼びますね」
「名前か

そうは言ったものの、ササライがジュニアの助け舟を活かすには足りないものがあった。誰もこの者の名前など知らないのだ。するとササライは考え込むように目を閉じ、思案顔でつぶやいた。

「ルディスかな」
「はい?」

ジュニアの素っ頓狂な声が静養室にこだまする。予想外の上司の発言に不意打ちを受け、思わず口から気の抜けた声が漏れた。

「とりあえずルディスって呼ぶのはどうだろう? 古代シンダル語で涙という意味なんだけれど」

「はあ。語感はよろしいと思いますが」

名案だといいたげに話す上司の言葉に、ジュニアは興味のなさそうな当たり障りない褒め言葉を返した。

「ルディス、起きてくれ」

肩を軽くたたきながらもう一度ササライが声をかけると、今度は反応があった。息を吸い込み苦しそうに眉根を寄せたあと、睫毛が震えて瞼がゆっくりと開かれる。黒曜石のように黒く光沢の有る瞳が、焦点の定まらないまま眼前にあるササライの翠の瞳を見返した。

きれい

そう一言発すると、こちらの期待を裏切るように瞼は重みに耐えかねるように再び落ちてしまった。

「こ、こら! もう一度寝ようとするんじゃない!」

ジュニアが慌てて肩を掴み、激しく左右に揺さぶりをかける。強制的に睡眠から覚醒させる荒技だ。

「や、やめ気持ち悪

三半規管を揺さぶられては堪らないのか、女性は降参を示すように両手がヨロヨロと肩ほどまで挙げる。若干顔を青くさせながらも、今度こそ眠りから覚めたようだった。

「おはよう。気分はどうだい?」
「お、おはようございますちょっと、待ってください

どう見ても気分が良い人間の顔には見えない。あきらかに先ほどの揺さぶりが原因だろう。

「じゃあ食事はここに運んでもらおう。話を聞きたいから、僕らの分も一緒に」

本来高貴な身分の彼にとって部下と食事を共にするのは珍しい事のはずだが、細かいマナーよりも目の前の好奇心を選んだらしい。メイドを呼び戻し手配を頼むと、女性が落ち着く頃には温かな昼食が運び込まれてきた。

「君はシンダル遺跡の中で倒れていたんだ。覚えてるかい?」
「いいえ。シンダル遺跡、という言葉には聞き覚えがあるような気もしますが

銀のトレイの上に乗った鶏肉と豆の香草スープをすくっていた手が止まる。寝台の上でクッションに背を預け、上半身を起こした体勢で話していたその顔が、戸惑いを帯びたものに変わるのに時間はかからなかった。

「我々は、そのシンダル遺跡の調査に来たハルモニア正規軍だ。こちらは麗しの神官将ササライ様である」
「こっちは副官のディオスJrだよ」
「はあ

まだ思考が鮮明でないのか、返ってきたのは要領を得ない返答だった。ハルモニアの高官である神官将の名を聞いた者は驚き萎縮するのが普通なのだが、神経が図太いのか、はたまた他国の人間でよく知らないのか。女性はふたりの身分など気にしてはいないようだった。

「君の名は?」

そう問いかけたササライの言葉に、相手は困惑した表情そのまま、言葉を濁してこう答えた。

「それがすみません、先ほどからずっと考えているんですが、思い出せなくて。 おかしいですよね、こんな事」

予想外の返事に、ササライとディオスJrは顔を見合わせた。

「記憶喪失って事?」
「まさか。家は覚えているか? 歳は? 家族の名前は?」

矢継ぎ早に繰り出されたジュニアの質問にも、女性はうんうん唸って首をひねるばかりだった。

「ごめんなさい、本当に何も思い出せないんです」

申し訳なさそうに謝ると、目の前の人物は小麦の白パンをちぎって口に運んだ。

「とりあえず食欲はあるみたいだけど

鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているジュニアに、ササライは疑問を投げかける。

「まさか、さっき君が揺さぶったからじゃないよね?」
「はい?! ちっ、違います! 違いますよ! あの程度で記憶が飛ぶなら、私は落馬するたびに新たな人生をスタートさせてます!」
「そうだよね」

無実の疑いをかけられたジュニアは、必死の形相で潔白を力説した。

「だとすればやはり、転移魔法で飛ばされて頭を打ったと考えるのが自然かな。あれは失敗するとかなり危ないからね」

理解が追いつかない様子の女性の眼差しを受けて、高位の魔術師でもあるササライが簡単な転移魔法の説明をする。紋章魔法の力を使い、距離の離れた場所から場所へと自在に行き来するのが転移魔法と呼ばれる種類の魔術だ。

特に長距離転移を可能にする瞬きの紋章の使い手は、魔法大国であるハルモニアにおいても珍しい。どうやら生まれながらの適正と幼少の頃からの訓練がなければ使い物にはならないらしく、ササライ自身も、人数や距離を問わず自在に転移させるほどの使い手を見たのは10年前の英雄戦争の時ただ一度だけなのだと語った。

だがその瞬きの紋章の使い手は失敗も多く、戦闘中に他のメンバーが突然どこかに飛ばされてしまうアクシデントも多々起こったという。「僕は魔法リフレクトスキルがあるから、いつも被害を免れていたんだけどね」そう付け加えてササライは苦笑をこぼした。

「そういえば雰囲気は違うけど、あの魔法使いとも少し似ているかもしれない」

ササライは記憶を辿るように虚空を見つめてそうポツリとこぼしたが、瞳の色が違うからどちらのビッキーさんでもないだろうけどね、と意識を戻して続けた。

「どうされますか? 昨日立てたプランは両方立ち消えてしまいましたが」

ジュニアが言っているのは、昨日定めた指針の事だ。目が覚めれば家まで送り届け、眠ったままなら首都で治療を受けさせる。だが実際は、どちらにも当て嵌まらなかった。

「いや、クリスタルバレーに一緒に来てもらおう。やはりもう一度医者に診てもらった方がいい」

ジュニアの問いかけに、いつの間にか昼食を食べ終えたササライは優雅な仕草でテーブルナプキンで口元を押さえながらきっぱりと言い切った。

「ではそのように。貴方もそれでよろしいかな?」

ようやく最後に食事を終えてメイドに食膳を下げてもらっていた女性に、ジュニアは確認を促すように視線を移した。

「はい。まだ理解が追いつかないんですが、よろしくお願いします」

話しがまとまった事にジュニアは胸を撫で下ろす。どうやら短い時間ながらも信用を得ることが出来たようだ。

「あでもひとつだけ、分かったことがありました」

そう言って微笑むと、彼女は寝台の上で正座に座り直し深くこうべを垂れる。

「お礼を伝えるのが遅くなってしまい申し訳ありません。助けていただいて、本当にありがとうございました」

退室しようと立ち上がっていたササライはその言葉に動きを止めると、いつもの作り笑いとも社交辞令とも違う柔らかな笑みを浮かべた。

「いいんだよ。これからよろしくね、ルディス」

嘘偽りなく、打算を含まず、本心をもって相手の好意に応えられる人間は、ジュニアの知る限りササライの周りにはそう多くない。そのやり取りを興味深く見ていると、「面白い部下がまたひとり増える事になるかもしれない」と小さく零れた言葉を思いがけずジュニアは拾った。

「ルディス?」

それが自分を指す言葉だとは思いもしなかったのだろう。目の前の人物は不思議そうな表情を作ると、ササライとジュニアを交互に見る。

「君の名前だよ。無いと困るだろう?」

目の前で繰り広げられたどこかずれたやり取りに、この先が思いやられて思わず首を振った。隣に立つ上司が自分とは対照的に、まるで新しい玩具を見つけた子供のようにどこか楽しげに見えていたのが思い違いではなかった事を、これからディオスジュニアは知ることになるのだった。

 

 

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2013年09月13日初稿作成

2020年07月01日サイト移転