Ⅳ 謁見

公開:2020年6月1日最終更新:2020年9月25日
1、一つの神殿

 

 

本の山に囲まれながら、ひとりの青年が退屈そうに一冊の本を読んでいる。

しかし表紙に『紋章学の基礎』と書かれたその本をやおら閉じると、もう十分だと言いたげに横へと押しやってつまらなそうにため息を吐き出してしまう。

「やれやれ、俺は紋章のことはさっぱりなんだが

円の宮殿の北に隣接する巨大な知の集積所、”一つの神殿”の一室。紋章関連の書物が収められている一角に、テーブルに積まれた大量の本に埋もれる二人組の姿があった。

灰に近い程くすんではいるが金の髪を持った青年と、黒髪を長く伸ばした妙齢の女性。双方とも本来ならば、人種による厳格な階級を敷くハルモニア神聖国においては蔑視の対象ともなり得る外見だが、周囲の者たちが彼らの事を気にしている様子はない。本を手に取り熱心に調べ物をしている他の来訪者たちも、銀や赤など様々な色の髪を持ち、人種を問わず多くの者たちがこの施設を利用していることが見て取れる。

旅行者や二等市民にも解放されている一般書架への来訪を嫌うのか、むしろ貴族の姿の方が少ない印象だ。

ここ一つの神殿はハルモニア神聖国が有する、知識の収拾と保存を目的とした施設である。国内外の貴重な資料が永い年月をかけて蓄積されたその様子はあらゆる知識が集まると称されるほどであり、留学や調べ物を目的とした他国の人間も数多く足を運んで来る。

広い神殿内には研究施設や学術機関なども存在するが、その大部分を占めるのは膨大な蔵書を収蔵した図書区画だ。

手書きと木版でのみ少部数発行される本は、とても貴重な物とされている。売買目的の交易品として人の手を渡り歩いたあと、最終的には行政機関や教育施設に買い取られて納まるのが常であり、一般市民が目的に適う本を手に取って読むことは容易なことではなかった。そういった意味では、一つの神殿は規格外の場所と言える。おびただしい数の本は規則正しく並んだ飴色の本棚に納まり、それらが目眩めまいがするほど高く作られた天井に届きそうなほど、びっしりと並んだ光景は壮観だった。

その本棚の手前、利用者の為に用意されているテーブルの一つを陣取って分厚い紋章学の本を読みふけっていたルディスは、向かい合う人物があげた情けない声につられて顔を上げた。

「私も難しいところは分からない」

同意すると、青年からは苦笑いが返される。

「さっきから流し読みしてるように見えるが、それで見つかるのか?」
「本の数が多すぎるし、珍しい紋章なら図案から探した方が早いかと思って」

背伸びをする青年にそう返すと、そうかもなと呟き彼はルディスの左手へと視線を落とした。そこには白い手袋がはめられおり、手の甲にあるはずの紋章は今は姿を隠している。手袋の裾から見え隠れする手首には、気休め程度の意味合いで着けている魔力封じのアクセサリーが揺れている。念のため人目には晒さない方が良いとのササライの判断に従ったかたちだ。

何が起きるか分かるまでは使用は禁止されているので、この紋章で魔法を発動した事はまだ一度もなかった。

シンダル遺跡を訪れた際に事故のような経緯で身に宿したこの紋章については、ハルモニア随一の魔術師である彼でも判別がつかないとの事だった。ササライが知らないのなら他の者が知る由もなく手をこまねいていたのだが、仕事の合間に高官のみが閲覧可能な専門書を取り寄せて調べてくれている事を知って、無駄かもしれないが一般書架で自分でも調べることを願い出たのだ。快く許可を出してくれたのは、気持ちを汲んでくれたからだろう。

答えそのものを発見できなくとも、何かきっかけでも得られればと思ったのだが。そう甘くはなく、何も手がかりは得られず時間だけが過ぎていった。読み終わった紋章術の本を一冊既読のタワーに追加すると、今度は目の前の古めかしい本を手に取った。その本の表紙にはこう記されている。

『創世の物語』

この世界のはじまりを記したとされる詩と、その時に生まれたとされる真の紋章について書かれている本だった。

最初に『やみ』があった。
『やみ』は長い、長い時のはざまに生きていた。
『やみ』はあまりに長いあいだ
さびしさの中で苦しんだために、
ついに『なみだ』をおとした。
『なみだ』から二人の兄弟が生まれた。
『剣』と『たて』である。
『剣』は全てを切りさくことができると言い
『たて』はいかなるものにも
傷つけられないと答えた。
そして二人は戦うこととなった。
戦いは7日7ばん続いた。
『剣』は『たて』をきりさき、
『たて』は『剣』をくだいた。
『剣』のかけらがふりそそぎ空となった。
『たて』のかけらがふりそそぎ大地となった。
戦いの火花が星となった。
そして、『剣』と『たて』をかざっていた27の宝石が
27の真の紋章』となり、世界が動きはじめたのである。

本自体は古いものだが、民間でも出回っているので特に珍しい物というわけでもないらしい。なにせ子守唄代わりに伝承されている、子供でも知っているおとぎ話なのだ。

内容は抽象的すぎるし、何故剣と盾が砕けて空と大地になるのかも分からない。神話とは得てして人には及びえぬ世界を描いたものなのだからそういうものなのだと言われたら、そういうものかと納得するしかないのかもしれない。だが、人々がこの神話をただのおとぎ話だと切り捨てる事が出来ない根拠が存在する。

27の真の紋章。世界の創世記から存在し、森羅万象すべての力の根源であるといわれるこの紋章は実在するのだ。

──真の紋章には意思があり宿主を選ぶ。

──選ばれた者は不老と強大な力が得られるが、同時にその身に呪いを受ける

──歴史の表舞台に出ることで数多の戦乱が引き起こされる

まことしやかに伝えられるそれらの情報は、噂話の域を出ない。なにしろ絶対数が少ないので、目にする事はとても稀なのだ。

その一方で、ハルモニアをはじめとした各国で管理されている真の紋章も存在する。最後のページには過去実在した事がハルモニアで認められた、11のその名が記されていた。

南の大国、ファレナの女王国に代々伝わる〈太陽の紋章〉

門の紋章戦争の発端となった〈門の紋章〉

トラン共和国の竜騎士団長が宿す〈竜の紋章〉

今は亡き赤月帝国の最後の皇帝が所持していた〈覇王の紋章〉

トラン解放軍のリーダーが宿していたとされる〈生と死の紋章〉

故ハイランド王国ブライト皇家が管理していた〈獣の紋章〉

デュナン統一戦争時にふたりの少年が分け宿したという〈始まりの紋章〉

グラスランドの『炎の英雄』の象徴〈真の火の紋章〉

ゼクセン騎士団長が英雄戦争時に受け継いだ〈真の水の紋章〉

ハルモニア神聖国神官長ヒクサクが500年近く所持しているという〈円の紋章〉

そして、ハルモニア神聖国神官将ササライが国より貸与されている〈真の土の紋章〉

そのほとんどは過去の戦乱の中で確認され、時が流れた今は行方知れずのものも数多い。歴史の光と影の中で現れては消える真の紋章。その居所は移ろいやすいとされ、ササライのように表立って長く所持している者の方が珍しい。

そしてその真の紋章を、ハルモニアは集めている。

戦乱の芽を摘むためとか、強大な力だからこそ安全に管理すべきとか色々言われてはいるが、どこまでが本心でどこからが建前なのかは分からない。だが多くのハルモニアの民は、それが国を豊かにするものだと信じて疑わないのだ。だからこの国に生きる人々、少なくとも特権階級の者たちは、長い歴史の中で絶えず繰り返されてきた、”真の紋章狩り”という名の他国への侵略に疑問を抱かない。

その国策のしわ寄せを最も受ける三等市民や亜人奴隷達が、どう感じているのかまでは分からないのだが

路地の奥で会った孤児の姉弟を思い出して落ち込みそうになるが、頬を叩いて目を覚ます。他者に手を差し出す余力など、今の自分は持ってはいない。まずは自分の問題を解決しなければ、誰かに力を貸したいという気持ちも傲慢に過ぎないのだろう。

「ん? 何だ呼び出しか?」

頬杖をついて居眠りを始めようとしていたラッシュが突然声をあげる。入り口を見ると、執務室に居るはずのジュニアがこちらを探して視線を巡らせていた。軽く手を振り居場所を知らせると、青い軍服を着たジュニアが踵を鳴らして早足で近づいてきた。

「急務です。すぐに戻るように、と」

硬い表情のジュニアに手を引かれて席を立つと、ラッシュが慌ててそれを制止する。

「お、おい! この本の山はどうするんだよ!」
「悪いのですが、それどころではないので。後はよろしく頼みますよ」

余程急いでいるらしく、ジュニアは動作を止める事なく、顔を引きつらせて縋りつくラッシュを振り払う。半ばジュニアに引き摺られながら廊下へと出ると、退出したばかりの後方の書庫からは、ひとり残された青年の嘆く声と、その声の大きさを注意する司書の声がこだましていた。

道すがらジュニアに用件を尋ねても、ここでは伝えられないの一点張りで頑なに話そうとはしない。仕方がないので一刻も早くササライの執務室へ戻るために、円の宮殿へと続く長い渡り廊下を早足で歩いた。

温かい建物の中から急に外の空気に身を晒すと、その肌をさすような空気の冷たさに思わず身震いをする。クリスタルバレーに戻ってまだ間もないのに、もう外套が必要なくらいの寒さだ。等間隔に並んだ石柱の間から空を見上げると、機嫌の悪そうな灰色の雲が空を埋め尽くしていた。もしかしたら夕方には雨になるかもしれない。

歩き慣れた円の宮殿の廊下を通り過ぎて、いつもの執務室の扉へと辿り着く。ジュニアに促され中に入ると、深刻な表情を浮かべたディオスとササライが待っていた。

「急に呼び戻してすまなかったね」

短い言葉とともに向けられた焦燥にも似た不安げな眼差しに、只事ではない何かが起きていることを咄嗟に理解した。こんな表情の彼らを見るのは、ここに来てから初めてだった。

「ルディス、これから僕が言うことを落ち着いて聞いて欲しい」

目を合わせながら頷くと、ササライは意を決したように言葉を続けた。

「神官長ヒクサク様が君を喚問なさった。ハルモニアの法に従い、君は今から宮殿の最奥ヒクサク様の面前へと赴かねばならない」

事態がよく飲み込めずに立ち尽くしていると、横に控えるディオスが補足する。

「高位の神官でも拝顔を許されない、このハルモニア神聖国の国主が貴女を呼んでいる。これは大変な名誉であると同時に重大な責務である。我々に拒否権はない」

ハルモニアは宗教立国なので正確には違うだろうが、君主制の国で例えるならば王様に呼び出しを受けたという事だろうか。以前の自分と比較しても思い当たる理由など、一つしか思い浮かばなかった。

「これが理由?」

左手を軽くあげると、ササライが複雑そうに同意する。

「恐らくそうだろう。これでその紋章が27の真の紋章のひとつだという事がほぼ確定した。これは君の処遇を決める大切な謁見になる、早まった事をしてはいけないよ」

まるで奔放な娘を案じる父親のような物言いでササライは諭す。少年のような見た目と一致しない保護者然とした言動がおかしくて口元を緩めると、張り詰めた空気がほんの少しやわらぎ、困ったような顔で肩をすくめられる。

「重要な話なんだ。ちゃんと聞いてくれるかな」
「ごめんなさい、分かってる」

嘲笑ったわけではないことは理解してくれているようで、謝ると呆れたような笑みを返される。

真の紋章かもしれない、などと言われてもまったく現実味が湧いてこない。本に書かれていたような強大な力や呪いは、途方もなさすぎて乏しい想像力では追いてこない。もしそうならきっと今よりは使える人材になれるに違いない、という事ぐらいしか思いつかないのが正直なところだった。

それよりも、現状をどう乗り切るか相談するのが先決だろう。

「気をつけるべき点があったら、教えてほしい」

手を胸元に添えて教えを請う。礼儀作法が未熟なのはもう仕方がないので、見逃してもらえる事を期待するしかないのだが。

「君に何か助言をしたいのは山々なんだが僕はヒクサク様に御目通りしたことはないんだ」

目を伏せ申し訳なさそうに返された言葉に、少なからず驚いた。この国のナンバー2とも言われているササライさえ、会ったことがない?

以前ジュニアが言っていたことを思い出す。神殿派と民衆派の対立の理由のひとつは、神官長ヒクサクが表に姿を表さない事なのだと彼は教えてくれた。比喩でもなく本当に100年近く誰も顔を見ていないのならば、すでに人知れず死んでいたとしてもおかしくはない。今回の呼び出しは本当に神官長ヒクサクなのだろうか。疑問に思いそう伝えると、軽く頷きササライは口を開く。

「ヒクサク様がご健在かどうかについては、もちろん疑っている者も多い。背信者の疑いをかけられる可能性もあるから大きな声で話すべきじゃないけどね。特に宮殿内では禁句だから、この部屋の外では口にしてはいけないよ」

軽々しく口にするものではないと、やんわりと窘められる。

「結論から言うとご存命でいらっしゃるし、今回のお言葉も正式なものだよ。僕自身は拝謁する機会を得る事はなかったが、過去に謁見し勅令を受けたという者は存在した。そしてその者は、それが真実だと納得できるだけの神殿の助力を得ていたし、信じるに足る根拠も持っていた。僕らはそれらすべてがその者の狂言だと断言することは、不可能だという結論に至ったんだ。だからこそ今回の謁見は、その時と同じかそれ以上の重要な意味を持っていると僕は考えている」
10年前のあの時と同様の、ですか」

それまで黙していたディオスが重い口を開き問いかける。

「そうだね。杞憂であれば、良かったんだけれど」

ふたりの間でかわされるやり取りは、昔を知らない自分にはよく理解できない。ジュニアも同様に戸惑っているようで、目が合うと小首をかしげて頬を掻いていた。

「質問に落ち着いて答えられればそれで十分なはずだ。僕たちは君が戻るまでここで待っていよう。だから、心配しなくていい」

そこには先程の不安気な眼差しはすでに無く、ササライの表情にはいつもの柔らかな微笑みが浮かんでいる。心配をかけないために、強がりではあるが同じように笑みを作り頷いた。

来客を告げるノックが2度、鳴り響く。

扉を開けると、高位の身分を示す法衣を纏ったひとりの老齢の神官が佇んでいた。彼はルディスとその背後に居るササライに順に目を配ると、重そうな瞼をのせた目を細める。

そして手を組み、ひどく年季の入った動作で一礼した。

「お迎えに参りました。神官長様がお待ちで御座います」

 

 

2、謁見

 

 

前を行く年老いた神官が音もなく歩く。

いくつもの回廊を進み、水晶の城の奥地へと誘われていく。導かれるまま道を辿り、そして気付いた。ササライの執務室を出てから自分たちは誰ともすれ違っていない。いつもせわしなく宮殿の中を行き交う神官たちは、どこに行ってしまったのだろうか。

人気の失せた青い回廊は、まるで見知らぬ場所のようにその無機質さを際立たせる。やっと馴染んだと思っていた円の宮殿の空気がまるで拒絶するように冷たく感じられ、振り払うように小さく身震いをした。それほど歩いていないはずなのに、ずいぶん遠くに来てしまったような錯覚さえ覚える。もうこの万華鏡のような建造物のどこを歩いているのかも検討がつかなかった。

幾度目かの扉が開き突然目の前がひらけた。円を描く中庭が現れ、その中心を貫くように真っ直ぐ伸びた道筋が示される。その終着点、固く閉ざされた重々しい存在感を放つ扉の前で案内役は立ち止まった。それまで一言も発しなかった老体の神官がゆっくりと身を返してルディスへと向きあう。

「此処で起きた事、見聞きした事、決して口外しては成りませぬ」

しわがれた声で淡々と紡がれた言葉は、空気を震わせ低く響く。鮮やかさを失って久しい水色の瞳は、従うのが当然と言わんばかりに冷ややかに濁っていた。返答は求めてられてはいないようで、言い終わると反論する暇も与えず神官は何もなかったかのように扉へと意識を戻した。

深く皺の刻まれた手がかざされるのと同時に、重い音を立てて奥へと続く道が開かれる。境界線を越えて中へと一歩足を踏み入れると肌が粟立つような違和感を感じ、思わず立ち止まった。

「どうかなさいましたか」
「いえ何でも、ありません」

頬を手のひらでさすり違和感の正体を探るが、何が起きたのかは理解できなかった。例えるならば、静電気が全身で起こっている感覚に近い。全身を走った悪寒のような気持ち悪さは残っているが、表面上は何も変化は見られなかった。

重い空気を吸込み、気持ちを切り替えてこれから起こる出来事に集中する。

一際広く長い回廊の正面に、長く時が止まっていたかのような色褪せた大扉が見えた。それが円の宮殿の最奥、神官長ヒクサクの謁見の間なのだろう。

「お連れ致しました」

先導の任を終えた神官が恭しくこうべを垂れた。それと同時に、重い音を立てて重厚な両扉が開かれる。

蒼玉のステンドグラスが円の模様を映し出す仄暗い空間のその奥、白い帳を隔てた向こうに玉座に坐る者の気配があった。

ハルモニア神聖国建国の英雄

500年近くを生き続ける現人神

この世界の法と停滞を体現する円の紋章の継承者────

神官長ヒクサク

静謐な空気が包む中、来訪者は部屋の中央で足を止めた。

何もない広々とした部屋の両脇には、案内役を務めた神官と同じ法衣を身につけた数人の男達が、目深に被った帽子の影に目元を潜めて並んでいる。

「初めまして、ルディスと申します。お目にかかれて光栄です」

女性が姿勢を正して会釈をすると、部屋の隅に控えていた神官のひとりが慌てて駆け寄る。

「構わぬ」

突如降った言葉に、謁見の間は水を打ったように静まり返る。膝を折ることもなく許しも得ずに話し始めた無礼者を諌めようと駆け寄った神官は、その声に従い静静しずしずと引き下がった。

「混沌をその身に宿す者よ、黒の異邦者よ。よくぞその稀なる紋章を持ち帰った。それだけで寛恕に値する。我が名はヒクサク。法を体現する者である」

よく通る涼やかなテノールが壮厳な空間に響き渡る。

「その手に宿し真の紋章を掲げよ」

低く威厳に満ちた青年の言葉は有無を言わせない凄みを含んでいる。ルディスがそれに従うように手の甲を正面へかざすと、神官たちの食い入るような視線が掲げられた左手へと注がれた。

「其の紋章はこの国を打ち建てる際に相まみえたアロニアの統治者が所持していたものだ」

抑揚を持たない声音が事も無げに告げる。かつてこの北の大地を焼き、太陽暦-2年に終結したハルモニア建国戦争。遥か過去の時代に北大陸のほぼ全域を支配していたと言い伝えられるアロニア王国は、現在のハルモニア神聖国の母体となった神聖軍の勝利によってその歴史に幕を閉じた。いまや昔話に語り継がれる古の国の名が出た事に、ルディスは意表を突かれた表情を浮かべて白い薄絹の向こうをじっと見つめ返した。

「歴史的価値の上でも重要なものであることは理解いたしました。ですが、私たちの知る限りどんな文献にも手がかりとなるものは残ってはおりませんでした」
「他の紋章ならいざ知らず、其の紋章に関する情報を安易に公表することは罷り成らない」

浅く息を吸う音の後、彼の神官長は言葉を紡ぐ。

「其れは法を体現する我が『円の紋章』と対を成す、混沌を体現する『涙の紋章』だ。此等創世の剣と盾を司る紋章を二柱の真の紋章と云う」

27の真の紋章はそれぞれが強大な力を持った、世界の根源そのものだとされている。属性による相性や能力の発露の仕方の違いはあるにしろ、すべてが人智を超えた神の力だ。ヒクサクの物言いは、取り様によってはその二つにそれ以外の役目がある事を示唆しているようにも聞こえる。

ルディスは返す言葉も見つからないようで怪訝な顔をしているが、姿を隠し続けるヴェールの向こうの人影は淡々と言いを放つ。

「力を使いこなし其の紋章を制御する術を真の土の元で学べ。その身は既にこのハルモニアのものなのだから」

それはこの国を統べる神にも等しい存在に相応しい、傲慢で一方的な言い渡しだった。ハルモニア神聖国で生まれ育った者ならば一も二もなく平服し受け入れるだろう。疑問など持たず、ましてやそれを口にするなど考えるだけでも恐ろしいと感じるに違いない。

だが今まさにそれを命じられた当人は、未だこの国の恐ろしさを知らなかった。まだ外の世界の恐ろしさを知らぬ鳥の雛のような一点の曇りもない漆黒の瞳で、紗を見返す。

「ササライ様に魔法を教えて頂けるのはとても助かります。ですがこの国の為に力を使うかどうかは、今はお約束できません。私はまだこの国の人間ではありませんので

不遜な物言いに控えていた神官たちの間には低い波のようなざわめきが生まれる。不穏な空気が満ちた空間に、ざわめきを掻き消すかのような微かな吐息が漏れ聞こえた。

「良いだろう、遠からず選択する時が来る。今日の所は此処までだ」

気を悪くした様子もなく、幾分含みをもたせた声色でヒクサクは言葉を切った。謁見の終わりを示す言葉を受け、帰り道の案内役となる神官がルディスの背後へまわる。

それに従い踵を返そうと体を半ば後ろへ反転させていたルディスは、思い出したように薄絹の向こうの人物へ声を投げかけた。

「最後に質問させて頂いてもよろしいですか?」
許す。言ってみろ」

彼等の感覚で言えば礼を失する振る舞いを重ねる来訪者に、神官達の口には次第に苦い感情が滲み出て来ているが、ルディスは気付いていないのか自らを呼び出した天上人にこう投げかけた。

「お声がササライ様に似てらっしゃいますね。お二人はどのようなご関係なのですか?」

数人の神官が息を飲み、言い得ぬ緊張感がその場を包む。

しばしの静寂の後、玉座に佇む人影がゆっくりと口を開いた。

あれは私の庶子にあたる。公にはしていないがな」

それまで感情を感じられなかった声色が一段低く、深く響いた。

するとその答えに納得したように頷いたルディスは続けて問いかける。

「ここでお話した内容は他言してはならないと事前に申し渡されたのですが、お世話になっているササライ様にはこの謁見の内容をご報告させて頂きたいのですが、駄目でしょうか?」

構わん。下がれ」

厚顔無恥な頼みごとを冷い声で切り捨てると、今度こそ終わりだとばかりに退室を命じる。

「お話ありがとうございました。失礼します」

白い帳に向かい合い深く礼をして退室の挨拶を済ませると、ルディスは今度こそ振り返る事もなく先導の神官に続いて謁見の間を後にした。

壇上から側役の神官達に手振りで指示が出され、空間を隔てていた薄絹の帳が取り払われる。謁見の間にひとり残された神官長は白銀の高御座の上から、傍若無人な拝謁者がつい先程まで立っていた場所を無言で見詰めた。

「己に宿った力ではなく、あれのことを尋ねるか

しばらく頬杖をついて無表情で佇んでいた青年は、神官将ササライとよく似た端正な面立ちを崩すことなく、ぽつりと感情の読み取れない声で呟く。そして気怠げに法衣を翻して立ち上がると、玉座を後にして青き宮殿の最奥へと消えて行った。

誰も居なくなった謁見の間には誰に伝わるでもない独り言だけが残り、やがて静謐な空気と溶け合い消え失せた。

 

 

 

 

お話しした内容は、これですべてです」

謁見についての報告がひと通り終ったと判断すると、目の前でほのかな湯気が立ち上る温かいお茶に口をつけた。薔薇を配合したというその紅茶に唇が触れると、渇いた表皮が潤いを取り戻してかぐわしい花の香りが鼻孔を突き抜けていく。

幸せのあまり自然と目尻が下がってゆく。長い会議のあとに飲む紅茶の味というものが、少しだけ理解できたような気がした。

「本当に約束できないと、そう返答したと!?

ディオスが白磁のポットを片手に、唖然とした表情で大きく目を見開いている。肯定の返事を返すと、額に汗を浮かべながらルディスの向かいのソファに腰を下ろしているササライへと彼は何かを言いたげに視線を移した。神妙な顔で報告を聞いていたササライは視線のみで副官の無言の問いを受け止め、取り乱す事もなくテーブルの上へと再び視線を戻す。

「その場で咎めが無かったのなら、ひとまずは大丈夫だろう。勅を拒むなんて前例が無いから、それ以上は何とも言えないけどね

その言葉にそっと胸を撫で下ろす。ルディスが恩義を感じているのはハルモニアという国ではなく、ササライ個人だ。だからこそ、無条件でこのきな臭い国の道具になるのは、出来るならば避けたかった。意思表示を示した事を後悔こそしてはいないが、彼等に迷惑がかかるのも避けたいというのも、また本心だった。

ディオスもまたホッとした表情を浮かべると、ポットの紅茶をササライの前の空になっていたカップへと注いだ。有事には参謀長としてハルモニア正規軍を率いる高級将校だという彼に給仕をさせるのはなんだか悪い気もしたが、報告の間はジュニアもラッシュも別室で待機を命じられているので他に頼める人もいない。それに本人も別段嫌な顔はしていないので、ルディスもまた気にしない事にした。

用意されていたクッキーに手を伸ばしながら、謁見の最後に交わした問答を思い出す。

「ジュニアとディオスさんもそうだし、ここは血縁で勤めてる人が多いんだね。お会いする前にお父さんだと教えてくれても良かったのに」

何気なくそうこぼすと、ササライは目に見えて硬直し目を見張った。

「ヒクサク様がそう仰ったのかい?」
「うん。お顔は分からなかったけれど、声が似てますねって言ったらそう教えてくださったよ。公にはしてないとも言われたけれど」
そうか」

目の前の人物は力ない声でそう返すと、両手を固く握りしめて困惑と哀愁の入り混じった複雑な表情で俯いてしまう。その表情を目にして、立ち入ってはならない話題に自分は足を踏み入れたのだということを瞬時に理解してしまった。

「ごめんなさい。また勝手に立ち入った話を

思えば、ディオス親子やラトキエ家について話してくれることはあっても、彼自身の家族についてはササライは一度も触れた事はなかった。

紅茶が好き。掃除が苦手。すごい魔法使いで偉い役職に就いている。

恩を返したいとか傍で役に立ちたいとか言いながら、そのぐらいの事しか彼を知らない。

意図せず新たな一面を知った事に無意識に浮かれてしまったのかもしれない。けれど、無理に聞き出して困らせたくはない。心を暴きたいわけじゃない。そんな悲しい顔をさせたくはなかった。

「いいや、君が悪いわけじゃない。ただ意外だったんだ、ヒクサク様がそんな風に仰るなんてね

翠の瞳を揺らしてササライは皮肉めいた嘲笑を浮かべる。口元は微かに笑みを作ってはいるが、悲しげな目は笑っていなかった。その表情の意味を理解できるほど事情を知るわけではないルディスには、彼を慰める言葉は見つからなかった。

君が宿したその紋章はやはり真の紋章だったようだね。この宮殿は円の結界が張られた場所だから魔力は抑えられているし、まだ実感がわかないだろうけどこれらは持ち主に大いなる力を与えると同時に、呪いをもたらすとされているんだ」

表情を戻してササライはその手に宿る〈真の土の紋章〉を示す。居た堪れない空気を変えるためか矛先を変えた話題に戸惑いながらも、一つの神殿で読んだ本の内容を思い出す。

「呪い
「その紋章の性質にもよるけれど、真の紋章それぞれが独自の意思のようなものを持っており、力をより誇示する為に持ち主に頻繁に己を行使させようとするんだ」
「いつもは外しておいて、必要な時だけ使うことは出来ないの?」
「市井に流通している紋章とは違って、真の紋章は基本的に一度宿したら外すことは出来ないんだ。強大な力が与えられると同時に、生涯をかけて向きあっていかなればならない。これはそういうものなんだよ」

そう言い、右手に刻まれた赤みがかった黄金色の紋章を彼は指先でなぞった。自らの左手に在る同様の存在を、不思議な気持ちで同じように指の腹で撫でる。

「それと、歳を取らない」
そうだね。ヒクサク様は500年近くこの国の頂点に君臨し続けているし、吸血鬼の始祖となった〈月の紋章〉の継承者はより長い時を生きているとも聞く。これは理由はハッキリしていないが、より長く紋章の力を使わせる為ではないかとも言われている。真の紋章の継承者は、歴史上を見てもそうそう現れるものじゃないからね」

500年、もしくはそれ以上の時を生きる。それほどの長い時間を変わらない姿で生き続けたとして一体何をすれば良いのだろう。歴史書に名を連ねる英雄たちのような大それた野望も、身を切る願いも、何も持ってはいないというのに。もしもいま何かを願っても良いというなら、たったひとつしか思い浮かばなかった。

「もしかしてずっと一緒に居て、役に立てる?」

半信半疑で小さく呟くと、意外な言葉を聞いたようにササライは呆けた表情を晒す。それはまるで見た目どおりの少年が驚いた顔のようで、可笑しくなって思わず笑いかけた。

「それはそうだね、大切な事だからよく考えてみるといい

彼にしてはめずらしく視線が泳ぎ、言い淀んだ言葉が曖昧に濁される。しかしすぐに気持ちを切り替えたように、いつもの品の良い微笑が浮かんだ。

「本当にご苦労だったねルディス、きっと疲れただろう。今ラッシュを呼ぶから今日のところは帰ってくれて構わないよ」

そういうや否や、ディオスが人を呼びササライの指示を伝える。程なくラッシュが扉の間からいつもの気の抜けた顔をひょっこりと覗かせた。まだ夕方前の筈なのに、窓の外はどんよりとした雲のせいで大分暗くなってきている。体よく追い払われた気がしないでもないが、確かに今日は早目に帰るべきかもしれない。

「では、お先に失礼します」

扉の前でふたりに軽く一礼をすると、ササライが愛想よく手を振るのが見えた。

「気をつけて帰るんだよ」

ササライの送り出す言葉のあとに、軽い開閉音と共にすぐに扉は閉まった。それまで無言でその様子を眺めていたディオスはすぐさまササライへと向き直ると、おもむろに口を開いた。

「あの娘、これからどうなさるおつもりですか?」
「正直、どこか安心できる所に嫁いでくれるまでラトキエ家に預けて見守ろうと考えていたんだが

乾いた溜息を吐き出して足を組み直すと、ササライは神官将のそれに切り替えるかのように表情を引き締めた。

「こうなってしまっては話は変わってくる。政に巻き込むのは本意ではないけれど、そうも言ってはいられないだろう」
「このまま手元に置いて置く事に異存はありません。今や、手放した方が損失は大きいでしょう」
「そうだね不幸中の幸いと言っては何だが、神殿派の駒にならずに済んだんだ。ハルモニアに仕える気があるならば、行く行くは神官将にだってなれるだろう」

ササライはゆったりとした動作でカップを口元に運ぶと、ディオスのそれに同意する。

「気になる事がないとも言えないんだけどね
「上の命令に真っ向から反発するなど、およそこの国では有り得ませんからね。真っ直ぐで嘘をつけない生き方は、あのボロ城で会ったグラスランドの民たちを思い出しますな」

ディオスは遠くを見るように目を細めると、かつてササライと共に駆け抜けた彼の地の名を懐かしそうに呼んだ。

「空気が読めないという意味なら、昔の君も大概だったと思うけどね」
「最近年のせいか、とんと物覚えが悪くなくなりまして。子供達の小さい頃ならば昨日の事のように思い出せるんですが」

付き合いの長い上司との言葉遊びは慣れたもののようで、ディオスはさらりとササライの皮肉をかわすと子を持つ親らしい言い訳を述べる。

「ふふそういう事にしておこうか。ともあれ、どうやらあの子は僕たちとは異なった価値観に基づいて行動しているようだ。それがどういった結果を及ぼすのかはまだ分からないが、引き続き目を離さないように頼むよ」
「それはもちろん心得ております。ですが、あれらも物の数にいれて良いのか未だに判断しかねますが」

脳裏に浮かんだ二世たちの顔を順番に重い浮かべたササライの顔には、自然と他意のない笑顔が浮かぶ。

「ジュニアもラッシュも、ふたりとも良くやってくれているよ。それこそ昔の君たちを見ているようなものじゃないか」
「はあ、私にはむしろ3馬鹿といった風に見えますがね」

淡白なディオスの物言いがどうやら笑いのツボを刺激したらしく、広い執務室にササライの屈託のない笑い声が響いた。

「ルディスまでその中に入れてしまっては可哀想だよ、女の子なのに。今は武芸に夢中みたいだけど、いずれレナにでもレディの作法を教えてもらわきゃいけないかな。ラトキエ家では厳しく指導するのは無理だろうしね」
「この国の歯車のひとつとして生きていく為に、ですか?」

意図を図るようにディオスが言葉を重ねる。

「今のうちに手助けできる事があるならば力を貸すのも悪くない。重圧に押しつぶされて泣いている顔は見たくないからね」

それだけさ、と幼子を慈しむような表情を浮かべてササライは目を細めた。

ひとしきり笑ったあと、涙の滲んだ目尻をぬぐいながらササライは窓の外の景色に目を向けた。ねずみ色の雨雲は昼よりも随分と体積を増しており、その色はもう黒に近い。目を凝らしてみると、白く小さな氷の粒が暗闇の中ちらほらと降り始めていた。風のない静かなクリスタルバレーの街へと、この冬最初の雪が舞い降りてゆく。それは長いハルモニアの冬の始まりを告げていた。

本当は、そんな事とは無縁のところで生きて欲しかったんだけどね」

そっとこぼれ落ちた言葉は、ひとりの人間としての憂いに満ちていた。

幼少の頃から上手に生きる事を強いられ、少しづつ何かを諦めて生きてきた人間のささやかな願い。それを知っているからなのか、ディオスはただ側に立ち同じ空を見上げていた。

手の平から零れ落ちそうな何かを必死に守るように、ササライは右手の紋章を強く握りしめた。

 

 

3、剣と魔法

 

 

薄く積雪した小さな裏庭に、金属がぶつかり合う甲高い音が響いた。冷えた冬の朝の空気を白く染めながら、ふたりの人物が剣を手に睨み合っている。

それぞれ違う形の獲物を構え、一定の距離を保ちながら相手の出方を窺っている。長身の男は余裕の笑みを浮かべながら両刃の長剣を片手に構え、それよりも小柄な体格の女はゆるかやに反った片刃の剣を両手で握り直した。

先に動いたのは女の方だった。背丈で劣る男相手に臆する事なく、内側から払うような動きで刀身を交えると、ぐっと身を屈めて重心を低く落とす。そしてそのまま剣を後方へと投げ捨て男の攻撃の勢いを受け流し、鍔迫り合いを解くと同時に地を蹴り、懐へと入り込んだ。そして飛び出した体勢そのまま、がら空きとなっていた顎めがけて頭を突き出す。

しかし、あっさりとその攻撃は男の掌で抑えられてしまった。男は先読みして空いていた片手で行く手を阻むと、そのまま軽く足払いを繰り出した。すると踏み固められた雪の上で女の足は面白いように滑り、あっという間にその体は抵抗する間も与えられずに雪の上へと放り投げられていた。

女はボスンと気の抜けた音を立てて倒れ込む。新雪が緩衝になったとはいえ、強かに腰を打ったようで目には涙と悔しさを滲ませて男を睨んでいる。

「頭突きとは考えたな。武器を封じてから体格の差を利用して懐を取るのも悪くない。だが相手の武器が一つとは限らないし、こっちは手足の自由だって残ってる。使いどころの見極めが大事な作戦だな」

現在の勝敗数、0勝52敗。

残念ながら一本取るために懸命に練った奇襲は、失敗に終わってしまった。

クリスタルバレーに帰ってから、ラッシュは「寒い」「眠い」など文句を言いながらも、約束通り時間をつくっては剣を教えてくれるようになった。

彼のスタイルは”習うより慣れろ”だった為、基礎から優しく手取り足取りというわけではなかったが、朝晩裏庭に出向いては飽きもせず稽古を続けてくれた。立ち向かっていっては軽くいなされて、受身が取れない最初は生傷が絶えなかった。手に出来た豆が潰れては治り、やがて包帯が取れて剣を扱う者の手と成った。そうやって少しづつ、剣を構えるのも形になっていった。

それでも今になっても満足に切り結ぶ事も出来ず、まったくと言っていい程彼の相手にはなっていない。それが悔しくて、構えから足の運び方、普段の一挙一動もつぶさに観察をして、何が足りないのか、勝つにはどうしたら良いのかを研究したというのに。

髪の一房でもいいから一太刀浴びせればこちらの勝ちというハンデを設けられても、ただの一度も勝てた事は無かった。だからこそ、今日こそは勝ちたかったのだが。

「俺に勝とうなんて10年早いって事だな」

頭上から降った言葉に焦燥感に駆られ、強い眼差しで顔を上げる。

「もう一回!」
「やけに張り切ってるじゃないか」

面白がるような語気を含ませて、ラッシュは首を捻りながら剣の腹で自らの肩をトントンと叩いた。こちらは息が上がって苦しいくらいだというのに、息ひとつ乱さず涼しい顔で見下ろしている。流石腐っても剣士、一見人を馬鹿にしているような動作の最中も隙は見当たらない。

「でもやめとけ。今日はササライ様と本格的な紋章魔法の訓練があるんだろ? この辺にしといた方がいい」

真面目くさった表情でもっともらしい事を言われてしまっては、返す言葉もない。これ以上食い下がる事を諦めて、よろめきながらも立ちがある。言葉を詰まらせ、それでもまだ諦めきれないのだと弱々しく反論をした。

10年も待てないよ。少しでも早く強くならなきゃいけない」
「気持ちは分かるが、俺だって長い時間をかけて剣の修行を積んだんだ。それでも自分の力量に満足しているわけじゃないし、強さは一朝一夕で身につけるものでもない」
「じゃあ私は、一生ラッシュにより弱いままなの?」
「傭兵隊にでも身を置いて、戦いの日々を送って実戦を積むとか言うんなら話は違うかもしれない。かもしれないが、今の俺達に必要なのは、まずは朝飯!」

そう叫ぶようにラッシュが声を発すると、同意するようにお互いの腹部からグゥと間抜けな音が響いた。いつの間にか厨房の煙突からは煙が立ち上り、焼き立てのパンの香ばしい香りが食欲をくすぐる。

「ふたりとも朝食が出来たから入っていらっしゃい! 温かい珈琲も淹れたわよ!」

声につられてテラスに目を向けると、ユーリが寒そうに身を縮めながら、肩に羽織ったケープを抑えて手招きをしていた。すぐに行くと返すと、微笑みながら白い頬をバラ色に染めて一足先に暖かい室内へと戻って行く。

「腹が減ってはなんとやら、ってよく言うだろ」
「なんとやらってなに?」

くだらない軽口に笑って返す。刃こぼれが無いことを確認したあと、回収した片刃の剣を鞘へと納めた。

「だいぶ構える姿が板に付いたな。その剣で正解だったろう?」

剣士の顔からいつもの調子に戻った剣術の師は、そう得意げに笑う。同意すると、話し足りないとばかりに剣の薀蓄を話し始める。

「そういった片刃の剣を扱う地域は意外に多いんだ。例えばトランの『忍び』だったり、南のカナカンあたりだったりな。ハルモニア国内だとサナディ出身の傭兵が使ってたりするんだがやっぱりお前、その辺りの出なんじゃないのか?」
「さあ?」
「危機感無いな。もうお前、故郷探す気ないだろ

短い返答が興味がないように聞こえたのか、呆れながらラッシュも剣を鞘に収めた。彼の見立てで選んだ片刃の剣は、工房や鍛冶屋の集中している西地区で見繕ったものだった。もちろん最初は危険の無い、刀剣を模して作られた稽古用の木剣を用いていたのだが、曰く、無意識に行っていた体を斜めに構えての抜刀や、木剣の刀身を親指に滑らせて鞘に収める等の動作から、片刃の剣を使っていた可能性がある、との彼の判断で調達した物だった。

多少なりとも心得があるのならば一からハルモニア式の剣術を教え込むのではなく、該当する武器を持ってやりやすいスタイルを探るのが良いだろうとの話だった。

大振りな両刃剣では手に余ってしまうし、小さなナイフは扱いやすいが威力が低い。扱いやすい長さのこの種類の剣が最適だとして選んでもらったが、確かにその判断に狂いはなかったようだ。

予算は雑用労働の報酬として受け取った給金から捻出したのだが、それが自分の感覚では思いのほか額が大きかった。驚いてこんなに受け取れないと言ったら、正当な報酬だとササライに返されたのを覚えている。

ラッシュには「初給金で武器を買うなんて女は、俺の知る限りお前が初めてだ」と大いに揶揄を受けたが、他に使い道も思い浮かばなかったので笑いたければ笑えばいいと開き直っている。

洋服代を返したいとササライに申し出ても経費だから必要ないと受け取ってはくれなかったし、ユーリに食費を渡そうとしても「もう貴女の分はちゃんと頂いているから」と、断られてしまったのだ。

だから日々の生活に必要な分だけ残して剣を買い、残りは救貧院や孤児院に喜捨をした。後からラッシュから聞いた話では、喜捨などをしても本当に必要な人々に行き渡っているかは怪しいとのことだったが、ならば寄付金は何処に消えているのだろうか

「最初は心配で堪らなかったけれど、毎日熱心に練習してとっても上手になったのね。そう言えば、我が家には家宝の剣が2本あるのよ。ふたりで分け合えば丁度いいわ」
「母さんあれはどう見ても双剣だから、それは無理だろ

剣の種類以前に、ラトキエ家の跡継ぎではないルディスには受け取る権利がないと思われるのだが、ユーリは食後の珈琲を片手に「そうなの?」とおっとりと首を傾げている。

「剣なんかよりも、年頃の娘らしく服でも何でも買えばいいじゃないか。流行遅れの古臭いお下がりなんか着てないでさ」
「まあ酷いわラッシュ! 確かにオールドスタイルが多いけれど、仕立てはとっても良いのよ。それに捨てるに捨てられず持ってた服たちだから、着てくれてとっても嬉しいわ」

朝食を口に運びながら茶化すように喋る愛息子を、ユーリもまた他愛のないお喋りでたしなめる。そして給仕に来るばあやをつかまえては服にまつわる昔の思い出話を楽しそうに語ってくれた。上品で優しげなのは変わらないが、ルディスがここに来たばかりの頃よりもユーリはよく笑うようになったように思う。

「サイズは大丈夫だったかしら?」
「はい。それにとても暖かいです、譲って頂いて本当にありがとうございます」
「いいのよ、そんなにかしこまらないで。それに私も楽しいもの。ほら、男の子って着せ替えのしがいがないじゃない?」

楽しげにそう話すユーリを尻目に、何か思い当たる節があるのか、向かい合うラッシュの顔には苦い表情が浮かんでいる。

「きょ、今日は遅れるとマズいんだそろそろ行くぞ」
「あらもうそんな時間? ルディスちゃん、編み物の続きは夜にしましょうね」
「はい、ユーリさん」

そそくさと席を立つ彼の後を追って身支度を整える。準備をしてくれたばあやに礼を言いながら外套を受け取ると、雪を掻き分けて作られた小道へと踊り出た。

「いってらっしゃい!」

門をくぐり抜けて屋敷を振り返ると、玄関で手を振るユーリの明るく優しい声が送り出してくれる。日が落ちればまたここに戻り、変わらず温かく迎えてくれるのだろう。

クリスタルバレーに来てから何度も繰り返した、いつもと変わらない一日の始まりだった。

 

 

 

 

ハルモニアの強大な軍事力を支える柱のひとつに、卓越した練達度を誇る魔法兵部隊の存在がある。

個人であればハルモニアに限らず非凡な魔術師は各地に存在するが、五行をはじめとした紋章が一般人にも広く使われているにも関わらず、紋章球を数多く有し国家のレベルで魔術師を育てている例は、実は驚くほど少ない。

紋章をその身に宿し純粋な力である魔力を扱う魔法兵は、生まれながらの素養と、高い技術を体得するための絶え間ない修練を必要とする。すなわち、多くの魔法兵を育てるには潤沢な資金と、技術が成熟するまでの長い時間が必要となる。

魔術師の育成はその有用性が理解できたとしても、取り入れるのは決して容易なものではない。だがそれを実用化し、数々の戦でその威力を見せつけてきたのがハルモニア軍だった。組織化されて騎馬兵や遊撃部隊と連携した魔法兵は、戦場において鬼神の如きその強さを発揮してきた。

一説では、魔法兵が初めて歴史上に登場したのがハルモニアの建国戦争だったとも言われている。そんな魔法先進国でもあるハルモニアでは、紋章魔法を学ぶために国内外から足を運び学舎の門を叩く者も後を絶えない。

ひとつの神殿敷地内に存在する、神聖国が管理運営する魔道修練所。国内に複数存在する魔法研究の場の中でも、この施設ではハルモニア軍に属する魔法兵の修練と、いまだ謎の多い紋章についての研究が日々行われている。

神官長ヒクサクとの謁見で魔法の習得を正式に命じられて以来、ルディスはササライの指示でほぼ毎日ラッシュを連れ立ってこの場所へと足を運んでいた。

まず最初は学術指南役の元で、適正を見るために様々な紋章に触れた。数ある紋章の適正をみるためには実際に扱ってみるのが早いらしく、魔力を回復させながら紋章師に何度も宿す紋章を変えてもらっては、ひと通りの相性を試した。

4段階ある威力の魔法を、初級から上級へと順番に発動してゆく。例えば土の紋章ならば、土の守護神・復讐の申し子・大地の守護神・震える大地、といった感じだ。とはいっても何の心得のない今の状態では、レベル1の魔法を2回発動させるだけで息も絶え絶えだった。

またそれぞれの属性には癖のようなものもあり、最も効果的に扱うには集中力や精密のスキルを身につけて、徐々に己のものとしていかなければならないらしい。例えば、火の魔法ならば広範囲に広がり味方を巻き込みやすいため炎の制御が要となり、一方、水の魔法ならば一刻も早く味方を回復するためには詠唱速度が早くなければ意味がない。もちろん初心者にそんな芸当はできるはずもなく、暴発せず発動できれば御の字といった具合だった。

「珍しいな盾の紋章の適正が高い。五行については平均的だけど、あえて言うなら水と風が少し得意なのかな。レジストも良い結果だ」

学術指南役がまとめた適正結果を確認しながらササライが呟く。すでに魔法系の紋章はすべて試し終えており、今日からは彼の指導の元、本格的な訓練を始める予定だった。どうやら突出して秀でている属性はないようだが、水の適正が少しだけでも高めだというのは喜ばしい。次にシンダル遺跡の時のような戦闘があった時には、きっと仲間の助けになれるに違いない。

「ただ、やはり蒼き門の紋章は合わないようだね。どうやら才能が無いようだ。扱いきれる者の方が少ない紋章だから、それほど気にする必要もないと思うけれど

そう確認されて、少しばかり居心地の悪さが滲んだ。というのも、蒼き門の紋章を試した時にひどい暴発を起こしてしまい、ちょうど様子を見に来ていたササライに目撃されてしまったという経緯があったからだ。こめかみを押さえながら溜息をつかれた時にはかなり落ち込んだが、今ではむしろ開き直ってその事実を受け止められる。

確かに自分には蒼き門の才能がない。ついでに専業の者しか適合しないという吟遊詩人の紋章も宿せなかったし、この大陸では珍しいという断罪の紋章も一応試してみたが、上手く扱う事は出来なかった。

だがそんな事は大きな問題ではないと思う。得意不得意は誰でもあるのだから、その分他の魔法の腕を磨けば良いのだ。きっとそうに違いない。

そう伝えると、ササライはちょっと困った生徒を見るように笑った。

「君のそういうところ、嫌いじゃないけどね」

ふと、保留となっていた紋章の存在を思い出して手袋と魔封じのアミュレットがついた手を指し示した。その下に隠れたおかしな紋章が左手に居座ってから結構経つが、その力を解放したことは一度もなかった。

「これはまだ、試してない」
「真の紋章の力は無闇に人目に触れるべきものじゃない。だから、ここは試すには相応しくないだろうね」
「ササライ様が居らっしゃる事はここの者たちも存じておりますから、落ち着かないのでしょう」

出入口に陣取っていたラッシュがそう呆れたように肩をすくめると、ササライもまた小さく頷く。先程まで一緒に居た指南役はササライに退室を命じられて既に姿を消しているが、一部屋貸切ってはいるものの扉の外からは時折靴音が漏れ聞こえ、確かに絶えず人気を感じる。

「この前君も立ち入った宮殿の最奥に、真の紋章の威力に耐えうる結界を張った部屋がある。僕もそこで真の土の紋章の研鑽を積んだんだ、その紋章の力を見るにはそこが適切だろう。常は使用していないはずだから、申請すればすぐに許可は下りるはずだよ。行こうか」

また妙な感じのするあの場所に行く事になるとは思ってもみなかったが、駄々をこねる訳にもいかずその提案に同意する。許可を取るための使いの者が先に部屋を出たあと、ゆっくりと足を運ぶ二人と共に修練所を後にした。

 

 

 

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2013年11月16日初稿作成

2020年07月01日サイト移転