Ⅲ ✗✗✗と✗✗✗の紋章
先日調査を終えたばかりのシンダル遺跡へと続く、秋も深まった森の中の道。実に半月ぶりに訪れた西北の街を正午に出立して、ササライ率いる調査隊は再度この森へと足を踏み入れることとなった。
神殿の指示によりこの地を訪れる事が決まった後は、ジュニアが前回と同じ配分で人員の構成と日程を速やかに組み、直ぐに問題なくクリスタルバレーを後にすることができた。
もうすぐハルモニアには、本格的な冬が到来するだろう。急ぎ所用を済ませば、雪が降る前には中央に戻れる算段だった。
隊列の後ろでラッシュと並び馬に乗って進むルディスに、そっと目を配る。やや急ぎ足の旅に、少し顔に疲れが出ているようにも見える。神殿の決定はササライだけの意思で決まるものではない為どうしようもない部分もあるが、窮屈そうに過ごしていた顔を思い出すと少しだけ申し訳ない気持ちにもなる。自分たちと出会ってからずっと、彼女は周囲に振り回されて過ごしているようにも見えた。
クリスタルバレーに着いてからは、肩肘を張らずに過ごせれば良いと色々気を配ってはみたが、この複雑な顔を持つ国での毎日を彼女が実際どう感じていたのかは、知る由もなかった。
ただ、居候先としてラトキエ家を選んだのは正解だったようだ。ユーリにはレース編みや刺繍を習っていると楽しそうに話してくれるし、メイドと一緒に作ったというプディングをお茶とともに出してくれた事もあった。ラッシュは護衛として申し分ない働きをしてくれているし、打ち解けて話す様子や並んで歩く姿はまるで兄妹のようだった。ラトキエ家も複雑な問題を抱える家だが、ルディスが来た事で良い変化が加わったのかも知れない。それを思えば、何がきっかけで親睦を深めたのであれ、多少の事は目を瞑るのもやぶさかではなかった。
実際にどのように生きるかは本人がこれから決めていかなければならないが、周囲に支えられているという意識と自分にも出来ることがあるという自信が持てれば、とりあえずはどこに居ても生きていく事ができるだろう。
「遺跡内に入った後の行動ですが、予定通りまっすぐに祭壇の部屋へ向かう、という事でよろしいですか?」
「ああ。変更はないよ、まずは問題の祭壇の調査だ。何も見つからなければ、明日以降は遺跡全体だよ」
ジュニアの確認にそう返す。それほど広い遺跡ではないと前回の調査で分かってはいたが、それでも全体を調べ直すとなると1日では足りないので、今回は2日に分けて留まる予定だった。
「やれやれ、骨が折れますね」
すると、ため息とともにそんな愚痴ともとれる言葉が返ってくる。既に調べた場所をもう一度再調査しろという命令が下されるという事は、それは上げられた報告が十分ではなかった事を示す。自らが受け持った場所を再度調査しろと言われるのは、すなわち仕事が十分ではなかったと言われるのと同じ事だ。
まだ若いジュニアには、なかなか納得して割り切れる事ではないのかもしれない。だが神殿に仕えている限り、理由が明言されない命令や本来の目的がぼかされた指示などはさほど珍しいものでもない。ひとつひとつの己の任務が完璧に認められるかどうかなど、そんな事にはむしろ執着すべきではないだろう。
問題はその命令の奥にある真意。その裏で何が動いているのかを知り全体の動きを見ることが最も重要なのだ。だがその答えに至るには、今の自分たちにはまだあまりにも情報が足りなかった。
黄金色に染まった木々の先に、見覚えのある石造りの建造物が姿を現す。目的のシンダル遺跡だ。
今夜体を休める場所として、遺跡の入り口近くに複数の天幕が張られた。これよりはモンスターを警戒して天幕を守る隊とこのまま調査に向かう隊とに二分するため、それぞれの部隊が皆一様に準備にいそしんでいた。
「そういえば君はあの時、気を失っていたんだったね。この遺跡に見覚えはあるかい?」
前回の調査で作成した遺跡内部の見取り図をラッシュと眺めていたルディスに声をかけた。水色のワンピースではなく紫色のジャケット姿に戻った彼女は、遺跡を見上げて困惑したように首を左右に振った。
「見覚えは……ない。この地図を見ても、危ない所をひとりで奥まで行くなんて出来そうもないし、どうして私はここに居たんだろう」
まるで他人の事のように歯切れの悪い物言いで、訳が分からないといった顔をする。見た事もない場所で行き倒れていたと聞かされても、現実味に欠けるのかもしれない。
「そう深く悩んでも仕方がないさ、気楽に散歩にでも行くつもりで居ればいい。精鋭のハルモニア軍と一緒なら危険な目にもまず会わないんだ、お荷物は安心して見物していろよ」
正規の兵ではないラッシュは、普段神殿では許可を得ずとも持ち歩ける短剣と投げナイフを装備しているが、遠征のメンバーとして連れてきた今は帯剣を許可しているため腰に長剣を佩いていた。
気遣いとからかいの混ざった言葉にルディスは眉をひそめる。神殿の決まりを守って武術も魔法も習得していない彼女には不本意な言葉だろう。女性と縁がない訳ではないのに特定の相手と長続きしないのは、叔父ゆずりの不躾な言動のせいだと彼は理解しているのだろうか。
「この調査が終われば、ひとまず保護対象からは外れることが出来る筈だ。そうしたら興味のある訓練が受けられるよう掛け合ってみよう。何がいいか考えておくといい」
そう伝えると、曇っていた顔がみるみる明るくなり、彼女は目を輝かせた。
「では魔法を教えて下さい! 剣士を一撃で黙らせるような凄いやつを……!」
ルディスの言葉に、今度はラッシュが頬を引きつらせる。失言の代償として逆襲される日も近いかもしれない。
「そういう用途なら雷の紋章がお薦めだよ」
無慈悲な冗談に情けなく顔を歪める様もまた、叔父とそっくりだった。
部下の成長は数少ない楽しみのひとつだ。変わり映えのしない日々をただ消費する自分とは違い、彼らの成長は目まぐるしく、努力した分だけ変わってゆく。ルディスもこれから進む道を選び、変わっていくのだろうか。そう思うと、今のどんな色にも染まっていない無力な姿も、いつの日か懐かしく思い出す日が来るのかもしれない。
敬語で話す姿に一抹の寂しさを覚えてしまうのも、きっとそのせいなのだろう。そもそも私語を許し気安く話す事にしたのは、ただその方が面白そうだからという理由だったのだが、ここ数日は明らかに他の部下と足並みを揃えようとしているのは態度からも気付いていた。周りにつられて意図せず敬語に戻るのはいつもの事だったが、最早自分は彼女にとって恩人ではなく、上司になりつつあるのかもしれない。
決して名前を呼び捨てにはしないのも、彼女なりの線引きなのだろう。これ以上個人として親交を深める気はないという、意思表示の現れだとしか思えなかった。
生まれながらの神官将として存在する自分と、気兼ねなく対等な態度で接してくれる者はここハルモニアには存在しない。だから一度でも、真似事でもいいから、ただの友人のように接して欲しいという深層意識があったのだろうか。
神官将ではなく、ただの恩人として僕を慕ってくれる存在に。
「そろそろ行こうか」
ふたりに背を向け、向かいの天幕で十人程の先発隊をまとめていたジュニアに出発の指示を出す。
「は。準備完了致しました、すぐにでも」
良い返事に笑みで答える。目の前にやるべき事があるというのはいい事だ。
今の自分には、この部下たちを全員無事に連れて帰る責務がある。彼らを安心させる為にいつもの微笑みを作ると、戦歴の神官将らしく仄暗い遺跡の中へと足を踏み入れた。
一般的にシンダル遺跡において、祭壇があるその部屋は『祭壇の間』と呼ばれている。遺跡の最奥に位置し祭壇が設置されているこのような場所はシンダル遺跡ではよく見られ、そのほとんどは何が目的で作られたのかは分かってはいない。大掛かりなものになれば真の紋章の力を増幅させるという事も可能だが、実際にそのような使われ方をしたのをこの目で見たのは、十年前のあの時、たった一度のみだった。
そういえば、あの時最期に弟が見た空の色は何色だったのだろうか。突き抜けるような青空か。それとも、この空と同じ、血のような赤だっただろうか。
前回ここに来た時と同じ夕焼け……いや、それ以上だ。正面に浮かぶ太陽は作り物のように美しく朱に輝き、空は赤褐色で塗りつぶされている。黄土色の遺跡の壁は血で上塗りされたようにジリジリと焼かれ、柱は黒く濃く影を落とす。遺跡の探索という非日常も相俟って、ただの異常気象だとしてもひどく不気味に感じる。
案の定、薄暗い回廊を抜けて眼に飛び込んできた光景に部下たちはみな呆然と佇んでいた。
「こんな空の色、生まれて初めて見ましたよ。まさか、今日世界が終わるわけではないですよね?」
「ただの異常気象だ。運が良ければ、たまに見れるものさ」
馬から降り立ち、ジュニアの的外れの言葉を否定して一歩、二歩と祭壇の間へ足を踏み入れた。
グラスランドの迷信深い民ならば、こんな時は災いを怖れて精霊に祈りを捧げるのかもしれない。だがここは大陸で最も文明が高いと称されるハルモニアだ。長年蓄積された気象観測記録から見ても、珍しくはあるが過去に何度か報告されている類のものだった。
「じゃあ珍しいんだ。綺麗だね」
「俺はどちらかというと気持ち悪いんだが……」
すぐ後ろからは、そんな気の抜けた会話も聞こえてくる。
「安全が確認されるまで、非戦闘員は入り口で待機だ。各自分散し、周囲の調査を開始する」
落ち着いた声で号令を下すと、やや尻込みしていた兵達は気を取り直したように祭壇の間へと足を踏み入れた。ジュニアとラッシュを伴い赤く染まった祭壇へと上がってみるが、一見、以前訪れた時と比べて別段変化があるようには見えない。
「やっぱり何もないじゃないですか。骨折り損だったと報告書に書いて、上に文句を入れないと……!」
憤慨もあらわに、ジュニアが大股で祭壇のステージへと近づいていく。すると彼の足がステージにかかると同時に、何かが素早く彼の前を横切った。その足がふわりと浮き上がったかと思えば、ジュニアはくぐもった声を発しながら次の瞬間、鈍い音と共に後ろの壁へ吹き飛ばされていた。
突然の出来事に、何が起きたのかも分からず辺りを見回す。
「なっ、なんだあれは……!?」
兵士のひとりが指差し、声をあげた。
足元の祭壇に変わりはない。だが、その先にそびえ立つ高く大きな柱の上部に、何かがへばりついている。それは、赤い逆光を浴びながら柱にしがみつく、巨大でおぞましい生き物だった。いや、それを生き物と呼ぶべきかは定かではない。その異形の姿を、その場にいた誰もが見たことが無かったからだ。
黒く光沢のある巨体には無数の鱗の鎧を纏い、昔グラスランドで目にした竜のような長い尾がゆっくりと揺れている。躯体から伸びた四肢は3対はある。ギラギラと赤く輝く複数の目の下には、大小ずらりと並んだ牙が大きな口から覗いていた。
それは、言葉を失い立ちすくむ兵士たちを、悠然と見下ろしていた。
「総員戦闘体勢を取れ!」
ササライの叱咤を受け、立ち竦んでいた兵たちが我に返った。続けて右手を掲げ意識を集中させると、幾度と無く紡いできた詠唱の後、土の防御魔法『守りの天蓋』が発動した。これで魔法攻撃ならば、一度だけ共に戦う部下たちを守ることが出来る。
ラッシュがササライの盾となるべく、前方へと移動し剣を構えた。被害が集中しないよう左右に展開した兵たちも、額に汗を浮かべながらも各々の得物を前方の生き物に向けている。弓兵が頭上の相手に狙いを定めて打ち込むが、固い鱗に阻まれて、あえなく矢は弾き返されてしまった。
すると”それ”は突如、五月蝿い羽虫を払うように、堅い鱗に覆われた尻尾をなぎ払った。
遺跡の壁を削りながら左から右へとしなやかに繰り出された攻撃は、逃げ場の無い閉じた空間では広域な物理攻撃へと変わる。
「ひっ!」 「うあああっ!!!!」
耳を防ぎたくなる衝撃音と悲鳴が、祭壇の間を埋め尽くした。
気付けば、避ける間もなくまともに直撃を食らったハルモニア兵たちは地に叩き付けられて、大半が気絶していた。先制攻撃を受けたジュニアも、左後方でぐったりと倒れこんでいる。ササライは咄嗟に庇ってくれたラッシュのおかげでなんとか気絶は免れたが、それでも物理攻撃によるダメージは大きく、地に伏せてなんとか顔を上げている状態だ。
強かに打ち据えられて混濁する意識の中で問いかける。この状況はなんだ、なんなんだ。姿といい攻撃といい、無茶苦茶じゃないか。
こんな生き物は、いや存在は、例えるならばひとつしか思いつかない。かつてグラスランドで3人の真の五行の継承者と共に戦った、真の紋章の化身だ。途方も無い力と荒ぶる姿は通常の生物ではあり得ない!
部屋に入った時に気配は感じなかった。いや、気配が無かったんじゃない。この異様な光景自体が、あの敵と同じ属性の結界の役割を果たしていたに違いない。ここに来た時には自分たちの感覚はすでに麻痺しており、土足で入り込み意図せず目覚めさせてしまったのだ。あの底知れない異形の獣を。
迂闊だった。一度踏破した場所の再調査に過ぎないという驕りがこの失態を招いたのだ。部下たちを生きて還すためには、何とかこの窮地を脱せねばならない。
敵から意識を離さず、周囲を目で探る。視界の端が入り口近くで動く人影をとらえた。ルディスを含めた学者など回廊に残った者達が、怯えながらも近くの負傷兵を懸命に引き入れて、手当をしていた。
出て来るんじゃない。そう思ったが、喉が乾いた音を出すばかりで掠れて声が出せない。苦しくなり咳き込むと、再度中に入ろうとする彼女と目が合った。
背中に、冷たい汗が流れた。戦いに慣れていない人間があの攻撃を受ければ、即死は免れないだろう。
「来るな……っ!」
警告を伝えるために渾身の力を振り絞り、上半身を上げて言葉を吐き出した。
すると、それを威嚇と受け取ったのか、異形の生き物はササライに狙いを定めて柱を降下し、ゆっくりと近づいてくる。
その姿を認めて、ここまでか、と覚悟を決める。
せめて敵の意識がこちらに向いている間に、無事な者たちが逃げ延びる事ができればいい。そう諦めにも似た覚悟で顔を伏せると、赤く染まった遺跡の床に影が落ちた。弾かれるように視線を上げると、逆光を浴びて立つ後ろ姿があった。
ササライ達と異形の獣との間に、ルディスが居た。
「吃驚させてごめん」
なんとかゆっくりと言葉を紡ぎ、語りかける。
距離を詰める相手の足を止めようと思わず飛び出してしまったのだが、戦うことも出来ない自分が出てきても事態が好転するとは思えなかった。
目の前の存在は途方もなく強大で、蛇に睨まれた蛙のように膝の震えが止まらない。
だが巨体のモンスターはただ不思議そうに顔を近づけるばかりで、まだ攻撃をしてくるような様子は見えない。しばらく息を飲みそのまま対峙していたが、そのおかげでなんとか声を絞り出す事はできた。
「あなたもここに迷いこんだの? 私も少し前にここで倒れてたんだ」
発せられる声に反応し、大きないくつもの眼が同時にこちらを見つめる。
伝わっているのかは分からない。だが、相手の反応などお構いなしに話し続ける。
「もし私の言っている事が分かるなら、ひとつお願いがあるんだ。この人達を見逃してあげて」
両手を広げて盾になるように立ちはだかり、意思を伝えようと声を上げる。
「寂しいなら今度は私があなたと一緒に居てあげる。怒りが治まらないなら代わりに私を殺していいよ、お腹が空いたのなら食べてもいい。だから、だからこの人たちを、殺さないで」
その言葉に偽りはなかった。本当にササライ達と過ごした時間はかけがえの無いものだった。彼らには帰る場所も待ってる人も居る。そしてそれを分け与えてくれた事に感謝している。だから今度は自分が、ただひとつ持っているこの身を差し出しても彼らを助ける番だと思った。だから仕方がないのだろう。今ここで、死を受け入れる事になったとしても。
不気味な息を吐きながら、異形の顔が近づく。白く鋭利な無数の歯が目前に迫り、思わず目を瞑った。せめて痛みは感じずに、終わりたかった。
だが瞼の裏の暗闇の中感じたのは頭から飲み込まれる苦痛ではなく、左手の甲の熱さだった。それと同時に、大量の情報が頭の中に流れこんでくる。まるで断片的な夢を次々と切り替えているような、見たこともない記憶が頭の中に映しだされる。
──天高く掲げて呪文を唱える誰かの手
───共に戦った仲間が腕の中で息絶えていく瞬間
────民衆の前で演説する黒髪の王の背中
─────目まぐるしく変わる周囲の風景、変わらない王の姿
──────そして最後は、ひとりの男の剣に貫かれて命を落とす刹那で途切れる
最後は一瞬過ぎて、その男の顔がよく見えない。でも、あれは……
「……ルディス、ルディス! おい、しっかりしろ!!」
鮮明になる意識の中、松明の光に眩しさを感じながら、目を開いた。いつの間にか意識を失っていたようで、体は遺跡の固い床の上に寝そべっていた。
対峙していたはずの獣のような生き物は姿を消しており、太陽もまた地平線の向こうへと沈んで、既にその姿を消していた。どうやら、少し時間が経っているようだった。ハルモニア兵達も互いに肩を貸し合いながら、なんとか立ち上がり始めている。
処理しきれない誰かの記憶を流し込まれた後のように、頭が痛い。朦朧とする思考の中でなんとか把握できたのは、心配そうに覗き込むラッシュ達の顔と、瞬きはじめた星空の下で、自分がまだ生きているという事だった。
ふと意識を失う直前の熱さを思い出して、左手の甲を見やる。その表面にはゆるやかに曲線を描く、まるで涙の形のような奇妙な文様が刻まれていた。
「……どうしてあんな行動に出たのか、説明してくれるかい」
シンダル遺跡からほど近い街の高台に建てられた貴族の邸宅の一室に、咎める色を含んだ声が満ちた。
以前も世話になったこの貴族の邸宅は、ルディスにとっても 数少ない馴染みのある場所だった。だが静養室で目を覚ましたあの時と今置かれている状況は、少し違う。ササライに呼ばれて訪れたこの部屋は、広さとしつらえられた高級そうな調度品からも、自分のような供の者に与えられた部屋よりも格の高い客間なのだという事が見て取れる。
そしてなによりも違うのは、向かい合う人物の表情が固く厳しいものだという事だった。
あの後、疲労困憊の一行は重い足取りで遺跡入り口の天幕へと退却した。みな魔法兵の回復魔法を受けて傷は塞がっていたが、人間の体力的な疲労というものは、きちんと体を休めて休養を取らなければ回復はしない。このまま遺跡に留まり調査を続行するのは無謀だと判断して、夜明けとともに一旦街まで戻って来たのだった。他の部下達は休養を優先させて既に各々休んでいるが、ルディスはこうしてササライの部屋で叱責を受けている真っ最中だ。
いつもはきっちりと着込んでいる軍服をタートルネックの上に肩で羽織り、寝台の上でクッションに背を預けたササライが、いつになく厳しい表情で待っているのを見た時から何故呼ばれたのかはおおよそ察しはついていた。
体を休めながらも仕事を続けていたのだろう。足の上に掛けられた水鳥類の羽毛が詰まった暖かそうな寝具の上には、カーテンから差し込む光に照らされた書類の束が散らばっている。
「君はあの時、自分の命を投げ出すような真似をした。それは理解しているね?」
いつもの穏やかさとは違う、静かな怒りの篭った口調で問いただされる。
一見年若い少年のような目の前の人物の言葉は、決して激しく責め立てるような口調ではない。どちらかというと、まるで言う事を聞かない子供を諌めているようにも聞こえる。
実際そうなのだろう。おそらく彼は少なく見積もっても20年は多く生きている。何も知らないルディスなど、言葉を喋る赤子のようなものなのかもしれない。突き刺さる視線から逃れるように目を逸らして頷くと、ふぅ、とため息がもれる音が耳へと届いた。
「僕たちはこの国に仕える軍人だ。任務に赴く者はみな、危険が付き物な事を承知の上でここに来ている。……だが君は兵士じゃない。自分の身を守る事も出来ない者が力量以上の事を成そうとすれば、無理が生じるのは当然だよ。ましてや自分の身を危険に晒すなど……自殺行為だ」
最後の弱々しい言葉と共に悲しそうな顔でササライは目を伏せる。
返す言葉もなく唇を噛み締めると、わずかに口の中に血の味が広がった。あの時の行いをそのまま表せば、その言葉通りだとしか言いようがないのだろう。けれど、聞き分けよく反省をして、もうしないと約束すればそれで終わりにしていいのだろうか。
きっとそれは違う。そんな風に割り切れなかったから、あんな無茶をしてしまったのだ。そしてその無茶の結果、理由は分からないが皆無事に帰って来れた。それは事実なのだ。反省はすれど、後悔はしていなかった。
「皆は待ってる家族や戻る場所があるから、もし死んだら悲しむ人が居るでしょう? 私は失うものは何も持っていないし、だから私ひとりの命でみんなが助かるならその方がいいと思って」
「本気で言っているのかい?」
拙い理由を繋いで説明しようと声を発すると、眉をひそめた厳しい表情を返される。怒っているようにも見えるが、だとしても何に怒っているのかが分からない。何か言い間違ってしまったのだろうか。
「こうして皆無事だったんだから間違った判断ではなかった、と思う……」
気圧されながらも弱々しく抗議すると、分かっていないとばかりにもう一度ため息をつかれる。
「被害の大小じゃない。これから君が生きていく中での意識の問題の話をしているんだ」
彼はそう話すと、翠の瞳に悲しみをたたえながら真剣な表情でこうも続けた。
「君は自分が何も失うものはないと言ったがそれは間違いだ。どんなに短い時間であっても、君と僕たちが関わった時間は消えない。君がどんなに納得して自分を犠牲にしようとも、それが当の本人達の意思を無視したものならば……それは単なる自己満足だ。残された者は他に方法は無かったのかと、ずっと己に問い続けなければならない」
優しい声で発せられる言葉は心地良く、まるで地面に染み込む雨の雫のようで。
ゆっくりと言い聞かせられるひと言ひと言に長い月日を過ごした者の重みを感じ、そしてやっと理解した。これは命令違反を咎める説教じみたものなんかじゃない。近しい者の幸せを願い、なお裏切られ残される者の言葉だ。
「だから自分の存在を軽視するというのは、周りの人間の意思を軽視する事でもあるんだ。今回君が取った行動は、そういう事なんだよ」
顔を上げササライを見ると、どこか遠くを見るような寂しげな眼差しで、細く開いたカーテンの間からのぞく青い空を見上げていた。
「ごめんなさい……」
静寂の後になんとか絞り出した言葉は掠れて小さく、ひどく頼りなく響いた。
情けなさからあふれた水は手の甲に落ちて袖口を濡らす。
心配をかけていた。
そう理解した時、己の考えの浅さに恥ずかしくなり涙があふれていた。
ただ命令を聞かなかったと批判されたのならば、その方がどのくらい楽だっただろう。優しさに甘えて厚意を受け取るばかりで、急に自分が居なくなれば誰かが傷つくなんて、考えもしなかった。
あまりにも愚かだった。検討外れの恩返しをされて、どんなに相手が傷つくかも分からいないくらいに。
もう子供ではないのに弱者を主張するように泣くのは卑怯な気がして、目頭を抑えて背筋を伸ばす。そのまましばらく沈黙が続き、お互い何も言わないまま少しだけ時が過ぎた。
もしかして涙が止まるのを待っていてくれたのだろうか。落ち着いた頃を見計らったように、普段と変わらぬ口調で手を差し出された。
「左手を見せてくれるかい」
罪悪感から大人しく従うと、手の甲の痣のようなものをじっと見つめられる。
「あの時、何か気付いた事は?」
手を取ったまま間近でされる問いかけに逡巡し、そしてかぶりを振り否定する。
「……そう。では明日以降で構わないから、紋章師の元へ行ってくるんだ。僕たちはしばらく留守にするけど街からは出ないように。いいね?」
「紋章師……? 遺跡の調査はもういいの?」
予想していなかった言葉に慌てて聞き返すと、にべもなく言い渡される。
「遺跡の調査はこちらで終わらせる。その間君はこの街で待機だ。ラッシュを残すから心配ないよ」
どうやら本物のお荷物になってしまったらしい。身から出た錆とはいえ、言い渡された無情な結論に肩を落として落ち込んでいると、席を外していたジュニアがノックとともに入室してきた。
「御報告致します。天幕にて待機していた兵十余名、明日以降出立可能です」
「分かった。ジュニアも明日に備えて早めに休んでくれ」
「は。了解しました」
返事はしっかりしているがジュニアの顔にも疲労の色が濃く残り、まだ体力が十分に戻ってはいないように見える。
「もう明日行くの? またあの変なのが出てきたら危ないんじゃ」
「いや……おそらくもう現れないだろう。それにこの任務はもう君が気にする事じゃない。時間を取らせたね、私室へ下がってくれるかい」
心配になり口を挟むと、はっきりと否定を示される。釈然としない答えに違和感を感じたが、突き放すように言われればそれ以上は踏み込めない。まだ話したい気持ちを抱えて後ろ髪をひかれながらも、部屋を後にした。
気付いた事があるかと問われた時、嘘をついてしまった。話すべきだったのだろう、倒れた時に見た途切れ途切れの夢の内容を。本当にこの目で見たかのような、妙に生々しく鮮明な幻影の数々。だからこそ、言えなかった。
最後に見た剣を振りかざす男の顔は、確かにササライに似ていた。「あなたによく似た人間に殺される夢を見ました」なんて、言えるわけがない。この事は自分の胸の中に仕舞っておくべきだろう。
長い廊下をトボトボと歩いて与えられた部屋の前へと辿り着くと、それまで無言で前を歩いていたジュニアが振り向く。
「ずいぶんとお叱りを受けたようですね。当然といえば当然ですが」
「……うん」
詳しく話す気分にもなれずにそれだけ返して俯くと、目の前に白いハンカチが差し出される。
「ひどい顔ですよ。他の者たちの前に顔を出すなら、明日の朝兵舎に来るといいでしょう」
言葉の意味が分からずやや上にあるジュニアの顔を見返すと、世話がやけるといった体で肩をすくめられる。
「命拾いした事は素直に喜ばしいですしね。あの場に居た兵たちの中には、貴女が命の恩人だと思っている者も多いんですよ。礼ぐらい言いたい者もいるでしょう」
ハンカチを受け取り礼を伝えると、ジュニアは神妙な顔でこうも続けた。
「かく言う私もお陰で命を長らえました、感謝しています。……まあ、ああいった事態への対処方法は、もう少し講じていく必要がありますが……」
そう襟足を掻いて居心地悪そうに呟く。
「うん……ありがとう」
同時に心配もかけたことは十分理解しているが、やはり感謝の言葉は嬉しかった。気遣い屋の青年の言葉に励まされて、少しだけ気持ちが向上する。
「ジュニアは紳士だから、案外ご婦人方に人気がありそうだよね。ラッシュと違って」
「や、ご婦人への気遣いと社交は貴族の嗜みですからね。それに実は私には家同士が決めた許嫁がおりまして。これが私には勿体無いくらい良い娘で、はい」
からかうような視線をなげかけると、耳を赤く染めてジュニアは照れ隠しなのか大ぶりな鼻を掻く。幸せそうな顔をされては話を切る事も出来ず、突如始まったのろけ話を全部聞き終わってから部屋に入る頃には、どっと疲れが出てしまった。色々あったせいかもしれない。
魔法を習う事。左手に出来た痣の事。信頼を取り戻す事。……殺された夢の中の男の事。たくさん考えなければならない事ができてしまった。けれど今はただ、まどろみに身を委ねたい。
柔らかいベットに身をうずめると、すぐに眠りの海へと落ちていった。
冷たい空気を頬で切りながら、朝露の残る芝を踏みしめて歩く。まだ登ったばかりの陽の光の中では、クリスタルバレーからの道中を共にしてきた調査団の兵たちがまだ早朝だというのに熱心に支度を始めている。馬の世話をする者、武器を磨く者、荷の準備に勤しむ者。それぞれ出発の準備に追われる彼等に挨拶をしながら、まだ眠そうな目をしたラッシュとともに兵舎へと足を踏み入れた。
ほどなく数人に指示を出しているジュニアを見つけて歩み寄ると、挨拶もそこそこに訊ねられる。
「それでどうでしたか? 皆の反応は」
「うん、驚いた」
正直に感じたことを述べるならばその一言だった。それまで彼ら一般兵は、同じ隊列に入っているとはいえ接点のなかったルディスを遠巻きに見る事はあっても、積極的に話しかける事はなかった。だが今日接した彼らの反応は違った。あの時祭壇の間に居た者たちは親しげに礼を述べる言葉をかけてくれ、その場に居なかった兵たちも笑顔で気さくな挨拶を交わしてくれた。
その事を伝えると、ジュニアは目を細めて満足気に口に薄く笑みを作る。
「貴女に対する印象が良い方向に向かったという事でしょう。組織の中での評価というものは瞬く間に広がります。見苦しい真似をすれば冷めた目で見られ、武勇に値すれば尊敬を集めます。これが人の上に立つうえで重要な事です。覚えておいて損はありませんよ」
ここに来いと言ったジュニアの意図を知り、もう一度周囲のハルモニア兵たちの姿を見渡す。命をかけてササライに従う彼らに仲間だと認められたと、そう受け取っても良いのだろうか。目に映る顔ぶれは同じだけれど、関係性はほんの僅かだが確かに変わった。円の宮殿では外見が違うという理不尽な理由から侮蔑の視線を受けていた事から考えても、それは感動すら覚える変化だった。
ちゃんと自分を見て評価してくれている。そう思うと、大袈裟かもしれないがそれまであった見えない壁が消えて、世界が今までよりも彩度を増したようにも見えた。
「もう少し後でササライ様がいらっしゃいます。顔を見せていかれては?」
昨日の事を思い出し、その申し出を辞退する。連れて行かないとハッキリと言われたのだから、ここに長居するのは良くないのだろう。
「気をつけて。行ってらっしゃい」
「ええ、そちらもくれぐれも無理はなさらず。ラッシュ殿頼みましたよ」
「はいはい、分かってるよ」
今の時間に街へ降りれば市場で朝食がとれるだろう。仕事へと戻るジュニアたちに手を振り、あくびを咬み殺す護衛の背中を押して白い朝日を浴びる街の中心へと歩を進めた。
*
市街地の一角に店を構える紋章師の店は、難なく見つけることができた。カウンターの奥には様々な光を発する紋章を封じた封印球が煌めき、高く登った外の陽の光も入らない薄暗い店内では、神秘的な雰囲気の紋章師が手招いていた。
「ううっ! 眩しい……! お、お名前は……!」
「うふふふふ……ジーンよ。何か御用かしら?」
「………」
豊満なラインを描く肌に布面積の少ない服を纏う紋章師を前に、ラッシュは本来の目的を忘れて見蕩れている。まだ疲労が残っているだろうに、禄に休まずに護衛として付き添ってくれているのは申し訳ないと思っていたのだが、十分元気らしい。妖艶な美貌を持つ紋章師を誉めそやしたり鼻の下を伸ばしたりと、忙しく顔を伸縮させている。
「あら、そちらは……?」
「妹みたいなものです。気にしないでください」
キリッと決め顔を作る兄貴分を冷めた目で見ていると、ジーンと名乗った紋章師はこちらの左手に視線を落とし、興味深そうに口を開いた。
「もしかして、そちらの方が御用なんじゃないかしら?」
長い銀髪を揺らしながら、ジーンは奇妙な模様が浮かんだ手を取り目を細める。
「何の紋章かご存知ですか? できれば取り外したいのですが……」
「そうね……これは何なのか、というのは、とても難しい質問だと思うわ。取り外す事もおそらくできない類のもの。固有紋章と呼ばれるものね」
固有紋章。何らかの理由で取り外しが不可能な紋章の事だ。それを宿すに至った理由は人それぞれだが、生まれながらに宿していた者、護身や特技の習得の為に後天的に宿した者、何らかのトラブルにみまわれてから外せなくなってしまった者などが宿す紋章を広い意味で指す、と書物に書いてあったのを覚えている。
「力になれなくてごめんなさいね。良ければまたうちのお店に来て見せてくれるかしら……?」
「すみません、近いうちにクリスタルバレーに戻らなければいけないんです」
見るものを虜にするような微笑みでかけられた言葉にそう返すと、ジーンはその美貌を曇らせる。
「あら、クリスタルバレーに行くの? ……それはあまり良いとは言えないわね」
「何故ですか?」
それまでのふわふわと煙に捲くような曖昧な物言いから一転、ハッキリとした否定の言葉が飛び出し驚くと、ジーンはこちらの顔をじっと見つめながらしばし考え、そしてゆっくりと口を開いた。
「この紋章について私の口から言えることは多くはないのだけれど……あの場所とは相性が良くないと思うわ」
「でも、戻らないわけにもいかないんです」
思いがけない言葉に戸惑うと、ジーンは小首をかしげながら不思議そうに問いかけてくる。
「困ったわね……どうしても、行かなければならないのかしら?」
何故かと問われ、少なからず戸惑った。
助けてもらった恩を返す為? だとしたら、命の危機を救った今回の件で返済は終わってしまったとも考えられるのかもしれない。もしそうならばササライたちの行動に付き従う理由は、もう自分には無いのではないだろうか。
自由を求めるならばこの地方都市から走って逃げ出し、他の国で生きる事だってきっと出来る。でもそれは、全てを捨てて独りで生きていくという事だ。そして短い期間で得た大切な人たちとの繋がりを捨てるという選択に他ならない。うまく言葉に出来ないが、そう考えると胸が締め付けられる。
「何でだろう……」
「なに言ってるんだ、そういう約束だからだろう」
隣から不思議そうに降ってきた言葉にハッとし、顔を上げる。遺跡の調査が終わればクリスタルバレーに戻って、魔法の訓練を始める約束だ。ユーリさんにレース編みの続きも教わる約束もあるし、メイドのばあやに料理を教わる約束もしてる。
「約束……そう、約束があるから……」
渇いた唇から絞り出すようにそう答えると「大丈夫か?」と隣のラッシュが顔を覗きこんでくる。
「そう……私が貴女の行く先を決める権利なんてないから、仕方がないけれど……これだけは覚えておいて。決して自分を見失ってはいけないわ。どんな時も強い心を持ってちょうだい……」
「……はい」
「ふふ……さようなら、かわいい継承者さま。また会いましょう」
なんとか口説こうとするラッシュを曖昧な微笑みで受け流しながら、キラキラと輝く銀髪をなびかせてジーンは優しく送り出してくれた。結局何も収穫は得られないまま、ただ心に引っかかる言葉だけが増えてしまった。
まだ昼前の賑やかな市街地の喧騒を抜けると、街を貫く小さな川に突き当たった。アーチを描く橋を渡り、その中ほどで立ち止まって手すりに腕を置いた。水面ごしに見える魚の群れをぼんやりと目で追っては見送る。
「……このままクリスタルバレーに帰るべきか、迷ってるのか?」
的を得た質問につられて顔を見上げると、同時に呆れたように笑われてしまった。どうやら、今の自分は笑えるほど情けない顔をしているらしい。
「このままじゃいけない気がするんだけど、どうすればいいんだろう」
答えを探すように、橋の下から町の外へと伸びる川の流れる先を見つめる。だが残念ながらいくら眺めても、求める答えは穏やかな流れの中には転がってはいなかった。
「そういえば、俺からはあの時の礼はまだだったな」
ふと思い出したように、ラッシュが口を開く。
「やったことは褒められたもんじゃないが、一応礼は言っておく。ありがとな」
率直な感謝を示してくれた言葉も、素直に受け取れず曖昧な相槌を打つ。
「なんだよ、浮かない顔だな」
期待していた反応とは違ったようで、ややムッとした表情を返される。
少し申し訳ない気持ちにもなったが、気の置けない仲だからこそ元気を取り繕う気にはなれなかった。ずっと役に立ちたいと思っていた人たちから喜ばれたのだから、嬉しくないはずがない。けれどたくさんの感謝の言葉をもらうほど、同時に虚しさが重くのしかかった。
一番認めてもらいたかった人に、認めてはもらえなかった。
その事実が心の片隅に刺さり続け、まるで抜けない棘のように膿んで痛んだ。
「皆は感謝してるって言ってくれたけど、ササライさんにとっては余計な事だったみたい。昨日そう叱られた。自分と周りを大事にしてないって……」
聞いてもらえれば少しは楽になるだろうか。そう感じ弱音が口をついてこぼれ出た。傍らの青年はそれを聞き頭をがりがりと掻いた後、年上ぶった微笑みを浮かべる。
「知ってるか? 実は怒ってくれる人が一番心配してくれてるもんなんだぜ。誰だって誰かを責めたり諭したりなんて嫌な役目、したくはないだろう? だから相手の為に嫌われ役をやるってのは、なかなか出来ない事だと俺は思うぜ」
訝しげな表情で見上げると、深い緑色を帯びた目が自信を湛えて真っ直ぐに視線を返す。
「損な役割も買って出てくれる人間は信用しておいて間違いないからな。今回皆がお前に感謝してるのも、損な役割を引き受けたからさ」
無謀な行動をした者を諭すのは、集団をまとめるリーダーとしては当然の行為なのかもしれない。けれど、もし自分だったら出来るだろうか。他の者たちが耳に心地よい言葉をかけあい笑顔を返される中で、真に相手の事を思うがために苦言を呈してひとり憎まれる役を引き受けるなど。
人の上に立ち、守るべきものを持つ者にしか分からない悩みなのだろう。普段は殊更年上だと意識する事はないが、やはり隣に立つ青年は自分よりもずっと大人なのだ。
「間違った方法なんだとちゃんと相手に伝わらなかったらどうなる? 今回はたまたま運が良かっただけで、毎回あんな事やってたら……いつか死んじまう」
『力量以上の事を成そうとすれば、無理が生じる』。
昨日言われた言葉が頭の中に浮かぶ。無理が生じれば、やがては命を落とす。そうならないためには、己の弱さを目を逸らさず見つめなければならない。
「私は無力で、出来ないことがたくさんある」
「ああ、そうだな。皆そうさ。自分ひとりじゃ回らないから、互いに出来る事を差し出しあって生きてる」
きつく拳を握り締めて呟くと、柔らかな声が返ってくる。自分ひとりで出来る事に限りがあるから人は他人と手を取り合い、協力しあって生きている。それはササライもきっと同じなのだろう。責務に集中するために、その他の重要性の低い物事を複数の側役の者たちが処理して彼の負荷を軽減している。
では自分はどうだろう。剣も魔法も使えない。出来ることといったら幾ばくかの雑用くらいか。本職のメイドならばそれでいいかもしれないが、期待されているのはどうやら違う。身を守る術を持たないがために、毎日ラッシュに護衛をしてもらい彼の自由を奪っている。
差し出せるものがあまりに少ないし、むしろ周りにかけている負荷が大きいようにも思える。ならば、まずは負荷を軽減する努力をするべきだ。その答えに至ると居ても立ってもいられなくなり、思わず傍らに立つ青年の腕を強く握っていた。
「今すぐササライさんと話したいから、遺跡まで護衛してほしい」
するとラッシュは面倒な事になったとでも言いたげな表情を浮かべる。
「おいおい、街から出るなって言われただろ。また叱られるぞ」
「遺跡の中には入らないし、ちゃんと理由が有ってそのために行くのであれば理解してくれる……はず。それでも怒られたらその時はその時だよ。顔色を見ながら一緒に居たいわけじゃない」
ただ守られてそこに居るだけなら、意見を主張する必要はないだろう。言われた事だけを日々こなし、相手の意見に黙って同意するだけでいい。思考すら必要ない。けれどそれは、本当に自分が望んだ事なのだろうか? そんな事を繰り返していて、共に歩む中で本当の信頼関係を築く事なんて出来るのだろうか。答えは否だ。
相手が何を望み自分が何を望んでいるのかは、きちんと声に出さなければ届きはしない。これからもそこに居続けたいと願うのならば、押し付けるのではなく諦めるでもなく、話し合うべきだ。そしてそれは、その事に気付いた今しかないように思える。
立ち止まっていたら決心が熱を失ってしまうような気がして、渋るラッシュを引きずりながら兵舎へと続く道を早足で引き返し始めた。
*
森を抜けるための護衛を兵舎で休養していた兵たちに頼むと、数人が快く引き受けてくれた。本当は街で待機するように言われている事も包み隠さず話したが、手を貸すなとも言われていないし、個人的な頼みを受けるのだからそのくらいは構わないと返事が返ってきた。
本来厳しい軍律に従うはずの彼らハルモニア兵がそんな柔軟な対応をしてくれるのは、遺跡での一件から好意をもって接してくれているからなのだろう。だが自分の無鉄砲な行動が規律を緩ませる原因になっているのだとしたら、やはり反省もすべきだと感じる。
黄金色の落ち葉を踏みしめながら森を抜けると、遺跡の入口で天幕を見張っていた兵が驚きながらも出迎えてくれた。後ろめたさから持ってきた差し入れのサンドイッチとお茶を用意して待っていると、ほどなく遺跡の中に調査に入っていた部隊が天幕へと帰還した。
「……どうして来たんだい?」
柔らかな口調ながら、笑みの消えた顔で問いただされる。短い言葉の中には、暗に『街から出るなと言ったはずだ』という意味が含まれている。それを甘んじて受け止め、まずは簡潔に要件を伝えた。
「紋章師の件についての報告と、あと大事な相談をしに来ました」
臆することなくまっすぐに翠の瞳を見つめると、目の前の人物は短く息を吐きながら額に手を当て眉間に皺を寄せる。
「分かった。場所を変えよう」
部下たちに休憩を言い渡しジュニアに後を任せると、ササライは法衣の裾を翻して天幕の向こうへと歩を進めた。天幕の横を抜けて少し進むと、遠くまで見渡せるひらけた場所に出た。元は遺跡の一部だったのだろう倒れた石柱の前で立ち止まると、ササライはこちらへ視線を送る。
「それで、どういう事かな」
線の細い立ち姿なのに、振り返った横顔からは妙な威圧感を感じる。後ろに立つラッシュを横目で見ると、両手を合わせた懇願するようなポーズで「スミマセン」と頭を下げていた。
「私が無理を言って付いてきてもらったんだ。護衛の皆は責めないでほしい」
「そうだろうね」
それ以上は何も言わずにササライはただ頷いた。良いとも悪いとも言わないあたりが余計おそろしい。くだらない用事だったら、彼等も処罰するつもりなのだろうか。
「……まず、報告から。言われた通り街の紋章師に見てもらったけれど、種類も分からないし取り外す事もできなかった。クリスタルバレーとは相性が悪いとは言われたけど、肝心な事は何も分からなかった」
ササライは腕を組み人差し指を唇にあてると、視線を外して思案するように押し黙った。この少ない情報から彼が何を考えているのかは分からない。邪魔にならないように待っていると、再び視線がこちらに戻り、続きを促される。
「………分かった。じゃあ本題に入ろうか、相談って?」
小さく深呼吸をすると、覚悟を決めて言葉を紡いだ。
「護身術として、剣の扱い方を身につけたい。だからラッシュから剣術を教わりたいんだ。稽古を受けるのがラトキエ家に戻ってからならば、神殿の許可は必要ないはずだから」
その場に居るふたりの顔が同時に見えるように身を捻ると、自分の名前が出るとは考えてなかったラッシュが虚を突かれた顔で佇んでいた。
「それは、俺はかまわないが……」
そう言うと、同時にササライへと視線を移す。彼が引き受けてくれても、上官であるササライの許可がなければこの提案は成立しない。
「それは魔法ではなく剣術をならう事にした、ということかい?」
話の流れが飲み込めないといった風のササライの問いかけを、首を振り否定する。
「宮殿では魔法を習い、ラトキエ家では剣術を習いたい。今回の件で私なりに考えた結果、きちんと自分の身を守れるようになる事が一番最初に解決しなければならない問題だと気付いたんだ。まず自分の身を守れるようになって一人前で、恩を返すとか役に立つとかはその先の話でしょう? だから、お願いします」
深々と頭を下げて願い請う。
「……だからといって、剣術と魔法の両方に手を出して上手くいくとは限らないよ。疲れ果ててどっちつかずになったら君のためにならない」
頭上からかけられた言葉には、もう冷たさは感じなかった。
「借りた初心者向けの魔道書には魔法は才能も関係あると書いてあったし……自分に何が出来るのかはまだ分からないけど、それを知るために出来る事は全部試したい」
顔を上げてそう告げると、まだ考えているようで返答はない。
「ユーリさんは私を家族同然だと言ってくれたし、ジュニアはもう身内なんだから頑張れと応援してくれた。ラッシュは口は悪いけどいつも歩く早さを合わせてくれるし、ササライさんは一番心配して怒ってくれるから、だから」
だから力になりたいのだと、一緒に居て支えたいのだと叫びたかった。でも力の無い今の自分では相応しくないように感じて言葉を飲み込む。代わりに彼の隣に並んで立ち、遺跡から見える広がる景色を望みながら話しかけた。
「私はここに居たいんだ。だから一緒に帰って頑張ることにした」
そう伝えると、ササライは表情が抜け落ちたような顔で立ち尽くしている。
「あ……ここっていうのはこの遺跡の事じゃなくて。立ち位置というか、抽象的な何かというか」
支離滅裂な事を言っていたことに気付き、手を広げて訂正する。説得に失敗したかもしれない。そう思うと次第に顔が熱くなってきて、ついにはそれを隠すようにばつ悪く下草を見詰めてしまった。
「そういう言い方はずるいよ……」
小さな声が聞こえてもう一度顔を上げると、困ったような優しい微笑みを返される。
「いいよ、許可しよう。剣術の指導に関しては僕は専門外だからラッシュに一任する。それでいいかい?」
望んでいた言葉を貰い、自然と顔が綻ぶ。
「ありがとうございます、ササライさん」
素直な気持ちでお礼を伝えると、ササライもにっこりと満面の笑みを返してくれる。そしてその表情のまま、こうも言った。
「確か…… 君の頼みを聞いたら、僕も頼み事を出来るという約束だったかな。なら、今度は僕の番だね?」
お互いに笑顔のまま、しばし牽制しつつ見つめ会う。
いつの間にそんなルールが完成したのだろう。円の宮殿での最初のやりとりの事を指しているのだろうか? 確かに一方的に頼みごとをするのは不公平かもしれないが、すごく腑に落ちない。大体彼は誰かに何かを強請ったりしなくとも、大抵の物は持っているはずなのだ。だから、金銭では手に入らないものを要求してくるに決まっている。嫌な予感しかしない。
「そうだね…… 次から僕の名前を呼ぶ時は、呼び捨てにしてもらおうかな」
飛び出た言葉に目を丸くする。貴族や高官の間で流行ってる遊びか何かなのだろうか? どういうつもりかは知らないが、年の離れた相手を呼び捨てにする趣味は今のところ持ってはいない。助けを求めるようにラッシュを振り返ると、まったく同じタイミングで顔を逸らされる。見捨てるなんて薄情な男だ。やはりあいつは信用ならない。
「……怒ってるんですか?」
「敬語はやめにするって、決めたはずだよね?」
貼りつけたような完璧な笑顔で指摘される。
これは怒っている。そして本気だ。
「……分かった。次からはそうする」
早々に観念して長い息を吐きながら同意すると、ササライはいつもの微笑みに戻って楽しそうに天幕へと歩きだした。
「楽しみだなあ。呼び捨てされるのはもしかして初めてかもしれない」
屈託なくそう言いながら進む彼の足取りは軽く、真意が掴めない。命令を無視して追って来た事を怒っていたわけではないのだろうか。
「今度からちゃんと大事な事を決める時は相談するので、勘弁してほしいんですけど……」
「敬語は禁止だよ」
駄目押しで謝ると優しく諌められる。敬語を使用すると、ちゃんとした返事をもらえないルールも完成したらしい。
天幕の側、シンダル遺跡の入口では傾き始めた日の光に照らされて、街から付き添って来てくれた兵たちが、戻る準備を済ませてルディスたちを待っていた。
「もう明日か明後日にはこの遺跡ともお別れだ。そうしたら」
ササライが立ち止まり、振り向く。
「帰ろう、クリスタルバレーに」
「うん」
当たり前の事を言われ、短く同意の返事を返す。ちょうど真向かいにある日の光が眩しくて、手をかざして目を細めた。だからそれは、ただの目の錯覚だったのかもしれない。
眩しい逆光で霞む中見た微笑みはとても優しく、そしてどこか寂しげだった。
2013年10月13日初稿作成
2020年07月01日サイト移転