Ⅱ 調和の都 法の国
クリスタルバレーまでの道のりは、あっと言う間だった。火の曜日から土の曜日まで連日馬で移動し続けて、既に4日が経っていた。
移動の間は他の部下達と共に列の最後尾に居たので、ササライとの会話はまったくと言っていいほど無かったが、紅葉が始まった街道や初めて見る村や町を眺めるだけでも退屈はしなかった。
街や教会で休むときはササライは何度か顔を見に来てくれたし、主にあれこれと世話を焼くのはむしろディオスjrの方で、「足りないものはないか?」とか「何か思い出したらすぐに言え」など、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。他の部下達もみな一定の距離は保ちつつも、身の上に同情しているのか不便のないよう気遣ってくれていた。
「もうすぐクリスタルバレーに到着するよ」
旅にも慣れた頃に誘われたお茶の席でササライにそう言われた時は、ハルモニアの首都とは聞いていたがそれまで見た街と同じか、それより少し大きいくらいなのだろうと勝手に想像をしていた。だがそれは大きな間違いだったと気付いたのは、クリスタルバレー郊外から中心街を取り囲む威圧的で頑丈そうな外壁に設けられた西の正門を通った後だった。
石造りの門砦を抜けると、どこまでも続く青い屋根と白い壁の建物が広がっていた。街の中に大きな川が流れ、広い石造りの街路の両端には木々が立ち並び、噴水のそばには鮮やかな季節の花が咲き乱れている。大通りの先、街路の収束地点に青く輝く、一際大きく壮厳な建築物が目に飛び込んでくる。この国の中枢「円の宮殿」だ。明らかに今まで立ち寄った町々とは違う、洗練された美しさを持つ街並みに目を奪われた。
「神官将ササライ様、ご帰還!」
大きな声が響いたかと思うと、大勢の衛兵がササライの隊列を両側から挟むかたちで護衛についた。道行く先では多くの市民が立ち止まって、神官将の行進を羨望の眼差しで見つめている。前を行くササライ達は慣れているのか涼しい顔をしていたが、一人だけ私服で行進に加わっていたルディスは好奇の目に晒され、少し居心地が悪かった。
しばらくまっすぐに突き進むと段々市民の家や商店は姿を消し、武具や工具のレリーフを掲げた職人街へと変わっていく。
ほどなく円の宮殿よりも手前の場所に建てられた大きな建物の集まった一帯へ到着した。ここはどうやら軍の敷地らしく、宮殿よりも簡素だが堅牢そうな建物が立ち並んでいる。中庭のようにひらけた場所に来ると、他の部下達は馬から降り立ち美しく整列を組んでビシッと敬礼をした。
「此度の遠征はこれにて終了とする。みなご苦労だった」
ササライは馬上からそう部下達を労うと、ジュニアを連れ立って更に奥へと進む。去り際に会釈をすると、敬礼はそのまま部下の人たちは笑顔を浮かべて見送ってくれた。辿り着いた奥の建物は、上級士官専用と思われる立派な建物だった。先に地面に降りたジュニアの手を借りて鞍から下りる。ふたりと共に建物の中へ入ると、突然聞き覚えの無い声が耳に入ってきた。
「ご無事で何よりです」
応接テーブルや観葉植物の置かれた玄関ホールに、その声の主が居た。ゆるくウエーブのかかったくすんだ金髪に、濃い緑の目と左目を覆った眼帯が印象的な優男が立っている。
「ああ、ただいまラッシュ。ルディス、こっちは部下のラッシュだよ。僕たちは少し仕事があるから彼について行ってくれるかい」
また後で、と言い残してササライはジュニアを連れ立って行ってしまった。
「こっちだ」
ササライとジュニアの後ろ姿を見送ると、ラッシュと呼ばれた青年は背を向け歩き出す。愛想を振る舞う気など毛頭もないらしく、歩く速度が違うため小走りでついて行くこちらを意にも介さず廊下の先へと早足で進んでいく。独特のアルコールの匂いが鼻をつくあたりに差し掛かると、彼は立ち止まり廊下の奥にある扉を顎で示した。
「俺はここで待っている」
ひとりで行けという事らしい。軽くノックをすると、中から女性の声色で返事が返ってくる。扉を押し開き足を踏み入れると、道中を共にした部下たちと似たような軍服の上に白衣を纏った女医が、優しげな微笑みを湛えて腰掛けていた。
「ササライ様よりお話は伺っております。どうぞお掛けになってください」
棚に並んだ薬瓶や治療のための台などを見る限り、どうやらここはハルモニア軍の医務室のようだった。 たしかに医者に見せるとは聞いていたが、手際が良すぎる気がしないでもない。その後は、まな板の上の鯛よろしくされるがまま診察を受けたのだった。
ひと通り診療が終わるとラッシュに連れられ、再度外に出た。するとジュニアとササライが既に馬車と一緒に待っていた。どうやら、こちらの方が時間がかかってしまっていたようだ。
「結果は?」 「軍医の所見によれば、問題は発見できなかったとの事です」
馬車に揺られながらのササライの質問にラッシュが答えた。それを聞いて、ふうん、と曖昧な相づちをしたササライがこちらへと視線を移す。
「気分はどうだい?」
「少しだけ疲れました」
率直に答えると、穏やかな笑みが帰ってくる。
「移動続きだったからね。しばらくゆっくりできるはずだよ」
たしかに旅の疲れがないわけではない。だがもっと別の漠然とした気疲れを、クリスタルバレーに入ってからは感じていた。好奇の目で見上げる群衆に、ササライに連れて来られた自分を興味深そうに観察する軍医。ルディス自身に何か面白いものあるわけではないのなら、ササライが連れているルディスが何者なのかに皆興味があるのだろう。
「もしかしてササライさんは、この国の偉い人なんですか?」
出会った人々の態度から推察した問いを口にすると、向かいに座るラッシュが丸く口を開き、信じられないものを見る目で不躾にこちらを凝視してくる。
「そうだね……偉いかどうかで言えば、そうなるかもしれない。驚かせてしまったようだね」
ササライはこちらの内心を推し量るように、悪戯っぽく言い返した。つまりこの街における自分の立ち位置は、権力者にのこのこ着いてきた田舎娘というところだろう。
「いいえ。でも、状況が理解できました」
歯に衣着せぬ言葉に満足したのか、呆れ顔で書類に目を落とし我関せずを通すジュニアとは対象的に、ササライはこちらの反応を楽しむかのように目を細めた。ニコニコしながら他愛のない雑談を交わしているだけなのに、翠の瞳の奥には冷静にこちらを吟味をするような色も見え隠れする。悪い人ではないのだろうが、正直何を考えているのか分からない人、というのが今の印象だった。
馬車は軍の敷地を出て、青い宮殿へと続く緑の庭園の道をひた走る。衛兵の守る壮厳な扉の前で馬車を降りると、大理石と豪奢なステンドガラスで彩られた円の宮殿の中を、ササライたちから離れないように後ろをついて歩いた。塵ひとつない大理石の床は靴を反射させ、左右対称に部屋が作られた内部はどこも同じように見える。この青で統一された建造物の中をひとりで歩いたら間違いなく迷ってしまう自信がある。青い法衣を纏った神官たちが行き交う、無機質な美しさを持つ場所だった。
ひとつの部屋の前に辿り着くと、ラッシュが扉を開く。中に入ると部屋は書斎のような造りになっており、大きな執務机の直ぐ横に立っていた長身の男が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませササライ様。ご無事のご帰還、何よりでございます」
「すまないディオス、君への土産にと思っていたワインを買い忘れてしまったよ」
まったく悪気なさそうにササライが男に謝る。 豊かなもみあげに、立派な鼻。どこかで見たような顔立ちに既視感を覚えて、隣に立つジュニアに目を向けた。
「……私の父ですが、何か?」
まだ何も言ってはいないのに、ジュニアは心地悪そうに抗議の声をあげる。ふたりはまるで同じ人間の青年期と壮年期を並べたようにそっくりだった。
「似てますね」
「よく言われます」
ジュニアは多少うんざりしたニュアンスで言葉を返した。
「そちらのご婦人がワインの変わりの郷土みやげというわけでもないですよね?」
「あながちまったく違うとも言い切れない、彼女は保護対象者だからね。名はルディスと言うんだ。ルディス、こっちは僕の副官のディオスだよ」
ディオスの意図の読めない冗談に、ササライが苦笑しながら合わせる。性格もジュニアとそっくりだ。いや、ジュニアが父である彼に似ているというべきだろうか。
「初めまして、ルディスと申します」
「や、いやはやこれはご丁寧にどうも」
向き合い挨拶をすると、ディオスは帽子を脱いで握手を交わす。
「とは言いいましても、とりあえず名乗っている名なのですが……」
申し訳なさそうに言葉を追加すると、ディオスは不思議そうに表情を崩した。
「はあ。どういったご事情で?」
「それも含めて話すよ」
革張りの肘掛椅子に深く腰掛けたササライが今回の事の成り行きを話し始めた。シンダル遺跡でルディスを助けたこと。記憶を失っていること。そして彼女の待遇についての神殿の指示は、しばらくの間ササライの元で保護をするべし、との事であると。
「生まれつきシンダルに精通している者が稀に存在するが、彼女がそうなのかどうか様子を見たいそうだ」
魔法の才能が高かったり特殊な能力がある者を、ハルモニアは積極的に集めているらしい。もし利用価値があるのならば帰属させ、国のために仕えさせようというところだろうか。行く宛のない身にとってはそう悪い話ではないようにも思える。
「というわけで改めてよろしくね、ルディス」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
深々と礼をすると、ササライは満足そうに頷いた。
「やっぱり君は面白いね。記憶を失っているからなのかな? 予備知識なく顔を合わせた相手というのは、大抵僕を子供扱いしたりするものなんだけどね」
興味深そうに翠の目が見上げてくる。確かに目の前の人物は自分よりも幾分若く見える。年の頃を言えば、10代半ばを過ぎたくらいだろうか。
「仕事などの実務においては、年齢よりも能力を優先させるのは当然の事だと思います。お若くて高い地位についても問題ないかと……」
歳を重ねても愚鈍な者は存在するし、早期から実力を発揮する稀有な者も居る。上に立つ者としてどちらが良いかと問われれば、自分ならば迷いなく後者を選ぶだろう。特に軍などの死と隣り合わせの組織においてそれは、相手に命を預けるのに等しい判断なのだから。
すると目の前の人物は、今度は困ったように微笑んでいる。
「ササライ様は御歳42歳になられる」
ディオスが真顔で代弁をする。からかっているようにも見えず言葉の意味をはかりかねていると、今度はササライが自ら口を開いた。
「僕はちょっと特殊な事情でね、年を取らないんだ」
そう言って手の甲をこちらに見せるように、彼の右手がゆったりとした動作で持ち上がった。そこにはうっすら黄銅色を帯びて見える、美しいかたちを描いた紋章が刻まれていた。
「これは、この身に宿る27の真の紋章のひとつ〈真の土の紋章〉というものだよ」
所有者に不老の肉体と強大な力をもたらすその紋章を国から貸与されているササライは、17歳で体の成長が止まっている、ということだった。まるでお伽話のような話だが、紋章魔法とはそんなことまで出来るのだろうか。
「立ち入った事をお聞きしてしまい、すみません」
知らなかったとはいえ、失礼なことを言ってしまったのかもしれない。そう感じて謝ると、顔をあげるよう促される。
「僕は慣れてるから気にしていないよ。だから君も気にしなくて構わない」
宥めるようにおだやかに微笑んだその顔が、本当に気にしていないのだと告げていた。
「それから外部の人間の目を気にしなくとも良い場所では、僕に敬語はやめてくれるかい? 君はまだ僕の部下じゃないし、僕もその方が気が楽だしね」
「それは……」
同意しかねる提案だった。実は大分年上だった事も知ったばかりだし、そもそも世話になっている相手に馴れ馴れしく接するなど憚られるように思える。
「リラックスした状態の方が君も何か思い出せるかもしれない。これは命令じゃなくて個人的な提案だから、強制はできないけどね」
言葉こそ柔らかだが、確信犯的なものを感じる断り辛い事この上無い提案の仕方だ。こちらに取捨選択の自由がどれほど有るのかまだ分からないが、これから彼の元で過ごす以上、そんな良心に訴える言い方をされて断れば後味が悪い。実年齢とも相まって、実はかなりいい性格なのではないかと思えてきた。
「分かった……」
渋々同意すると、ササライは「良かった」とにっこりと笑みを浮かべる。その笑顔には言葉どおりの意味だけではなく、思い通りに事が運んだ満足感も含まれている事は、短い期間で知った人となりからも読み取れた。一枚も二枚も上手の相手に対してつまらない意地を張り続けるなんて、きっと無駄な徒労しか残らないに違いない。それならばいっそ、真っ正面から嘘偽りのない言葉で勝負した方が良さそうだ。
「代わりに……という訳ではないのですが、こちらからも提案をさせて、ほしい、です」 「なんだい?」
敬語と私語が混ざり合いぎこちない言い方になってしまった。今度は提案を受ける側となったササライは、座り心地の良さそうな椅子の上で軽く座り直して足を組む。
「ここに置いてもらう間、何か手伝わせてほしい。今は何も役に立てないかもしれないけれど、雑用でも何で覚えて、勉強もして、出来る事を増やしたい。もしそのシンダル関係で役に立てなくても、別なかたちで恩を返したい」 「ほう。なかなか感心ですね」
ディオスはモミアゲと繋がった短く整えられた顎髭を撫でている。
翠の目としばらく目が合ったあと、先に視線を外したのは相手だった。
「そうだね……その提案を受け入れよう」
ササライは慈悲深い聖職者のように瞼を閉じて呟いた。年相応の表情を見せたかと思えば、その顔はすぐに面白いことを思いついた少年のものへと変わる。
「じゃあ、まずは服だね」
そう言われて、改めて自分の出で立ちに目を落とした。白のシャツと暗い色味の細身のズボンの上に腰が隠れる長さの紫のジャケットを崩して羽織っている。なるほど、これでは青一色の宮殿内では目立ってしょうがないだろう。ポケットがたくさん付いているのは便利そうだと思うが、最初から何も入ってはいなかったし特に服にこだわりはないので、ここでしばらく世話になるならば確かに新調した方が良さそうだった。
「ちょうど僕も、今日はこのあと仕事の予定は入ってないんだ」
軽い口調で続けるササライにディオスは一瞬何か言いたそうな視線を向けたが、思い直したようにため息をついた。
「お戻りになられてすぐですし、骨休めも必要でしょう。そのかわり、明日からは予定がビッシリ入っておりますのでお覚悟をなさって下さいね!」
予定表らしきものをササライの前に広げたディオスの牽制を、当の本人は何処吹く風といった様子で聞き流している。服を購入するのにササライがわざわざ連いてくる理由が分からないが、ディオスの言う通り自分が出歩きたいだけなのかもしれない。
ひとり仕事を片付ける気の毒なディオスを残してクリスタルバレーの街へ出た時には、頭上にさんさんと輝く太陽は既に中天へと移動していた。
外へ出てみると午前中よりも気持ちの良い晴れ空が広がっていて、たしかに息抜きに出掛けるには絶好の空模様だった。 入った時とは違う扉をから宮殿の外に出ると、庭園の道を抜けた先には、道の両側に並ぶ店と行き交う人々で賑わう活気のある場所が広がっていた。どうやらこの辺りは南のメインストリートになるらしく、買い物を楽しんだり噴水広場でお茶を飲んでくつろぐ市民の姿がそこかしこにあふれていた。
「皆さんよく服を買いに街に来るんですか?」
「いや、ササライ様や宮殿にいる他の奴らはその必要はない」
自分のやや後ろを歩くラッシュに声をかけると、そんな不機嫌そうな答えが返ってきた。ハルモニアの上流階級である彼らは、私服であっても自ら街へ足を運んで洋服を購入する必要はないのだと彼は語った。商人が貴族の邸宅まで御用窺いに出向き、プロのお針子たちが何ヶ月もかけて作り上げる手間ひまのかかった一着を身につけるのが普通なのだと。そんな彼らが市街地の、しかも女物の服飾店へ出向くのはちょっとした冒険のようなものなのかもしれない。
「それと俺に敬語はやめてくれ。ササライ様には対等に話してるのに俺に敬語を使うなんて、おかしいだろう」
不機嫌そうなまま、青年は声量を落として耳打ちする。了承すると、分かればいいとムスッとした表情で返された。もっとも、当のササライはそんな事で気分を害したりはしないだろう。 ルディスの次にあちこちの店を物珍しそうにのぞいてるのは彼であり、普段街になど下りて来ないことが傍目にもよく分かる。きっとササライもこのおかしな買い物を楽しんでるに違いなかった。
「ラッシュ、君のお勧めの店はあとどのくらい先だい?」
少し前をジュニアと並んで歩いていたササライが振り返って尋ねる。
「は。右手前の水色の看板の店にございます」
そう答えると、彼は針と糸の意匠が施された水色の看板の下で立ち止まる。店の大きさ自体はそれほどの規模ではないが、中々センスの良さを感じる店構えだ。ラッシュが真鍮のノッカーを叩くと、中から品の良いベストを着た店主が出迎えた。
「これはこれはラッシュ様。いつも当店をご利用頂き有難う御座います」
店主は挨拶を交わしながらも、軍のコートと神官服を纏ったジュニアとササライを少しだけ気にする仕草を見せる。だが印象通りの紳士の振る舞いをする店主は、それ以上相手の素性を探るような真似はしなかった。
「どうぞご自由にご覧ください」とだけ言い残して、カウンターの向こうへと戻っていく。その背中から視線を移して店内を見渡した。アンティークな内装の壁のほぼ全面にクロゼットが備えられ、様々なデザインの女性用の服や小物が所狭しと並んでいる。
「こちらは既に仕上がってる衣服や小物を販売しております。本日はこちらで好みの物を探して頂くのがよろしいかと」
ラッシュが恭しく説明すると、ササライは頷きこちらに振り返る。
「今日は君の仕事着を選びに来たから、好きに見るといいよ」
お言葉に甘えてとりあえず見て回るが、ずらりと並んだ洋服たちは金糸や銀糸、レースや宝石をあしらったボタンなど、普段着ながら手の込んだ上質な物ばかりだった。見慣れない印象の服たちを前に、見れば見るほどどれが良いのか分からなくなってくる。
試しに近くにあった総レースのドレスを手に取ってみる。
「………10万ポッチ??」
タグに値段が書かれているが、何しろ初めての買い物なので、高いのか安いのかもよく分からない。
「ああ、値段は気にしなくても構わないよ。思うように選んでごらん」
あっさりとササライは言うが、その後ろではラッシュが自分が買うわけでもないのに目を白黒させている。本当に、気にしなくてよい程度の値段なのだろうか。
「これなんてどうかな?」
どれが良いのか基準が分からず選びかねていると、興味深そうに店内を流し見ていたササライに呼び寄せられる。すると彼の傍に付いていたジュニアから、一着の青いストライプ地のワンピースを渡された。レースや金糸の類は付いていないが、ベルトの変わりに青いリボンを後ろで結ぶフェミニンな造りになっている。
「似合うと思うんだけど……」
円の宮殿での自信に満ちた駆け引きはどこへやら、どこか自信なさげにササライは呟いた。街を歩くのが慣れていないように見えたのは、どうやらまったくの的外れというわけでもなかったようだ。案外こういう事は慣れていないのかもしれない。
「わかった」
二つ返事で受け取り、試着する事にした。世話になっているササライが選んだというのもあるが、他のゴテゴテと凝った服たちと比較しても、素直に趣味が良いと感じたからだった。デザインはどちらかと言えば可愛らしいが、着てみると膝よりやや下のスカート丈や首元を程良く見せる大きめの襟が上品だった。
待っていた3人に見てもらうと、反応は上々だった。なるほどよく似合っているとラッシュが言えば、さすがはササライ様とジュニアがお世辞と分かる合いの手を入れる。
「そのまま帰ろうか」
ササライはそれだけ言うと、さっさとジュニアを連れ立って店主の元へと行ってしまった。素っ気ない態度で気に入ったのかどうなのかよく分からないが、これでいいのだろうか。
結局、仕事用だと押し切られて靴や鞄や手袋なども、ワンピースに合わせて一揃い注文することとなった。必要な物とはいえ、さすがに申し訳なくなってきた。これからちゃんと働いて少しずつ返せれば良いのだが。
支払いの話しをしているふたりを待ってる間、店の外で待ってるラッシュに気になっていたことを聞いてみた。
「いつも女性にここで服を買ってあげるの?」
「……割と本気の時はな」
そうじゃないと、俺の懐がもたない。そう愚痴とも取れる言葉がこぼれる。行きつけの店で格の違いを見せ付けられ、しょげてしまった少年のようなその背中は、どこか哀愁に満ちていた。
服を購入するという当初の予定が早めに終わると、そのまま気ままなウィンドウショッピングを楽しむ余裕が出来た一行は、良い匂いの漂うお茶の葉を扱う店や、質の良い筆記用具の店などを見て回った。これもラッシュが言うには、特に必要な事ではない貴族の道楽の一環らしい。
途中で子供たちが目をキラキラさせて覗き込んでいるお菓子の店を一緒に見ていると、欲しいのかと問われて色とりどりの飴が入った小さな袋を買ってもらってしまった。どうも子供扱いされている節があるのは気のせいなのだろうか。ありがたく頂くし、素直に嬉しいけれども。
ラッシュが両手いっぱいに荷物を抱えて「これ以上は持てない」と訴える頃には太陽も大分西に傾いており、ササライも満足したようでようやく円の宮殿へと戻る事になった。
執務室に戻ったあとは、ジュニアとササライはやはり仕事が残っているらしく、今日のところは宮殿を出て翌日からまたここに来ることになった。出ていくといっても帰る家もない自分にはどこへ行けば良いのか分からなかったのだが、去り際にササライが放った言葉がラッシュを困惑させた。
「しばらく彼女の世話を君の母君に頼むことにしたから。日が落ちる前にラトキエの屋敷に連れていってくれるかい」
そう申し渡された青年は、聞いてないとばかりに慌てて問い返す。
「何故ですか?!」
ササライは書類から目を上げることなく返答する。
「記憶も不鮮明だというのに、ひとりにはしておけないだろう? 君の母君は髪の色に偏見など持ったりはしない方だから、きっと良くしてくれるだろう。護衛として一緒に行動してもらうから一石二鳥だしね」
一方的に言い渡されると「もう連絡はしてあるから」と2人とも部屋を追い出されてしまった。扉の前で頭を抱えて立ち尽くしてしまった青年は、しばらく葛藤をしていたようだが、諦めがついたように一度だけ深い溜息を吐くと、ようやくこちらに向き直った。
「先に言っておくが、そんなに良い所でもないからな。あと遠回りになって悪いが、東地区を通って行く。いいな?」
理由はよく分からないが同意すると、重い足取りの彼と共に東の出口へと繋がる回廊を進んだ。
長く薄暗い宮殿の廊下の向こう側、自分たちの向かう先から、2人の近衛兵が歩いてくるのが見える。どちらも見覚えのない顔ではあるが金の髪と青い瞳を見るに、ジュニアから教えられた貴族の特徴を持つ人間だなのだという事はすぐに分かった。
しだいに近づき互いの顔が分かるほど距離が詰まると、隣から自分以外は気づかないほどの小さな舌打ちの音が降ってきた。
「これはこれは、ラトキエの……」 「……ああ。久しぶりだな」
ラッシュは正面に佇む男達との間にやや距離を取り、足を止める。正しく言えば彼等が道を塞ぐように立ち塞がるので、こちらも立ち止まらざるを得なかったのだ。向かい合う男達は互いにすずしい顔で挨拶を交わしたが、どちらも目は笑っていなかった。
「そちらのご婦人は?」
さして興味はなさそうに、向かい合う男の片方がこちらに視線を移した。
「こちらはササライ様が神殿より預かっているルディス殿だ」
その言葉を聞いた途端、それまで野良猫でも見るようだった男たちの目の色が変わる。無遠慮に頭の先からつま先までじろじろ見始めた二人組の視線を、若干煙たく感じながらも口を開いた。
「はじめまして、ルディスです。ラッシュ殿のご友人の方々ですか?」
お高くとまっているのか自らは自己紹介をしようとしない男たちに先に挨拶をすると、その言葉を待っていたとばかりに彼等は流暢に喋りだした。
「ええ、私たちは騎士学校の同期なのですよ」
向かって右に立つ目つきの悪い男がそう楽しそうに話せば、
「ともに剣の道を究めんと日々研鑽に励んだものです」
左に立つ丸い体型の男が神妙顔で続ける。そして右の男が声のトーンを落とし、芝居がかった動作で頭を振った。
「ですが、彼は素晴らしい剣の腕を持ちながらも、没落貴族という家柄が足を引っ張り、結果的に私たちとは別の道を歩まなくてはならなかったものですから……今でも本当に残念に思っているのです」
およそ残念そうには見えないニヤニヤとした表情で、男たちはラッシュを嗤っている。よく舌が回るものだと感心しながら傍らの青年を見上げると、苦虫を噛み潰したような顔で拳を握りしめ、懸命に怒りを堪えていた。
例え自分が軽く見られているとしても、実害がなければ彼等に反論するつもりはなかった。だがその屈辱に耐える顔を見た瞬間、穏便にやり過ごす選択は捨てる事にした。
このあからさまな嘲笑は、もしかしたら彼に対する単なる嫌がらせではないのかもしれない。個人に対する只の嫌味でないならば、言葉の内容から推測するに、これはおそらく身分が上である事を根拠にした、卑しい優越感の類なのだろう。生きる限り背負わなければならない生まれた階級の差を嗤う、差別を含んだ嘲笑。
「お二人も剣には自信がおありなのですか?」
訊ねると、男達は食いついたと言わんばかりに嬉々として返答する。
「自慢ではありませんが、宮殿を守護する近衛隊で鍛えた我々の腕前は以前とは比べ物にならないほどかと」 「昔ならばいざしらず、今ならラッシュ殿に勝るとも劣らないと自負しておりますよ」
その言葉の指し示すところは、昔から敵わなかったということだろう。そしておそらく、今も。
本当に名実ともに己が上なのだという自負があるのならば、実力を見せつければいいのであって、こんな陰湿なやり方で構う必要もないはずだ。実力で超えたのだという自信がないから、地位と家柄の差を持ち出してはネチネチと絡んでくるのだろう。楽しげにたくさんの情報をくれる二人組に、精一杯取り繕った微笑み返した。
「なるほど……しかし失礼ですが私の見たところ、ラッシュ殿の方が剣士としては上かと存じます」
実際は彼の腕前はまだ見たことが無い。だからこれはハッタリだ。だが、彼等の気をそらすにはその一言で十分だったようだ。男達の顔から弱者を痛ぶる下品な表情が消えて、同時に声は問いつめるようなトーンへと変化した。
「ほう……? 何故そのように思われたのか、是非お聞かせ願えますかな」
目尻を痙攣させながら、目付きの悪い男がこちらを睨んだ。どうやら嘲る事には慣れていても、見下げられる事には慣れていないようだった。
「真の強者とは、自らは手を出さずに相手を圧倒し、弱きを助け強きを挫くと聞きます。これを今の状況に当てはめると、お二人にはそぐわないと感じたものですから」
するとその言葉を聞いた男たちの表情がみるみる怒りに染まっていく。それまでの余裕はどこへ行ったのか、女ひとりに2人がかりで掴み掛からんばかりに詰め寄り息を巻き始めた。
「お、おい……!」
不穏な空気にどう対処すべきか迷っていたようだったラッシュは、冷静さを失った男達の威嚇行為に我に返り、咄嗟にこちらを庇うように腕を伸ばした。
「な、なんだと……」
「我々を侮辱する気か!」
男達はラッシュの腕の向こうで剣にも手をかけんばかりに怒りに震えている。
「いいえ。迷う時の指標にしなさいと、ある方から教えて頂いた言葉に従ったまでです」
我ながらいかにも神に仕える信心者のような物言いだった。すると腹の内が収まらないといった剣幕で、彼等は捲し立てる。
「一体誰が、そんなくだらないことを言ったというのだ!」
両手の指を交差させて胸の前で組んで祈りのポーズを作り、落ち着きを装って答えた。
「ササライ様です」
その答えを聞くと、男たちは怒り狂った表情のまま凍り付いた。次に金魚のように口をパクパクさせたかと思うと、そのまま顔を引きつらせて距離を取るように1歩、2歩と後ずさりをする。
ギリギリのところで理性が勝ったのだろう。教えてもらった話では神官将とは、神官長を除けばこの国では最高位の官位だという。公然と神官将の名を批判すれば、ハルモニアでは生きてはいけないのだろう。ましてや、出世を願う貴族ならば。
「チッ、三等市民が……」
当初の標的だったラッシュには目もくれず、男達はすれ違いざまルディスに侮蔑の言葉を吐き捨てる。そして不快を顕に、睨みながらそのまま横を通り過ぎて行った。
それまで戦々恐々と事態を見守っていたラッシュは、唖然としながら元同期の男たちの背中を見送ったあと、段々起きた事が消化できてきたらしく今度は忙しく怒り出した。
「お、おい……! 俺はササライ様からあんたの護衛を任されてるんだぞ、危ないマネをして何かあったら、何て言い訳すりゃいいんだよ‼」
「道を塞いで喚いてくるから、どいてもらったんだ」
鼓膜のすぐ横で発せられた叱咤に、たまらず耳を押さえた。
彼の言っていることは正しい。この国で何の力も持たない居候の身分の自分が、仮にも貴族に強気に出るなど、無謀にも程があるのは理解していたつもりだ。
だが守ってくれている人の味方もできないで黙っているなど、本末転倒だとも思ったのだからしょうがない。何も持たないなりに、無知な田舎娘が無礼な口を聞くふりをするぐらいが今の自分の精一杯だったとしても。
ササライに言葉を教えてもらったというのも嘘ではない。あの言葉はクリスタルバレーに着くまでの間に教えてもらった、ハルモニアの教典の一節だった。神職ではないといえ、自国の教典を覚えてない方が悪いとも言える。
それに彼らは、正確にはハルモニアの民ではないルディスの事を、髪の色だけで決めつけて三等市民と呼び蔑んだ。理屈や経験ではなく、育った環境により刷り込まれた価値観が彼らの評価基準なのだろう。
「あの人達は明確な拒否を示さない限り、きっと分かってはくれない。結局ササライさんの名前を出さなきゃ追い払う事もできなかったんだから、虎の威を借りる狐になっただけだったけど…」
落ち着いて言ったつもりだったが、憮然とした口調になってしまう。
「ここでは普通の事なのかもしれないけれど、自分ではどうしようもない事を勝手に決められるのはやっぱり変な感じだ」
生まれついた身分も、生まれながらの髪の色も、自分で決めた訳ではない。どうしようもないではないか。
悔しい表情などするものかと思っていたが、耐え切れずに顔を伏せてしまった。子供のように感情的になっている顔を見られるのは、恥ずかしかった。
「……礼なんて言わないぞ、俺は頼んでいないんだからな」
そう言われた後は、お互い宮殿を出るまで一言も喋らずに並んで歩いた。最初に会った時はこちらなどお構いなしに早足で歩いていた歩調が今は同じ速さなのだと気付いたのは、東の出口が見えてきた頃だった。
宮殿を出ると東地区へと続く、紅く染まった広葉樹が並ぶ庭園の道を二人で歩いた。馬車で通った時はそれほど長いとは感じなかったが、自分の足で歩くと宮殿を取り囲む庭園の広さが良く分かる。徒歩で往復するのは少々骨が折れるかもしれない。
ササライが通るたびに敬礼していた衛兵も、今は無愛想にこちらを見送るだけだった。
ほどなく東の大通りに出ると、遠くの空に夜の色が見える街の所々に明かりが灯り始めていた。クリスタルバレーの主要な道を歩くのはこれで3度目だが、他の大通りとの違いとしてまず目についたのは、個性的な門構えを持つたくさんの商業組合の建物だった。
ハルモニアの国章を掲げた国内の商会の本部はもちろん、異国の装飾が施された貿易商たちの支部も軒を連ねる。そこかしこで荷物を満載した馬車と空の馬車が忙しく出入りし、道端では商人たちが早く仕事終わりの一杯に預るべく、一日の締め括りとなる商談を繰り広げている。
「この辺は、東の方にいくつかある港町から届く交易品を扱う商会が集まってるんだ。クリスタルバレーの商人たちには、ほいほいついて行くなよ。やつらの笑顔は高くつく商売道具だ。安心しきって口車に乗せられたら、金になるものならなんだって買い叩かれるぞ」
金持ちそうには見えないラッシュと一文無しの自分に騙す値打ちはおそらくないだろう。だが今の言葉を間に受ければ、身分の低い若い女はトラブルに巻き込まれる事もあるのでフラフラついていかないように注意しなければならないのかもしれない。金と人の集まる場所は華やかに見える反面、利益のために相手を陥れるといった暗い面も合わせ持つからだ。
日暮れの浮き足立つ街は、仕事終わりに酒を手に労をねぎらい合う街人の声と忙しく走りまわる商人とが入り交じり、日中とはまた違う非日常的な賑やかさがある。おそらく今の時間が、最も人が街に出ている時間帯に違いない。
物珍しさに周囲を見回しながら、ラッシュの後ろを着いて大通りを歩く。店と店のちょっとした隙間にも露天商が陣取り、それぞれ壷や毛織物などの雑多な商品を、地べたに布を敷いただけの簡素な店の上に所狭しと並べている。
見た事のない品々を眺めながら歩いていると、唐突にその中の一人に声をかけられた。
「お姉さん、その服に似合うアクセサリーなんでどう? 安くしとくよ!」
声をかけてきたのはラッシュよりも背の高い、けれど女性のそれのような口調で話す男の露天商だった。そして気づけばその露天商にあっという間に手首を掴まれ、半ば強引に建物の影に体ごと引き入れられていた。
男はぐいと額を寄せて目深に被った帽子に隠れていた顔をルディスにだけ見えるように晒すと、声量を抑えて耳打ちをした。
「うまいことやってるみたいじゃない。調子はどう? こっちは結構大変な事になっちゃってるから、あなたを嵌めたやつをあぶり出すにはまだ時間がかかりそうなのよね」
長身の男は意味の分からない事を早口で呟く。急に親しげに喋りだした相手にどう返せば良いのか分からず狼狽えると、戸惑うこちらの様子を見てとった相手は次第に訝しげに表情を歪め始めた。
「あら、どうしたの? まさかあなた……」
問い掛けるような言葉が切れたかと思うと、露天商は今度はくるりと背中を向けて帽子を目深く被り直す。
「お邪魔が入っちゃったみたい。また会いにくるわ!」
そう言い残すと、手をひらひらと振りながら、呆然とするこちらを意に介することなく風の様に入り組んだ路地の向こうへと走り去って行った。すぐに我に返り後を追いかけるが、余程足が早いのか、曲がり角を抜けた先にはもうどこにも露天商の姿は無かった。間を置かず後ろから走り寄る音が聞こえて振り返ると、そこには肩で息をしたラッシュが怒り心頭といった様子で立っていた。
「言ってるそばから勝手に離れるな! まあ、その服じゃただの町娘には見えないから仕方ないんだろうが……とにかく、離れてちゃ護衛出来ないんだ。頼むぜ」
もっと地味な服に着替えてもらえばよかった、等と彼はぼやく。たしかに上流階級の店で購入した服を着ていれば、金払いが良さそうだと勘違いされても仕方がないのかもしれない。
さっきの奇妙な露天商は自分を誰かと勘違いしたのだろうか? それとも、もしかしたら本当に以前からの知り合いだったのだろうか。ならば、何故逃げたりしたのだろう。疑問は残るが特に何かをされたわけではないし、今の時点では変な商人に煙に巻かれただけだとも言える。また会いに来ると言ってたし、次に会えたら確認するのが良いのかもしれない。本当にまた会う事があるのかは分からないけれども。
そんな事を考えながら足を踏み入れた路地を見回すと、建物の壁が濃い闇を作り出す路地の先で動く何かを視界の端で捉えて、目を凝らした。入り組んだ路地裏の奥。日陰になっている場所に、子供が何人が寄り添うように身を寄せて座り込んでいる。周囲に保護者らしき姿は無く、煤だらけの汚れた衣服からは骨の浮き出た細い手足が覗いていた。
「あそこに居る子たち、どうしたんだろう」
深く考えずに傍らの青年に尋ねると、悲しそうな、諦めたような表情が返ってきた。
「……孤児ってやつさ。あんな子供はこの国にはたくさんいる。あんまり目を合わせるなよ。可哀想に思わないわけじゃないが、いちいち関わってたらこっちの身が持たない」
冷たくもとれる言葉だが、宮殿で起こったことを思い返しても彼は相当苦労してこの国で生きているに違いない。どうしようもない事もあるのだと、暗に教えてくれているのが感情を抑えた言葉からは伝わってくる。
「今まで会った事がなかった」
少なくとも、北西の街でもクリスタルバレーでも今まで目にした事はなかった。
「そりゃ『神官将さま』が通る道に、三等市民の孤児なんて入れないだろうな。色んな事から守られてるんだよ、あの方は」
そうこぼして青年はくすんだ金の髪が垂れる頭をがりがりと掻いた。
普段は郊外に点在するスラムに住む彼等は、クリスタルバレーの中心街に立ち入ることは厳しく制限されているのだという。しかし様々な人種と荷馬車がごった返すこの東の商業地区では完璧な取り締まりは難しいため、体の小さな孤児などは富のおこぼれを狙って荷に紛れて入り込むのだそうだ。衛兵に見つかれば、すぐにでもつまみ出されてしまうのだとしても。
「……知らないのかな」
優しげな恩人の顔を思い浮かべてポツリと呟くと、答えはすぐに返ってきた。
「いいや、知識としては知ってらっしゃるだろうさ。だが書物や他人の言葉で聞くのと実際に目にするのは、やっぱり違うだろ」
余計な感情を抱いて都合の悪い判断をされては困る、という事だろうか。知る権利すら周りが選別するなんて、どうかしていると感じるルディスの方が間違っているのだろうか?
この国では人々の間には意図して作られた、見えない壁がある事も段々分かってきた。
神官や貴族たち富裕層が属する極少数の一等市民。
建国より忠誠を誓う一般市民としての権利を持つ二等市民。
そして侵略や併合された地方の者達が望まずしてなる三等市民。
厳格な身分制度を敷くハルモニアにとってこの格差は絶対であり、決して覆ることはないのだという 。
ギルドに所属する者や手柄を立てた三等市民が二等市民に格上げされるといった例外が存在するそうだが、厳しい試練を課せられたり戦で危険な任務をさせられたりと、不遇の待遇も受けていると聞く。
そのあたりの倉庫で粗末な衣服を着て荷の積み降ろしをしている労働者達、犬の頭部に人の体を持つ亜人のコボルトたちに至っては奴隷の扱いだという。
美しくて歪な国ハルモニア。
この強大で高い文明を持つ国は、たくさんの虐げられる者たちの上に成り立っている。真実を知る機会もなく人生を掌握されるのと、どちらがより悲しいのだろうか。どちらにしろここには、人間が持つべき当然の権利である自由がないように思えてならない。
「ほら行くぞ」
焦れた声に、思考が現実に戻される。急かされて大通りに戻るべく歩き出すが、予期せぬ後ろからの引力に引き止められて、またすぐに立ち止まらなければならなかった。振り向き何事かと確認すると、いつの間にかすぐ後ろに居た幼い孤児の姉弟が、スカートの裾を掴んで何かをねだるように手の平をこちらに差し出していた。
この場合、催促されているのはやはりお金だろうか。だがあいにく自分は1文無しならぬ1ポッチ無しだ。
屈んで目線を姉弟に会わせると、飴玉が沢山入った袋を取り出す。
「これしか持ってないんだ」
姉の方の手の平に飴を袋ごと渡すと、弟の方が目を輝かせて駆け寄ってきた。袋の口を開けて弟にひとつ渡して、自分の分も同じようにひとつだけ取り出す。
「私は1個でお腹いっぱいだから、後は君たちの分。他にも欲しい子がいたら分けてあげてね」
姉にそう話しかけると、コクリと頷いて彼女はおいしそうに頬袋を膨らませる弟と手を繋いだ。そして何も言わずに姉弟は路地裏へと走り去っていった。すぐに姿が見えなくなった姉弟を見送ると、背中に呆れた声が降ってきた。
「気が済んだなら今度こそ大通りに戻るぞ。じゃないと、入れ替わり立ち替わり来るからな」
背中を押されるように、小走りの状態で大通りへ押し出される。ひらけた場所に出ると、空のグラデーションが濃く深くなっていた事に気付いた。
北の方角に目を向けると、高台のように高くなったなだらかな傾斜の上に、貴族が住むと思われる大きな邸宅が並んでいた。目で見える程近い距離にあるのに、ここからはまるで別の世界にある場所のように遠く感じる。
この街の事を知るたびに、自分が何者なのかが少しずつ分からなくなっていく。着いたばかりの頃は環境の変化に戸惑いはしたものの、不安など無かったというのに。
交差路を曲がり北に向かうラッシュに導かれ、喧騒が続く東地区を早足で後にした。
「足元に注意しろよ」
そう注意を促されてから、進む街路がいつの間にか、砂利混じりの簡素な小道へと変わっていたことに気付いた。
背後から迫る夕闇に追い立てられるように家路を急ぐ道の周囲に人影はなく、まばらな街灯の灯りも足元をわずかに照らすのみで、ほとんどが闇にのまれている。
東の大通りから北上して、整然と区切られた貴族の住宅が集まる区画をひたすら歩く事、およそ1時間。高級住宅街の外れとも言える寂しげな場所に辿り着くと、そこには街路樹に隠れるように慎ましやかに佇む一軒の素朴な屋敷があった。素朴とはいっても、街で見かけた一般庶民の住居に比べれば、庭付きの十分な広さを持つ一戸建てだ。
では何故そんな控えめな感想を抱いたのかというと、途中で通り過ぎた他の貴族の邸宅と比べると、やや小ぢんまりした印象を受けたからだった。
「はあ……」
屋敷の敷地を守る所々が錆びた門を片手で押し開き、青年は億劫そうに溜息をもらす。そして正面玄関と思われる扉の前に立つと、力なく帰宅を知らせるノッカーを打ち鳴らした。しばしの静寂の後、両開きの扉が開け放たれて一人の女性が姿を表す。
「お帰りなさい、ラッシュ!」
玄関ホールの光をキラキラと反射する豊かな金髪をシニヨンにしたその女性は、おざなりな返事を返すラッシュのやや後ろに立ち尽くしていたこちらを見付けると、歩み寄り明るい表情で出迎えてくれた。
「まあ、いらっしゃい! 日が落ちると外は寒かったでしょう? さあ、上がってちょうだい」
手を引かれ中へ通されると、炎が揺らめく暖炉で暖められた部屋の中央では、古めかしいメイド服を着た老婆がテーブルの横にちょこんと立っていた。傍には燭台の光に照らされながら料理が運ばれてくるのを今かと待つ、透明なガラスのグラスや鈍く光る銀色の食器が並んでいる。
「私はラッシュの母でラトキエ家当主ユーリ・ラトキエよ、よろしくね。本当は当主は私ではなくて兄が就くはずだったんだけど……」
「その話は今はいいよ」
握手を交わす横から、ラッシュがうんざりした調子でユーリの言葉を遮った。
「そうね、まずは食事を楽しみましょ。それがラトキエ家流なのよ。ふたり以上で食卓を囲むなんて本当に久しぶりだわ」
胸に両手をあて、上品な仕草でユーリは嬉しそうに微笑んだ。促されて席に着くと、老婆のメイドが手際よく目の前に料理を並べ始めた。この中で一番背も低く腰も少しばかり曲っているのに、キビキビとした動きで老婆は仕事をこなす。その訓練された動きに感心しつつ、いつの間にか上着を脱いだラッシュの隣で、借りてきた猫のように前菜ととも出てきたスープを見つめていた。
「今日からこの屋敷が貴女が帰る家よ。遠慮しないで過ごしてちょうだいね」
「帰る、家……」
その不思議な響きの言葉を反芻するように口の中で繰り返すと、ユーリは子供をあやすようにふわりと笑う。
「そう、1日の終わりに帰ってくる場所よ。貴女はササライ様より預かった大切なお客様。でもそれだけじゃないわ、この家で過ごす間は私たちの事は家族も同然だと思ってね」
家族、というのも記憶がない自分にはどういうものかよく分からなかったが、受け入れてくれるのは有難いし、何より暖かく優しい彼女の人柄は居心地の良いものだった。母親というのは、皆こういうものなのだろうか。
「はい、ありがとうございます」
頬が暖かくなるのを感じつつ感謝を伝えると、ユーリは嬉しそうにもう一度「よろしくね」と微笑んだ。
「聞いてはいたけれど、本当に綺麗な黒髪なのね。瞳も夜空のように深い色でとっても素敵。あの人……ラッシュの父親も、貴女のような見事な黒い髪と黒い目だったのよ」
食事の合間に手を止めて、ユーリが話題を振ってくれる。まだ緊張しているこちらを気遣ってくれているのだろうか。だがユーリとラッシュの髪の色の違いは、理由は何となく分かっていても、おいそれと立ち入っていい話ではないような気がしていた。深く聞いても良いのだろうか?
「ハルモニアの方……だったんですか?」
国内でも、貴族でなければ自分と同じ黒髪や黒目を持つ人間はよく居るとは聞いていた。だがユーリは、どう見ても貴族の特徴を持つ特権階級の出身に見える。階級を超えた恋愛……なのかまでは分からないが、事情を知らないならば、まずそこから聞くのが妥当だろうとも思えた。
「ええ、西方のサナディアの出身で私の家庭教師だったのよ。反対もあったけれど、彼は貴族の養子だったから婚約もして……。でも色々あって、私とラッシュを残して若くしてこの世を去ってしまったの」
ユーリの言葉が終わるのと同じく、部屋に椅子を引く音が響いた。それまで一言も発していなかったラッシュは無愛想に席を立ち上がると、背もたれにかけていた上着を片手で持ち上げてテーブルに背中を向ける。
「部屋に居る」
そう冷めた声色で告げると、いつの間にか料理をすべて平らげていたらしく、ルディスとユーリを残してさっさと広間を後にして行ってしまった。遠くなる足音を聞きながらただならぬ雰囲気に狼狽えていると、ユーリは寂しげに瞳を揺らした。
「ごめんなさい、あの子いつの頃からかこの話を避けるようになってしまって……。でも貴女がここに来ると聞いた時、ずっと気を使わせたままでは居てほしくはないから、だから最初に話しておきたいと思ったの」
蝋燭に照らされた深緑の瞳を伏せて、彼女は再度謝罪の言葉を口にする。
「本当にごめんなさいね、こんなつもりじゃなかったんだけど……」
「そんな……さっきユーリさんは、私に家族同然だと思っていいと言ってくださいました。だから私はもっとお二人の事を良く知りたいです。お話の続きを聞かせて下さい」
肩を落として小さくなってしまった彼女を慰めるためにそう言うと、うっすら浮かべていた涙を拭い、ユーリは気丈に口に笑みの形をつくる。そして「ありがとう」と少女のように微笑んだ。
「私、レース編みが得意なの。プロの出来栄えだと叔母にも好評なのよ。いい臨時収入にもなるし、もし良かったら教えてあげるわ」
「ふたりきりで暮らしてるから手狭だし、屋敷の事はばあやひとりにお願いしてるの。ここも本当は応接間なんだけれど、親類以外は尋ねてくる人もいないから」
「あの子が生まれたばかりの頃は養子に出して再婚しないかって話もあったの。女手ひとつで育てるのは無理だからって……。でも、結局断ったの。あの人の残してくれたたったひとりの我が子だもの。ササライ様と叔母のご厚意でこうしてあの子と一緒に居られるんですもの、静かに暮らしていければ私はそれだけで十分幸せよ」
「後は兄が帰ってきてくれればいいんだけど……仕事で外を飛び回っている人だから、なかなか、ね」
食後のお茶を飲み終わるまでに話してくれた取り留めのない話の終わりをそう結ぶと、彼女は寂しげに、そしてほんの少しすっきりしたような笑みを見せてくれた。
メイドの老婆に教えてもらった部屋のドアの前に立ち、ノックを2回鳴らす。すると、すぐに中から、開いていると声が返ってきた。
ラトキエ家の屋敷の2階、ラッシュの部屋の前。
さっきは気まずい感じになってしまったが、ここは図太く話しかけるしかない。これから毎日顔を合わせる相手に萎縮しても、始まらないのだから。
意を決して扉を開けて中に入ると、尋ね人は寝台に腰掛けていた。丈の長いコートを脱いで身軽になった彼の前には、ベッドの上に寝かせるようにして数本のナイフが並べられている。どうやら装備品の整備していたようだ。
「何だ、てっきりばあやかと思ったぜ。何か用か?」
「明日からの起きる時間とか屋敷を出る時間とか、あと必要なものがあったら教えて欲しいんだけど……」
「ああ、そうか」
想像していたよりも割合明るい口調で迎え入れられる。直ぐに部屋を出るつもりだったので扉口で用を伝えると、懐中時計と即席のメモを渡される。礼を言うと、これも仕事だと軽い口ぶりで答えられた。
「そういえば、叔父さんはなんていう名前?」
「………ナッシュだ。何故?」
さっきよりも幾分か固い声色で問い返される。
「今日は叔父さんに会えなかったから、明日以降会えたら挨拶しないといけないと思って」
「叔父は帰ってこない」
事務的とも言えるほど端的に、間髪入れずに彼は答える。硬化していく態度に多少の戸惑いを覚えながらも、続けて問い尋ねた。
「そう、なの?」
「最後に会ったのは10年以上前だ。あの人はこの家を避けてるんだよ」
「仕事が忙しいって聞いたけど」
ユーリの言葉を元にした、会話のキャッチボールとしての何気ない一言のつもりだった。しかし彼の口から出てきた言葉は、ルディスの予想だにしないものだった。
「俺の父親は叔父貴が殺したんだ」
一瞬耳を疑ったが、目の前の真剣な顔が聞き間違えでも、ましてや冗談でもないということを伝えてくる。
「昔からこの家はずっとおかしいと思ってたんだ。墓に遺骨も入ってない父親に、家に帰ってこない叔父。……お袋が言ってた当主というのも名ばかりのものだ。俺が生まれる前に取り潰しになった没落貴族のラトキエ家に、当主なんて本当は必要ないからな」
そう複雑そうに吐き出された言葉で、ユーリの言動に対する彼の冷ややかさな対応の理由を理解した。
「騎士学校を出た後ラトキエ家の事を調べてはみたんだが、結局自分の力だけじゃ、没落した事とほえ猛る声の組合が関係があるんじゃないかってことぐらいしか分からなかった」
「ほえ猛る声の組合?」
「ハルモニアのギルドのひとつだよ。ササライ様の下で働く事になるなら、今後関わる事もあるだろう」
聞き慣れない名称が飛び出たので聞き返すが、特殊な訓練をつむ場所なのだと簡単に彼は答えた。
「情報を集めるためにそのギルドで修行もしたけれど、あと一歩ってところまで迫っても、緘口令が敷いてあって肝心な部分はずっと分からずじまいだったんだ。まあそれから色々あってササライ様に拾って頂いてさ。で、灯台下暗しってやつだな。22の年に口外しない約束でササライ様が全部教えてくれたんだよ。俺の父親はギルドの人間で、祖父を殺して家を没落させた張本人。叔父は仇を討って父親を殺したってわけさ。そりゃ帰りたくなんて、ないよな……憎んだ相手の子供が居る家なんてさ」
長い年月で積もり固まった心情を独白するような、ひどく淡々とした言葉だった。
手入れの終わったナイフをホルダーに仕舞いシーツの上に放り出すと、彼は自嘲気味に笑う。
「悪い。気持ち悪いだろ、今日会ったばかりの人間にこんな話を聞かされるなんてな」
そう言ってバツが悪そうに乾いた笑みを晒した。
「……別に気持ち悪くはないよ。私に話してくれたってことはずっと誰かに聞いて欲しかったって事かもしれないし、すっきりしたならそれでいいと思う。私にも、ユーリさんにだって、そういう時はあるよ」
実際、ユーリも話を聞いてもらう相手に飢えているような饒舌な話ぶりだった。小さな家の中でずっとふたりきり。メイドも入れれば、3人。とにかく、そんな状態ではお互い息が詰まってもしょうがなかったのかもしれない。
「ユーリさんは知ってるの?」
「さあね……どこまで知ってるかは分からん。お袋は家族を失うことを極端に恐れてる節があるから、不安を煽るようなことは言いたくないしな。あんまり鬱陶しがらずに適当に相手をしてやってくれ」
幾分か柔らかさを取り戻した声にほっとして頷く。
「分かった」
抜身のナイフのような威圧感は息を潜め、落ち着きを取り戻した様子に安堵する。そして話の中で感じた違和感の理由にやっと気付く。さっき”口外してはならない話”なのだと、彼は言っていなかっただろうか。
「聞いてはいけない話を聞いてしまった、と思うんだけど……どうすればいい? 私達は処罰されてしまうの?」
ササライの怒った顔はまだ見たことがないが、普段温厚な人ほど怒れば恐そうだ。そうでなくとも、恩を返すために居るのに最初から叱られるのは避けたい。すると彼は、事も無げに言い放つ。
「簡単だ。お前さんが黙っておけば、俺が言った事もお前さんが聞いた事も、なかったことになる」
「そ、そうなのかな……分かった」
素直に口裏合わせに同意すると、にやりと人の悪い笑顔を向けられる。
「あと男の部屋に軽々しく入ってくるな。襲われても知らんぞ」
「?!」
突然の攻撃的な発言に驚き、やや腰が引けた状態で意図せず拳を握って身構えると、ラッシュは毒気を抜かれたように表情を崩して腹を抱えて笑い出す。
「変な奴だな! 昼間からおかしな奴だとは思っていたが、ここまでとは」
訳がわからず立ち尽くしていると、今度はひらひらと手の平を振って降参のポーズを示される。
「心配するなよ、護衛対象に危害を加えるような安い仕事は俺のやり方じゃない。他の危険からもしっかり守ってやるさ」
コロコロ変わる表情と言葉に、話の流れがよく掴めない。けれど、外で本心を殺して耐え忍ぶような表情をしていた時よりもずっと自然で好ましいと感じる。この親しみやすい人懐っこさが、彼の本来の性格なのかもしれない。
からかわれたのだとようやく悟り、気を持ち直すために浅く息を吐いた。
「よろしく頼む、ラッシュ」
顔合わせの時に出来なかった挨拶を今更ながらに切り出すと、握手を求めて右手を差し出した。
「調和と法の国ハルモニアへようこそ、漆黒の放浪者さん」
片方の口角を上げて意味深な笑みを浮かべた彼は、そう言って差し出されてた手を強く握り返した。
昼は円の宮殿で過ごし夜はラトキエ家に居候するといった生活を続けて、ようやくクリスタルバレーでの環境に慣れてきた頃には、気付けば2週間が過ぎていた。
宮殿に居る間はお茶を淹れたり掃除をしたりと、いわゆる雑用をしてせわしなく過ごしたのだが、その忙しさにも慣れると、今度は同じことの繰り返しに段々退屈を覚えてきてしまっていた。居場所を与えられている身としては贅沢な悩みだと思うが、保護という名目で置かれている間は、しきたりという名のルールを守って行動しなければならない。これが閉鎖的な宮殿での日々を更に窮屈にさせていた。
まず、自分は必ずササライ達の目の届く範囲に居なければならない。
宮殿への往来時はラッシュが必ず傍に付いていて、街を自由に見てまわる事は出来ない。一つの神殿と呼ばれる巨大な図書館にも、興味はあるのだが許可が下りない為いまだに行けてはいなかった。そのため、円の宮殿ではほとんどの時間をササライの執務室で過ごしていた。
次に、宮殿にいる間は剣や魔法の修練を、許可なしに行ってはならない。
これは身元の分からない人物が神殿の技術を盗むのを防止する意味があるようだった。代わりにシンダルの一般的な古文書とやらを幾つか見せられたが、期待には応えられず何を書いてあるのかはさっぱり分からなかった。空いた時間に初心者用の紋章学の本を読むくらいは出来たが、見たことのない理論が並んでいて、実践を伴わければとても理解しているとは言い難い。
最後に、仕事以外の用件で、許可された人物以外との勝手な会話をしてはならない。
円の宮殿はハルモニアの政治が行われる場所であり、色々な勢力の人間が居るため、情報を引き出すために近づく者を見分けられないうちは無闇に話すことも良くないだろうとの事だった。先日のラッシュの元同期と一悶着あった事も、もしかしたら関係あるのかもしれない。
以上を守り大人しく過ごした結果、閉じこもって代わり映えのない毎日が続いている。まるで終始繋がれて過ごす動物のような気持ちになってくる。これがずっと続くのだろうか? 不満がないと言えば嘘になるが、拾ってくれたササライの手前、とても口には出せなかった。
ソファに座りながら飲んでいたカップのフチをなぞる指を止めて、窓際で日差しを浴びる主人不在の執務椅子に目を向けた。
そのササライはといえば、一日執務室に居る日もあれば、まったく姿を見ない日もあった。事前に仕事の内容を教えてもらっても知識がないため良く理解出来なかったが、どこに行くのかいつ戻るのかは必ず残してくれたので、それを来客や部下の面々に伝える留守番役もいつの間にか任せられていた。
今日は重要な会議があるらしく、朝にはもう部屋に居なかったので午後になっても顔を見てはいない。もしかしたらその会議の中で、自分は無能だと判断されて外に放逐されるのかもしれない。ラトキエ家の面々は変わらず暖かく接してくれているが、宮殿内での人々が自分に向ける異物を見るような視線に気付けないほど鈍感ではなかった。保護された名目であるシンダルの事も役に立てないとなると、いよいよお役御免かもしれない。
ようやく慣れ親しんだ優しい人達との毎日が終わるのは辛いが、この宮殿の中で不自然な存在の自分にはそれはそれで相応しい生き方なのかもしれないと、判断力の麻痺した頭で根拠のない堂々巡りな思考を繰り返していた。
「ルディス、ちょっとこちらに」
遠い目で窓の向こうの良く晴れた空を見上げていると、部屋続きの資料室で整理をしていたディオスJrに呼ばれた。他の部下たちはめいめい出払っているので、今は彼がお目付け役というわけだ。
「はい、なんでしょうか」
覗き込みながら、常に敬語のジュニアにつられて思わず敬語で聞き返した。
「未整理だった過去の書類を仕分けるので、渡す分を指示した箱に入れてくれますか。あ、それはあちらの破棄予定の箱にお願いします」
相当な量が積まれた書類の山を前に、ジュニアは不敵に微笑む。
「こういう事はやはり、人手がある時にやるに限りますね」
「すごい量」
見たままの感想を口にすると、仕分けをしながらの器用な返答が返ってくる。
「いえね、大して重要な書類ではありませんし大まかには纏めてあったんですけど、もし必要になった時にこれでは面倒でしょう? ササライ様は整理整頓がお世辞にも得意ではありませんから……」
もしかして、この乱雑な書類の山は全てササライの仕業なのだろうか。いつもきっちりと法衣を着こなして隙のない振る舞いの彼の、以外な一面を見てしまった気分だ。掃除をしていて薄々は気付いていたが、あまり身の回りには頓着をしないたちらしい。ジュニアはこれも仕事と割り切っているらしく、手際よく分類した紙を振り分けていく。それが一定量溜まったらルディスが箱に移していく。そんな事を何度か繰り返した。会話がないのも気まずく感じ、他愛も無い話題を振ってみる。
「私は役に立っているのかな」
すると手を止めることなくジュニアがごく当たり前のことのように言い放つ。
「少なくとも、我々が些末事に割く時間が減ったのは喜ばしいことです」
彼の取り繕わない物言いは、今に始まった事ではないし特に不快には感じない。なによりここでの仕事を一番熱心に教えてくれたのはジュニアだった。お陰で厳しい指導のもと、お茶の入れ方から掃除の際の注意点、来客の対応の仕方などを早期に覚えられたのだから感謝している。それが親切心だけではなく、役割をこなす事を期待されたものだと言う事ももちろん理解していた。
「雑用係としては及第点になれたと?」
「どこに出しても恥ずかしくない立派な雑役婦にはなったのではないでしょうかね」
褒めてるのかそうでないのか、よく分からない返事が返ってくる。いつもなら聞き流す彼らしい皮肉だが、今の沈んだ気持ちではそんな心の余裕は持てなかった。
「やっぱりメイドとか侍女とか、そっちの方面で生きていけるように考えた方がいいのかな」
間に受けてそうぼそりと吐き出すと、ジュニアは訝しげな表情を作り、こちらに視線を寄越した。
「やっぱり、とは?」
もともと目付きの悪い双眸が細まり、鋭い眼光となって突き刺さる。睨んでいるわけではないのかもしれないが、思いがけない反応にびくりと動揺してしまった。
「今後外に出て働くことなったら、手に職を付けて労働に従事する事になるでしょう? 私はラッシュのように剣の腕がたつ訳ではないし、ジュニアのように士官することもないと思う。髪も黒いからここにずっと居るのは不自然だろうし……」
しばし手を止めて耳を傾けていたジュニアは、突然呆れたように溜息をつくと、帽子を取りラフに金髪を後ろに撫で付けた。そして改めて帽子を被り直すと、強い意思を帯びた青い目で再度こちらに向き直った。
「誰に何を言われたのかは私は知りませんが、そう考えるのはまだ時期早尚なのではないですかね」
そして、彼はこう続けた。
「ここに来てから気付きませんでしたか? 何故私たち士官の職に就く者達が、本来の仕事ではない雑用までこなしていたのか」
回りくどくも感じる言い方で、彼の言わんとしている事がいまいち掴み取れない。
そういえば、初日にこの執務室に来た時からメイドらしき人が居るところを見た事はなかった。代わりにジュニアたちが本来の仕事の合間にお茶の用意や片付けなどをしていて、手伝いを申し出てその度にやり方を教わり、雑用がルディスの役割となったのち彼らは煩わしい諸々から解放されたようだった。
疑問も持たずにそういうものなのかと思っていたのだが、今思えば効率が悪いやり方のようにも感じる。
「ここ数十年のハルモニアの政治を動かしているのは主に二つの勢力です。神殿派と呼ばれる者たちと、我々が属する民衆派と呼ばれる者たち。一方は、神殿を束ねる神官長ヒクサク様の威光に疑問を持たずに従うべきと主張し、一方は、民衆によって国を動かすべき時期に来ていると主張しています」
ジュニアは後ろ手を組んで姿勢を正して背筋を伸ばしたまま、講義でもしているかのようにすらすらと言葉を続ける。
「特に近年、ヒクサク様が長期間表に姿を表さない事や民衆派の大貴族の凋落といった大きな出来事が重なり、両者の対立はもはや避けられないなものとなっています。貴族であれば出自の家でどちらに属しているかおおよそは分かるのですが、使用人ひとりひとりとなると確実な判別がつかないのが現状です。書類を持たせるのもお茶の給仕も、誰にも彼にも任せられる仕事ではないという事ですよ」
ジュニアの説明は簡潔でいて分かりやすく、新参者の自分でもなんとか追いつけるよう噛み砕かれて説明されているようだ。政治には派閥がつきものだが、この国のそれは捻れてもう手がつけられない状態のように聞こえる。もしかして、それで実際に何か問題が起こった事もあったのかもしれない。
「仮にどこぞの侍女を部屋付きとして雇い入れたとして、その者が政敵と通じていないという確信を得たとしても、ハルモニアの民である限り家族を人質を取られたりすればあっさりと寝返える可能性もあるわけです。その点貴方は完全な白ですからね。ササライ様が手を尽くして貴女の身元を探していますがいまだに分からないのですから、ハルモニアの人間でないのは確かです」
身元をずっと調査してくれていることは初耳だった。本人が半ば諦めかけていた事を気にかけてくれていたとは、ますます頭が上がらない気持ちになる。
「統一性のない言動からも、記憶喪失が嘘ではないと分かりますし。まあ、何も知らないからこそ信用できるといいますか……」
言葉がよどみ、咳払いがはさまれる。さり気無く失礼な事を言われたような気がする。
「我々が仕えるのは、この国では珍しいほど身分や生まれに関係なく公平な評価してくださる御方です。……まあ、物好きとも言いますがね。せっかく幸運にもここに来れたのに最初から諦めるなんて、私には理解できない。見合う実力さえ持ち合わせていれば、他の場所では諦めた道だって開けるかもしれないというのに」
最後はまるで自分に言い聞かせるように言葉を結ぶ。それを口を開けてぽかんとした顔で見ていた自分に気付き、ようやく一言を返した。
「それは、頑張れって事?」
バツが悪そうに視線を逸らすと咳をひとつをおいて、ジュニアは書類へ向き直る。
「まあ……私の意見は置いておくとしても、最初に話を聞いた時から、あの方も思う所があったのでしょうね。もう貴方は我々の身内という事ですよ」
わざとらしく咳き込みながら話す横顔を見ていると、不器用な気の使い方が可笑しくて堪らくなり笑い声がもれてしまった。
「ふふ、変な人たち」
「この国では、という意味では正しいでしょうね。ですが貴女も最初は我々の髪の色や地位など、気にかけてはいなかったではないですか。頭の硬い連中の悪意にねじ曲げられて本来の素直さを失っては、ササライ様も悲しみますよ」
そういえばそうだったかも知れない。大抵の事には大して興味がなさそうに振舞っているのに、物事をよく見ている。掴みどころのない態度は周りを欺く隠れ蓑かもしれないと思うのは、買いかぶりすぎだろうか?
「そうかもしれない。ありがとうジュニア」
「暗い顔をされてはこっちまで気が滅入りますからね」
礼を口にすると、そ知らぬ顔で流される。
「許しが出たら紋章魔法の勉強でもしてみたらどうですか。ササライ様ほどの使い手になるのは難しくとも、物の数には数えてもらえるんじゃないですかね」
「そうしてみようかな」
提案を有り難く受け入れて笑みを返すと、うんうんと納得した表情で頷いたジュニアは、その方が建設的だと、得意げに綺麗に整えられた揉み上げを撫でた。
ファイリングまで手伝って中断していた仕分け作業をあらかた終わらせた頃には、資料室はすっかり片付いていた。
「ずっとこの状態が続けばいいんですがね」
などと、ぼやく姿を見ると、その願いが叶うのを祈るばかりだ。
すっかり凝り固まってしまった背筋を気持よく伸ばしてから、執務室に戻った。窓の外を見ると、そこそこ時間が経っていたらしく空が赤みを帯び始めている。
「よっ、やっと終わったのか?」
ソファを見ると、いつの間に戻ってたのかラッシュが寛いで座っていた。
「戻っていたのなら、声をかけてくれればいいのに」
「お前さんたち随分真剣に仕事をしていたみたいだから、邪魔しちゃ悪いと思ってな」
何の事はない、声を掛ければ手伝わざるを得ないのが嫌だったのだろう。呆れたように非難を込めた視線を送っていると、背中にジュニアの声が飛んできた。
「そんな事よりお二人とも、そろそろ時間ですよ」
懐中時計に目を落とし時間を確認すると、成程そろそろだ。目を合わせて頷いたあと、示し合わせたかのように各自の持ち場につく。
ラッシュは部屋の入り口に移動すると、廊下の音に耳を澄ませて、いつでも扉を開けられるように待機した。ジュニアは連絡事項をまとめた書類を手に執務机の横へ。そしてルディスはすぐにお茶を淹れられるようにと、ティーセットを準備しに茶器の元へと移動した。
今ではそれが部屋の主を迎える時のお互いの定位置だった。
呑気にお茶を選んでいると、ラッシュが扉を開ける音が執務室に響いた。続いて、ジュニアの出迎えの声が耳に入る。
「お帰りなさいませ」
隣の部屋でお湯を用意しながら執務室の中を覗うと、会議を終えたディオスと、初めて見る服を着たササライが帰ってきていた。
大きな帽子を被り、青と黒を基調とした幾何学的な模様の入ったローブの上に、幾重にもケープのような布が重なった装飾的な衣装を着ている。離れたところから見る厳かで神秘的な雰囲気を纏うその姿は、信徒ではないルディスでも素直に美しいと感じ入るものがあった。人は壮厳さや美しさに対して信仰を抱く心理があるので、威厳を示すための特別な法衣なのかもしれない。
淹れたばかりの紅茶を、ソファに腰を落ち着けたササライへと差し出した。
「ああ、すまないね。……いい香りだ」
そんな風にほっとしたような顔で飲んでもらえると、準備して淹れた甲斐もある。同じようにディオスにも渡すと、短く礼を言いながら立ったまま器用に飲み始める。ポットを置くためにテーブルに近づくと、丁度カップを置いたササライと目が合った。
「ルディス、ここに座ってくれるかい」
帽子を脱ぎ人心地ついた様子のササライに、空いている向かいのソファに座るよう促される。
悪い予想ばかりが先行していた昼間の自分ならば、座るのにも勇気が必要だったかもしれない。だがジュニアに話を聞いてもらったことで心の整理はついていた。ササライなら悪いようにはしないでくれると、信じることにしたのだ。
言われた通りに正面に座ると、複雑な装飾の法衣がよく見えた。
「その服、なんて言うのかは分からないけど、すごく綺麗」
思っていた事をそのまま伝えると、向かい合う人物は少し戸惑ったように、己の体を包み込んでいる法衣を見回した。
「そうかい? 神官将の正装だよ。たまに着るんだけど、重くてね。綺麗……なのかな?」
着ている本人にすればそんなものだろうか。物珍しさもあって、もう一度帽子を被った状態も見てみたい気がする。
話の腰を折られたササライは、気を取り直すように紅茶をゆっくりともう一口飲んだあと、再び視線をこちらに向けて告げた。
「すでに察しがついているかもしれないが、君の処遇について動きがあった。これから君が倒れていたシンダル遺跡にもう一度調査に向かうことになる。記憶を失った原因がシンダル遺跡の技術と関連性があるかどうか、確認したいとのことだ」
ディオスの横で、それを聞いたジュニアが眉をひそめた。
「あそこにもう一度……ですか? 無駄足になる可能性が高いと思われますが」
するとティーカップに視線を落としながら、ササライはやや強張った声色で答える。
「どうやら会議でのこの結論は、最初から決まっていたことのように思えた。……何らかの根回しがあったんだろう。それがどんな意味であれ、僕達はもう一度あの場所へ行かねばならないようだ」
神妙な雰囲気の中、ひとり心の中で安堵のため息をつく。今回の決定にどんな意図が含まれているのかは自分には分からないが、どうやらまだここに居てもいいようだ。
「それにどちらにせよ、近いうちに外に連れて行こうとは思っていたんだ。最近あまり元気が無かったようだから、いい気晴らしになるだろうしね」
そう言ってササライはにこりと笑う。どうやらここ数日退屈していたのが顔に出てしまっていたらしい。
内心を言い当てられ今度はこちらが困った顔をすると、何が楽しいのか、ジュニアが淹れた紅茶のおかわりを口にしながらササライは楽しげに微笑んで見せた。
2013年09月13日初稿作成
2020年07月01日サイト移転