Ⅴ 紋章の子供たち
「では中へとご案内仕ります。お分かりかとは思いますが……」
「見聞きした事の一切は、他言無用。承知しております」
宮殿の奥への唯一の入り口である円形の中庭に到着すると、謁見の時と同じく法衣を纏った老齢の案内人が待っていた。
聞き飽きたとばかりに返されたササライの言葉に満足気に目を細めると、案内役は嗄れた手を扉へとかざす。重い音を立ててぽっかりと開いた薄暗い扉の中に、まず最初に案内役と共に入っていくササライの背中を見送った。
「私はここでお待ちしております」
後ろから発せられた声に弾かれるように振り返ると、円を描く中庭の渡り廊下の途中でラッシュが立ち止まっている。恭しく腰を折った彼は、ルディスとササライの外套を手に持ったまま、それ以上扉へは近づこうとはしない。
彼も当然一緒に来るものだと思い込んでいたので不思議に思いササライに視線を移すと、その動作が不安気に見えたのか、こちらを安心させるように笑みを湛えながら訳を教えてくれた。
「ここからは君と僕しか立ち入りが許可されてないから、ラッシュはここで留守番だよ」
その言葉を受けてもう一度後ろを振り返ると、下げられたその顔に片眉を上げた微笑を見つけて安堵する。どうやら本当にしきたりに従い待機するだけのようだ。
今度こそササライに続いて中に入ろうと、扉に近づく。境界線をまたごうと一歩踏み出し、前回この場所へ立ち入った時の記憶が頭をよぎった。
嫌な予感を抱きながらも、そろそろと身を固くしてつま先を踏み入れると、やはり見えない冷気のようなものが表皮を撫でて悪寒のように肌が粟立つ。何度足を踏み入れたとしても、この妙な現象だけは慣れる事はどうも出来そうにもなかった。
淡い採光が足元を照らす奥宮殿の回廊を、老齢の神官は急ぐでもなく歩を進める。前回訪れた時は気を張っていたためか気が付かなかったが、大回廊の両脇に連なるいくつもの扉からは、それぞれの奥にある部屋へと、更に深く続いているようだった。静寂が支配する空間に自分達の靴音だけがこだまする。
(誰もいない……)
こんなに広い場所なのに、人っ子ひとり見かけない。確かに人の手で作られた場所のはずなのに、同時に人の侵入を拒むような冷たさで満ちているように感じられて、正直不気味だ。早く温かいラトキエ家に帰りたいなどと考えてしまう。
ササライが一緒でなければ、二度と足を踏み入れたくはなかったと言っても過言ではなかった。知らず識らず、この場所に対する苦手意識が芽生えてしまったようだ。
いくつかの回廊を通り過ぎた末に、ひとつの部屋へと辿り着く。四隅に配置された燭台に静かな炎が灯るその部屋は、家具の類が無い以外は一見何の変哲もない広い部屋に見えるが、おそらくササライの言っていた訓練の為の部屋で間違いないのだろう。
まだ落ち着かない気分を沈めるために、自分の体を両手で掻き抱き凍えるような体勢で堪らず口を開いた。
「ここに入る時の変な感じは、何? 何故他の人は平気な顔をしているの?」
「何の事だい?」
不可解な面持ちでそう答えたササライの斜め後ろで、案内役の神官は意味ありげな表情を滲ませながら、仰々しい言葉で口を挟む。
「既にここは円の紋章の結界の内にございますれば……法の加護をその身に受けるは奉ずる我らには祝福であれども、あなた様にとっては枷となるのやもしれませぬな」
何が起こっているのかを知りたいのに、その言葉はあまりにも抽象的すぎて何が言いたいのかがさっぱり理解できない。未だハルモニアに属さない自分は、ここでも異物のようなものだという事だろうか?
答えになっていないその物言いに憮然とした顔を返すと、老いた神官は気に留める様子もなく一礼とともに静かに部屋を後にした。
「魔力の弱い君では負担が強いのかもしれないな。早めに切り上げるべきだろうか」
「大丈夫、だいじょうぶ」
心配顔を作ってしまったササライにやや強張った笑顔を向け、握りこぶしを振り上げて何ともないと主張する。身を守れる程強くなるために必要だと言うのならば、見えない結界とやらになど負けてはいられない。
手袋と魔封じのアミュレットを外して部屋の中央に立ち、奇妙な紋章の宿る左手を掲げる。他の紋章を発動させた時と同じようにそのまま意識を集中させようと目を閉じるが、思わぬ邪魔が入り思考は遮断された。
本当に微かだが、部屋を包む静寂の中に何かの雑音が混ざって聞こえる。最初は燭台の炎の燃える音かと思ったが、どうやら違う。水面を撫でるさざ波のような、あるいは木々のざわめきのようなそれは、どこか遠い場所からここへと運ばれてくるようだった。
顔を上げて四方の壁を見渡すが、部屋には窓らしきものは見あたらない。この近くに中庭や泉でもあるのだろうか? それとも、室内に居ても気になるほど外の風が強くなったのだろうか。
いいや。幾重にも重なった冷たい壁に阻まれて、ここまで外の音が届くはずはない。ではこれは、この音は何なのだろう。
「何か聞こえる」
集中を解いて、扉の前で見守るササライを振り返る。
「いいや、僕には何も聞こえないが……?」
訝しげにササライは否定する。先ほどから疑問ばかり口にしているので、またおかしな事を言い出したと思われているのかもしれない。
「君の気のせいかもしれないよ」
どうやら本当に、彼には聞こえていないようだった。
自分も紋章を使おうとしなければ気づかなかったので、分からなくても無理はないかも知れない。でも気のせいなどでは決してない。何故なら、今もその音はこの耳へと届いているのだから。
とてもではないが、一旦気になったら集中など出来るはずがなかった。部屋の四隅を歩き回り音の出所を探す。ひとしきり部屋の中をうろうろと歩いたが、四方のどこに立っても音の大きさは変わらなかった。
「うーん……」
首をひねりながら部屋の中央に戻ると、足の下の大理石が目に入った。
「気が済んだかい? そろそろ……」
訓練の続きを促そうとするササライの言葉がぶつりと途切れる。
目の前でおもむろに床に寝そべり、ぴったりと耳を大理石の床にあてたこちらの姿に驚いたのだろう。
「ルディス!」
慌てて駆け寄ったササライに床から引き剥がされてしまった。
「まったく、何をやってるんだ君は……。ほら立ち上がって」
すぐに止められてしまったので内容までは分からなかったが、地獄の底から響くようなか細い音は、石の振動を伝わりこの耳まで届いた。
そしてようやく気がついた。これは人間の声だ。
「下から声が聞こえる」
座り込むこちらのを覗き込むように片膝をついたササライを見上げると、すぐに意味を理解したらしく、その表情は固く緊張を帯びたものへと変わっていく。
「この下は何の場所なの?」
この不思議な現象の正体を探ろうと問いかけると、ササライは苦い表情を浮かべながらも声を絞り出した。
「……この下は立ち入りが許可されていない区域だ、僕たちには入れない。ルディス、本当にそこに何かが在るとしても、これ以上詮索するのは諦めた方がいい。ここで無闇に不必要な事を見聞きするのは賢いとは言えないからね」
長年この場所で生き抜いてきた彼の、辿り着いたひとつの答えなのだろう。自分よりも大きな力には逆らわず、関係のない争い事には一切関わらない。淘汰を免れるための生き抜く知恵だ。
この、人が人に序列をつける国で冷めた目で見られ続けたルディスには、その言葉は身を守るための必要な教訓なのだと痛いほどに理解できる。
だがそれは、同時に自らの目を潰す行為でもある。
都合の悪いものに見て見ぬふりを続け、その不条理を身に受けるのが自分の番になったなら……彼は一体どうするつもりなのだろう。
「その声が、子供の声でも……?」
確証をもって断言はできない。だが、か細く高い音程でこの耳に届くあの音は、声にならない幼い子供の叫びのようにも聞こえた。もし本当に子供ならば、余計に放ってはおけない。
翠の瞳が動揺を示すように揺れた。だがそれでも意見は変わらないようで、尚も叱咤するように諭される。
「僕は君の監督を任されているんだ、勝手な事をされては困る。許可は出せない」
言葉は違えど、先ほどと言っている内容はまったく一緒だ。こちらが諦めるまで堂々巡りを繰り返そうと言うのだろうか。そんな本質を伴わない説明など、到底納得など出来るはずもない。それに彼はまだ、立場や保身ではない意見を聞かせてくれてはいないではないか。
「街の中で三等市民の孤児を見たことはある?」
「いいや、この目で見た事はないが……それがどうしたと言うんだ?」
彼にしてみれば、突然関連性の分からない話題を切り出され戸惑うばかりだろう。論点のずれた事を言い出した自覚はあるが、まったく見当違いの事を言っているつもりでもない。多少遠回りになっても、彼の本心を聞きたかった。
「光の中は眩しすぎて、影の中で生きる者の姿を認識する事は出来ないけれど……でも、見えないだけで彼等はそこから居なくなった訳じゃない。こちらが見る事をやめただけなんだ」
「……何の、話だい?」
困惑しながらも、何か意味があるのだと判断してくれたのか、辛抱強く次の言葉を待ってくれている。
「どうでもいいと自分に言い聞かせて、目を背けて、それで一時は痛みをやわらげる事は出来るかもしれない。けれどそれを何度も繰り返して、本当は大切な事なのに心が麻痺してどうでもよいと思うようになってしまったら……それはもう本当の私の心じゃない。嘘が本当になってしまうなんて、悲しいよ……」
ずっと抱えていた言い得ない不安が、言葉となって溢れてくる。
最初に東地区で孤児を見た時は、何も出来ない自分が悔しくて、無力感が歯がゆくて、胸に重しがかかったように夜もよく眠ることが出来なかった。でも何度も彼等を目にするようになり、徐々にお互いは違う存在なのだと、無意識に見えない線を引き始めている自分に気付いたのだ。
綺麗な服を着て何不自由のない生活を送っている自分と、掃き溜めにたむろし物乞いで日々を凌ぐ彼等では、違うのは当たり前なのだからと、思考を停止をして心のどこかで冷めた目で見始めていた。根拠のない優越感で、何の罪もない孤児の子供たちを憐れみながらも、心の底では見下し初めていた。
自分がされて何よりも不快だった事を、より弱い相手に私はしていたのだ。
自分の心が擦り切れかたちを変えていく事が、悲しかった。悲しいと感じていたことを悲しいと思えなくなっていく事が、怖かった。自分の富を捨てるような覚悟で喜捨をしたのも、雀の涙ほどの援助でしかないと分かっていても、何よりも自分自身の為にその気持ちを手放したくはなかったからだ。
以前ジュニアは、ルディスが良くしてもらえるのは神殿の指示だからというだけではなく、素直さや先入観の無い物の見方といった美点を持っていたからだと教えてくれた。
他の貴族や神官達に謂れのない侮蔑を向けられても自分を嫌いにならなかったのは、居場所をくれた彼らが対等に接してくれたからなのに。
「あの日貴方に救われたのは生き方だけじゃない。拾いあげてもらったのは、心だったんだ」
その心が醜くかたちを変えていくのは、彼らに対する手酷い裏切りのようにも思えた。だからこそ、どんなに不器用になってしまうとしても、なるべく真っ直ぐに生きようと心に決めたのだ。
「本来ならば私は影の中で生きるはずの人間でした。貴方に拾って頂き、今まで人並み以上の幸せを知る事が出来ました。本当に……感謝しています」
「やめるんだ、どうしてそんなことを……」
いつも穏やかな微笑を浮かべている顔が歪み、痛ましいものを見るような悲痛な表情をつくり出す。
相手を傷つける行為だと分かっていても、止められなかった。もし彼が本当に不必要なものなど知るべきではない、興味がないなどと考えているのならば、親しげな話し方も心を伝えるための笑顔も、すべて作りものの虚しい嘘のようにも思えたのだ。
もちろん、これまで一緒に過ごしてきた時間の中で彼がそんな人間ではない事は分かっている。このまま見聞きするものすべてに目を瞑り、知らないふりを続けてゆくのが本当に良いなどと思ってはいないのだろう。こんな生き方、本当に本人が望んだわけではないはずだ。
「正しい判断をしたその結果、神殿から謗りを受ける結果になったら……どうか私を切り捨てて下さい。そうすれば、あなた方の損害は最低限で済みます。この国の法に押しつぶされ、見捨てられる弱者がひとり増えるだけの事です」
「ルディス! 冗談でもそんな事は口にするべきじゃない……!!」
彼にしては珍しく、声を荒げ感情を顕にする。
「……少し言葉が過ぎるよ。もう少し、賢いと思っていたんだけどね。ついこの間ここに来たばかりの君に一体何が分かるというんだい。それに心では何を思っていたとしても、それを簡単に実行に移せるほど僕達は自由じゃない。今の君は、物事が思い通りにならずに駄々を捏ねている子供に過ぎないよ」
苦言を呈するその口で、憤りと憂いが綯い交ぜとなった、何とも言えない表情を向けられる。我ながら本当に勝手だと内心呆れ返りながらも、やっとほんの少しだけ本当の言葉を聞くことができたことに満足感を感じて微笑むことをとめられなかった。
「そうかもしれない。けれど、私は大切な人にもこれ以上心を殺して生きて欲しくはないんだ」
意外なほどするりと流れ出たその言葉もまた、本心だった。
ササライは目を伏せ、息を詰めたように押し黙ってしまった。何かに耐えるように、葛藤するように苦悩を呈するその表情は、まるで涙を堪えているようにも見える。彼は自分とは違い、簡単に泣いたりはしないのだと分かってはいるけれども。
「幸せな姿を見せる事が何よりの恩返しになると分かっていても、それでも尚、貴方が選べなかった道を進むことで報いようとする私を、許して下さい」
立ち上がり、部屋の中央で膝まづいたままの彼をひとり残して唯一の出入り口である扉へと歩き出す。
この自由を奪われた国にあっても、彼が手を差し伸べ側に置く者たちの目の光は失われてはいなかった。それは、自らの力の及ぶ範囲の人々だけでも幸せに生きて欲しいという、彼の願いの表れだったのかもしれない。
人を寄せ付けない地位に就き常人とはかけ離れた時間を生きる彼は、普通の幸せを望めないからこそ、周囲の人々のささやかな喜びを自身の幸福と重ねあわせて見ているのかもしれない。この国で生きる彼等を守るために、ササライは神殿の指示に従っているのではないだろうか。
もしそうならば、賛同を得られないのなら無理強いをするべきではないのだろう。
冷たい感触の金属のノブに手を掛け回そうしたその時、背中から呼び止める声が響いた。
「………ルディス、待つんだ」
「どうか行かせてください」
冷たい返答に縋るように懇願する。たとえ理解してもらえなくとも、心にもない言葉で引き止めて欲しくはなかった。
すると彼は重い息を吐き出しながらゆっくりと立ち上がると、顔を上げて意思の宿った瞳で真っ直ぐに視線を返した。
「僕も行こう」
予想だにしなかった言葉に目を瞬かせる。腕づくで止められるのも覚悟していたが、今まで頑なに反対していた彼が同行を申し出てくれるとは考えもしなかった。するとササライはほんの少しだけ口元を緩めて苦笑する。
「勘違いしないでくれ。君の意見に全面的に賛同したとか、そういう言う訳じゃないよ。行動を共にするのはそれが万が一の時の保険にもなるからだからだ。君と僕では利用価値が事なるからね。双方を一度に処分するのは、神殿としても避けたいはずだ。それに……」
一拍を置いて少しだけ戸惑った後、彼はこう言葉を繋げた。
「僕は遠い昔に一度だけ訪れたある場所をずっと探しているんだ。君が言う事が本当ならば、そこは僕が探し求めていた場所なのかもしれない。こんな形で見つけるとは思わなかったけど……」
視線を外して告げられたその言葉は、未だ迷いを含んでいるようにも聞こえる。
「できるなら万全の体勢で望みたかったが……止むを得まい。ルディス、決して僕のそばを離れないと約束してくれ」
驚きながらも同意を示す首肯でそれに答えると、今度こそ冷たい扉を押し開き、声を殺して静寂が支配する回廊に再び足を踏み出した。
何故、彼等は迷う事なく進むことが出来るのだろう
成長する者、老いる者
生まれてくる者、死に行く者
そしてたったひとつの答えを選び、立ち去ってしまう者
彼等は決して立ち止まらない。引き止める声が届くことはない
籠の中で育ってしまったからなのか、呪いを持つ為なのか
はたまた何の因果か、人ならざる身として生を受けてしまったからなのか
この足は未だ大地に根を張うように、ただ立ち尽くす事しか出来ないというのに
時が止まったように静まり返る回廊を注意深く進むと、地下へと続くとおぼしき扉を見つけるのにそれほど時間はかからなかった。
「開いてる……」
「先客が居るかもしれない。慎重に行こう」
微かな音を頼りに探し当てた扉に手をかけると、軽い手応えと共に扉はあっさりと動いた。鍵が開いているという事は、解錠した者が中に居る可能性が高い。短時間で戻るつもりで施錠する手間を惜しんだのだとしたら、のんびりしていられる程時間は無いかもしれないからだ。ここまでは幸運にも誰とも会う事はなかったが、この先も同じだとは限らなかった。
小さな物音さえも反響させる地の底へと続く階段を、慎重に足音を殺して降りていく。音を頼りに進んでいるので、必然的にルディスが前を歩いている。目の前で揺れる豊かな黒髪を見つめながら、ここへ来る事になった経緯を思い出しては思考を整理していた。
ルディスの考えを読めないのは年齢の差のせいなのかもしれないと、ササライは思った。思えば、自分も歳若い頃は今と比べれば色々と無茶をしていたような気がする。デュナン統一戦争の時は部隊を半壊させてしまい初陣を飾ることが出来なかったし、ラトキエ家の事件の時は、直属の部下であったレナのために、神殿の掟をくぐり抜けて少々の無理を通し手助けをした。若さ故の勢いというのは、あるのかもしれない。
この国の階級制度を基盤とする生まれによる優劣のつけ方は、確かに見慣れない者の目を通せば理不尽かつ非人道的なものにも見えるのだろう。しかし、ハルモニアという巨大な国家を数百年の永きに渡って維持してきた強固な法令こそが、この優劣を明確に示した階級制度だということも事実だった。
国という骨格を揺るぎないものにするために、個という国を形作る者たちの自由を制限する。ここはそういった法治国家であり、そこに生まれた者たちはそれに従い生きて行くほか道はない。それはたとえ神官将の地位を授かるササライであっても、変えることなど到底不可能な不文律だった。
それでも大きな内乱が起きるほどの軋轢が起きていない今の状況は、まだ良い方だとも言える。
永きに渡り優秀な働きを残した三等市民の一族には二等市民へと昇格させる飴を用意したり、ハルモニア人の考えを持った指導者を育てる同化政策などは、血を流さない統治方法を模索した結果だと言えるだろう。
ギルドや傭兵隊といった、階級に縛られない組織を容認しているのも同様だ。神殿の意向に従わない者や、身分は低いが優秀な能力を有する者、そういった反乱分子となりえる者たちを野放しにしないよう、彼等に居場所を与え契約を結び、守護者としての役割を与えている。
近年では勢力を確立した民衆派が中心となり、教会を通した貧民層への施しや三等市民の待遇の向上など、まだ十分とは言えないが不遇の者たちを救済する処置も進められている。
多民族を吸収し続けるこの国がここまでの安定を得るようになったのは、過去に大きな代償を支払った結果でもあった。
頻発する辺境の内乱。真の紋章を奪うために起きた、門の紋章の一族への蹂躙。現在まで残る数々の歴史書が黎明期のハルモニアの苛烈さを物語っている。過去の苦い経験を教訓として法を制定した結果、今のこの国が有るのだ。
血を流さずに方向転換をしたいのならば、種を植え同士を増やし、同じくらい時間をかけて変えてゆくしかない。高い文化水準と格差の少ない統治を両立する手段を、この国はまだ持ち得てはいないのだから。
それもこの国の一部となり生きてゆくことになれば、自然と理解出来るようになるだろう。否、理解しなければならない。出来ることならば、他者の痛みを感じられる優しさを持ったままで進んでほしい。だがこの国においては優しすぎることは罪であり、己の身を滅ぼしかねないことでもあるからだ。
それでも今回に限って青い正義感を許容し無謀な提案を受け入れたのは、それなりの理由があったからだ。神殿に抗っても手に入れる価値のあるものがそこにあるのかもしれないと、そう判断したのだ。
いくら弟に愚鈍と罵られた自分でも、グラスランドから戻った後の10年を無為に過ごしたわけではない。ナッシュに依頼して調査を続けてもらってはいたが、どうしても探し求めていた場所へと辿り着く事は、叶わなかったのだ。
幾重もの嘘で隠されて続けてきた、最高レベルの機密情報だ。管理されて生きてきたササライの目を欺くことなど、この国の真の支配者達にとっては容易いことなのかもしれない。そしてその探していた場所がこの宮殿の最奥に在ったのならば、過去に迷い込んだ事があるにも関わらず、どんなに探しても見つからなかった事とも符合する。
ササライが勘付いたと知れれば、また上層部の妨害が入ることは目に見えている。偶発的な行動となる今回を逃せば、おそらく好機は二度と巡っては来ない。危険を冒しても試す価値があると、そう判断したのだ。それでも、これで本当に良かったのかは、今はまだ判別がつかなかった。
神殿の許可なく炎の運び手へ協力した際、驚きながらも何も聞かずついて来てくれたディオス。間が悪く襲撃された場に居合わせ真実を知り、それでも変わらず今日まで支えてくれたナッシュ。彼らは既に、この呪われた身の出生を知っている。
ジュニアやラッシュにも、長く仕えてくれるのならば遠くない未来に秘密を明かす予感はあった。
だが、ルディスに秘密を知られるのは、抵抗があった。出会って日が浅いことも理由の一つだが、そういう意味ではジュニアやラッシュもそう大差はない。
人と垣根なく接しようとする、心根の優しい娘だと思う。物覚えも悪くはないし、綿が水を吸収するように様々な事を学んだ分だけしっかりと会得していくのは教えがいもある。
その一方で、己の身を省みずに危険な場所へ足を踏み入れる危うさや、敵わない相手であっても自分の主張を曲げないといった危機感の無さが気になるのも事実だ。礼儀正しさや忠告を聞き入れる柔軟さもあるのだから、度胸があって物怖じしない性格とも言えるのかもしれない。それに、飛び出す前に相談するようになっただけ進歩したとも言える。つまり信用に足る人物ではないから話す事が出来ない、という訳ではない。
それでも真実を知られるかもしれないことに戸惑いが消えないのは、いずれ自分の元を去ってしまうかもしれない存在だからなのだろうか。
貴族が力を持つハルモニアでは、女性はある程度の年齢になると家に入ることが多い。少年期を共に過ごした優しくも厳格な姉のようであったレナが、体力の不安を理由に近衛隊を去ったのはもう10年以上前の事になる。今も親交は続いているが、一線を退きスフィーナ家の当主として生きる彼女を個人的な理由で巻き込む事は出来ない。だから秘密を打ち明けてはいなかった。
ルディスの場合は、今は紋章の件があるのでどこかに嫁ぐことも出来なくなってしまったのは少々可哀想に思うが、それは自分も似たようなものだから大きな問題ではないのだろう。
自由を求めて去るか、この国に留まり法の守護者となるか。
いずれにせよ、まだ先の事だ。
ヒューゴやクリスそれにゲドならば、親交の続く限りこの先もまた変わらぬ姿で顔を合わせる未来は思い描くことができる。けれど、もっと近しい間柄の誰かが自分と共に変わらない姿で側に居続けるなんて、想像したこともなかった。だからずっと一緒にいて役に立てるかと聞かれた時は、どんな顔をしていいのか分からなかったのだ。
こうして考えてみれば、分からない事だらけだった。40年以上生きていても仕事と魔法の事以外はからっきしだとディオスに言われてしまうのも納得できる。
『貴方が選べなかった道を進むことで報いる』
最後にそう言われた時に脳裏に蘇った、ひとつの光景があった。
10年前のあの時、あの場所で、もしも違う道を選べたのなら。
神殿に縛られる事に慣れすぎてしまった自分の代わりに、本当に選びたかった道を選んでくれる存在がもし居たのなら…………ルックは今も生きていたのだろうか?
それもまた、失われた可能性だ。
しかし、そう望むのならば自分は従順なままでは駄目だったのだろう。
変わる事を恐れず信じる道を進まなければ、それを掴む事は叶わなかった。
変わらなければ、ならないのだろうか。
今のままのささやかな幸せを願うのは、許されぬ事なのか。
僕だけが穏やかな時間がずっと続けば良いと願ってしまうのは……何故なんだろう。
「まったくキアン様も人使いが荒い。あんな気味が悪い奴らの世話をする事になるなんて、聞いてませんでしたよ」
「しっ! 誰かに聞かれていたらどうする! 自分が可愛いのなら、 ここでは滅多な事を言うもんじゃないぞ、若いの」
「どうせ誰も来やしませんよ。こんな陰気な所……」
長かった階段の終着点である冷たい空気が満ちた地下へと辿り着くと、点々と配置された照明の光に照らされた、底冷えするような石造りの回廊が更に奥へと続いていた。
どうやらここは保管庫のような場所らしく、両脇には鍵付きの扉を備えた小部屋が規則的に並んでいる。格子の間から中を確認すると、樽や大小の箱が整理されて積まれているのが見えた。
声はどうやらその小部屋のひとつから聞こえてくるらしい。一際明るい一角を見つけると、注意深くそこへと近づく。柱に身を隠しながら様子を伺うと、二人の神官服を着た男たちが樽に座りながら何やら他愛無い話に興じている最中だった。
「……あんなのを見た後で、よく飲み食いが出来ますね」
「逆だよ、逆。せっかくここまで出世したってのに、こんな外れ仕事を押し付けられちゃあ、飲まずにはやってられないだろう?」
中年の神官はそう言うと、おもむろに懐から酒瓶と杯を取り出す。手酌で赤い液体が杯へと注がれると、たちまち周囲には酒精の芳香が充満した。
二人の神官は、ササライ達が見ている事も気付かずに酒を仰いで喉を潤し始める。それを見たルディスは修練所から持ってきた借り物の短い杖をゆるく構えると、右手に宿したままだった風の紋章へと魔力を集中させた。
「眠りの風……」
小声で紡がれた詠唱の後、風の紋章で最も易しい初級魔法が発動した。魔力を帯びた緩やかなそよ風がその足元からふわりと生まれる。そして無防備に酒をあおる神官達の元へと到達し、音もなく彼等を包み込んだ。
相手を傷つけず眠らせるだけの簡単な魔法だが、効果は抜群だったようだ。神官たちは樽に腰掛けたまま、ウツラウツラと船を漕ぎ始める。直ぐ様ガクリと項垂れるとその手から杯がすべり落ち、血のように鮮やかな酒が床石を赤く汚した。
「悪くない判断だ。姿を見られてはいないから、目覚めた後も不信に思われずに済むだろうね」
「詠唱呪文をそらで言えるのがこれだけだったんだけど、良かった」
神官達がよく眠っている事を確認する。どうやら存外、判断力は悪くないようだった。
「音が聞こえるのは……この先の突き当りの部屋」
指し示されたその先は、まるで内側に閉じ込めた何かを逃がすまいとするかのように、閂がかけられた厳つい扉だった。
「…………ルディス」
静かに名を呼びかけると、地下の闇に溶け込んでしまいそうな漆黒の瞳が振り返った。
「君はここで待っていてくれないか?」
迷いを含みながらも祈るようにそう告げると、視線は困惑を帯びたものへと変わる。
「そばを離れるなと言っていたのに?」
目的地を目前にして発せられた提案に動揺を隠せないのだろう。詳細を話していないのだから当然かもしれないが、こちらの思惑などまったく伝わってはいないようだった。
「見張りが必要? あと一回簡単な魔法を使うくらいしかできないけれど、出来るだけやってみる」
退路を確保するのならば、確かに見張り役は必要かもしれない。だが他の脱出手段が無い訳でもないので、無理をするべき場面ではないのだろう。むしろ離ればなれになるのは危険が増す。
「……いや、見張りはいいよ。今の言葉は忘れてくれ」
二転三転するササライの言葉に、ルディスは戸惑いの色を浮かべては首を傾げている。これではどちらが振り回されているのか分からない。
どちらにせよ、もう迷っている時間はない。呼吸を整えるために息を薄く吸い込んで吐き出す。そして閂を二人掛かりで持ち上げ外すと、覚悟を決めて蒼い光の零れる扉を押し開いた。
まず目に入ったのは、円形の碧い部屋に規則的に並べられた”それ”だった。
球を描く硝子の容器に満たされた、
乳白色の海を泳ぐ部品たち。
人のかたちを成さない”何か”を納めた、神の依代の模造品。
四肢は溶けて肉色の液となり、その中をはらわたと白い骨が浮き沈む。眼、鼻、口……人を構成する部品をすべて内包したというその不自然な紋章球を目にするのは、ササライの生涯においてはこれが2度目だった。
「これは、何?」
隣から投げかけられた屈託のない問いかけに、呆然と佇んでいた己に気が付き我に返る。
「………真の紋章の……封印球……」
乾いた唇から零れたその言葉は、確かに自分のものであるのにまるで別人の声ようだ。淡い光が満ちる空間に虚ろに響いたそれが、本当に己の発したものなのかと思わず耳を疑った。
反射的に返してしまったその答えをどのように理解したのか、ルディスは不思議そうにそれらをじっと見詰めると、再度疑問を口にした。
「危険なもの?」
目を合わせることなく、ただ首を横に振り否定を伝える。ただそこに在るだけであれば、危険はないはずだ。
あの時のルックの話をそのまま信じるのならば、これらは容器であって生命ではないのだから。だが危険はないと分かっていても、ササライの足はまるで地面とひとつになってしまったかのように固まり、そこから一歩も動くことが出来ずに立ち尽くしている。
気付けばルディスは封印球のすぐ側にまで近づき、水槽に入れられた魚を鑑賞するかのようにその内部をしげしげと見入っていた。そのままおもむろに前へと差し伸べられたその手を、まるで白昼夢を見ているかのように止める事も出来ずにただぼんやりと目で追う。壊れ物を扱うかのようにそっと触れられた指先が、水晶を削り形作られたなだらかな表面をするするとなぞった。
「きれい……」
見慣れた背中から発せられたその言葉を聞いた瞬間、言いようのない不快感が全身を駆け巡る。己を取り巻くこの状況を直視することが、出来ない。意識を持たないはずの翠の眼球と目が合い、思わず片手で口を押さえた。混迷を極める思考の中、在りし日の声が鮮やかに甦る。
『見るんだ兄さん、これが僕たちだ。真の紋章を宿すために……それを核に作られた生き物だ』
吐き気を催す光景だった。逆流した胃液が迫り上がり、喉を焼く。激しく脈打つ心臓の音が耳に痛い。目眩と吐き気がとめどなく押し寄せて、思わず膝を落とした。
「だ、大丈夫?」
不意にへたり込んでしまったササライを気遣わしげに、ルディスは向かい合い膝をついて様子を窺っている。肩を貸そうと伸ばされた手を思わず無言で押し返す。
今だけは、触れて欲しくなかった。
複製を見詰めた目で、同じように見詰められる。
兄弟に触れた手で、同じように触れられる。
彼女が真実を知ったらどう思うのだろうか?
僕を……どう思うのだろうか。
この秘密を知られる事を恐れていた本当の理由を、今になってようやく自覚する。純粋に自分を慕ってくれている存在に、軽蔑され汚い物を見る目で蔑まされるなど……耐えられない。
どうか、僕を見ないでくれ。
それ以上耐えきれず、せき止める術もないまま嫌悪感を吐き出す。残酷な真実を突きつけられたあの日から現実と向きあい生きてきたつもりだった。ルックのように信じる道を進む事もなく、与えられた居場所を捨てることも出来ずに今日までおめおめと生き延びてきてしまった事を、後ろめたく感じなかった日はなかったというのに。
それがこのザマは何だ。初めてこの封印球を目にしたあの時と、まったく同じじゃないか。結局のところ未だ己には選ぶ覚悟が足りなかったのだと思い知らされる。喉の痛みだけのせいだけではない涙が滲み、それと気づかれないように乱暴に拭った。
息を切らせながら目線を正面へと向けると、あろうことか目の前の青いスカートは酷く汚れ、見るに耐えない状態へと変わり果てていた。突如青ざめ嘔吐したこちらに驚いたのか、目の前の人物は避ける暇もなく、その身に吐き出された嫌悪を受け止めてしまったのだろう。
「服が……」
「気にしないで」
咳き込みながらなんとかそれだけ発すると、そんな言葉が頭の上から降ってくる。落ち着いた声色につられて顔を上げると、ルディスは嫌な顔ひとつせずに微笑んでいた。
「全部吐いた方がいい、その方がきっとすっきりする」そう言う相手に、されるがまま小さな子供のように背中をさすられる。庇護者はこちら側のはずなのに、端から見れば今の状態はまるで逆のようにも映るかもしれない。
ルディスは徐々に落ち着いたササライへと、内ポケットから取り出したハンカチを差し出した。そしてスカートの裾を持ち上げて立ち上がると、視界の外へと歩いて行ってしまった。少し離れた場所へと移る足音を聞きながら息を整えて待っていると、すぐに彼女は戻ってきた。汚れたスカートの布地を取り外し、その代わり羽織っていたワインレッドの上着を器用にアンダースカートの上に巻いている。ユーリから譲られたと聞いた服は厚手の生地のおかげか、汚れは服の中までは達していなかったようだ。
「君はもう少し慎みを覚えるべきだよ」
「はしたないって事? 非常時だから、このくらいは許されると思う」
淑女としては少々問題のあるその姿をやんわりと指摘をすると、ルディスはササライを責める様子もなくあっさりとした態度でそう返した。苦笑しながらも同意を返すと、強張っていた体の緊張が取れていく。幾分軽い口調で交わされた会話で普段の調子を取り戻すと、自分の物ではないようだった足がようやく動いて、ふらつきながらも立ち上がることが出来た。
「音の出所はここで間違いなのかい」
「もう少し奥だけど……大丈夫?」
もう目と鼻の先だという目的の場所へと急ぐために、額に浮いた汗を手の甲で隠す。
「ああ……僕は平気さ。早く目的を達成してここを出よう」
疲労をおして立ち上がったササライへとルディスはほんの少し心配そうな顔色を見せたが、すぐに杖を固く握り直して先導するように歩きだした。
実際はそれほど長い距離ではなかったのだろう。だが、人が2人やっとすれ違う事ができるような細い廊下を、消え入りそうな頼りない照明の中手探りで進むのは、まるで奈落へと自ら進んで行くようで生きた心地がしない。
やがて薄闇の先に冷たい鉄格子のはめ込まれた扉を見つけると、ルディスの言うように確かに弱々しい音が聞こえてくる。ここまで近づけば、ササライの耳でもその声はハッキリととらえることができた。
歌ではない。言葉ですらなかった。
聞くものの心に悲しみを植え付けるその旋律。
言葉にならない慟哭を吐き出すようなその遠吠えは、まるで地の底から響く孤独な獣の叫びのようだった。
明かりも無く暗闇のみが広がった境界線の向こう側、鉄格子の先に白い影が揺らめいた。薄闇の中輪郭を得てその姿が浮かび上がる。擦り切れた粗末な麻の服を纏い裾から細い足を投げ出しているそれは、紛れもなく人のかたちをした子供だった。
遠い記憶を手繰り寄せてあの日の情景を思い出す。
ここだ。この場所だ。
誘われるように迷い込み、魔法でつむじ風を起こしていた小さな影に話しかけた、あの場所。どうしてこんなに大切なことを忘れていたんだろう。地下牢の饐えた臭いも、ごつごつとした石壁の冷たさも、今ならばこんなにもハッキリと思い出せるのに。何も知らないあの頃の無邪気な自分が立っていた場所に、やっと戻ってきたのだ。
あの時床に丸まった小さな背中へと投げかけた言葉を思い出す。
『そこに……誰かいるの? 君も魔法が使えるの?』
すぐに探しに来た世話役の神官に見つかってしまい、手を引かれてその場を後にした。だからその問いの返事を聞く事は、叶わなかった。
あの時の自分はただ、頭に浮かんだ疑問を口にしただけだった。自分と同じくらいの年で紋章魔法を操るものなど他には居なかったから、だからもしかしたら仲良くなれると、友達になれるかもしれないと、勘違いをしたのかもしれない。
それが彼にとってどんなに残酷な事だったのかが、今ならば理解できる。
同じ生まれであるはずなのに己のみが虐げられている光景。それをまざまざと見せつけられ、羨望と嫉妬と、小さな体に抱えきれないほどの諦めをもって去り行く背中を見送ったのだとしたら。
……自分だったら、耐えられるだろうか。
何も知らずに大切にされる兄弟を憎まずになどいられるだろうか。
互いが唯一同等の存在だった。唯一同等だったからこそ、受け止めてやらねばならなかったのに。たとえそれがやり場を失った、虚しい怒りだったとしても。端々から放たれる彼の言葉を、悲鳴を上げる心を、ササライは受け止めきる事が出来なかった。
自分の苦しみを知ってほしいと願うと同時に、理解など出来るわけがないと突き放した彼。同じ絶望を抱えて苦しめと笑いながら、目を覚ませと叫んでいた弟。
三度目に相まみえた10年前のあの時の彼の行動を、何度も繰り返し思い出しては思考を辿って理解しようと努めてきた。それが今になってやっと分かることが出来るだなんて。
靴が床を擦る音でこちらの存在に気付いたのだろう。言葉に成らない声が止まり、その子供は座り込んだままゆっくりとこちらに顔を巡らせる。格子の隙間から差し込む光に照らされ浮かんだ顔に、思わず息を呑んだ。
あの日失った片割れと同じ面影を持つその顔立ちは、見間違いようもなかった。あの時のルックと同じ境遇のこの子供は、自分達と同じ存在に違いない。真の紋章を核に持つ……神官長ヒクサクの複製のひとりだ。ただひとつ違う点があるならば、それは色だ。目の前の子供は、まるで色を失ったかのように全身が白い。白髪に薄い灰を帯びた瞳。日を浴びずに育ったからなのか、白い肌には薄らと血管が透けて見える。
遅れて子供の姿を認めたらしいルディスが隣に並び立ち、格子の奥を覗き込む。すると扉の向こうの子供は、焦点の定まらない瞳でこちらを見つめ返した。
「……………だれ?」
それまで感情の見えない顔を向けていた子供が、ぽつりと言葉を放つ。
出て行ったばかりの世話役とも違う人間が現れたことに、少なからず異変を感じ取っているのだろう。良い答えが咄嗟に浮かばず戸惑っていると、ルディスは身を屈めて冷えた石の床に膝をつき、相手に合わせて視線を低くする。そして柔らかな口調で小さな人影の疑問に返答した。
「お姉さんはルディスというんだ、こっちはササライお兄さん。私たちはこの部屋の外から来たんだよ」
白い子供は意思を感じさせない表情を変えることなく、痩けた頬を晒してただその言葉に耳を傾けている。
「君は何でここに閉じ込められているの?」
「わからない……ここから出たことなんて、ないから……」
ルディスが無知な者特有の遠慮のない物言いで子供に問いかけると、白い子供は僅かに眉を寄せて諦めを含んだ、しかし意思を感じさせる言葉を返した。閉じ込められている理由など、ひとつしかない。運良く人として扱われているササライとは違い、真の紋章の容器として生涯道具のようにこの子の命を都合良く扱うためだ。……かつてのルックと、同じように。
だが、事情が分からない彼女はそれを知らない。知らないからこそ理不尽だと感じた事をそのまま、これはおかしい事なのだと口にするのだろう。
「ここから出たいかい?」
痛ましい言葉と姿に揺り動かされ、ササライも意思を探るように問いかけた。短いやり取りながらも確信したのだ。彼はただの人形ではない。ササライやルックと同じように、自分自身の意思を持ち合わせている。
「ここからは、出られないよ……」
光の宿らない瞳でそう返された言葉は掠れ、色濃い諦めを聞く者へと伝えた。
「出られるよ」
突如ルディスはそう答えると、固く扉を閉ざす鍵穴の前に立ちなにやら手元を動かし始める。そしてほどなくカチリと鍵が開く音が響いて、錠前をいとも簡単に外してしまった。どうだと言わんばかりに得意げに子供とササライにそれを見せているその手の中には、数本の鍵が連なった鍵束が握られている。
眠りこけた神官たちから失敬したのだろう。この際行儀が悪いなどと口煩く言うつもりはないが、相手の懐を探って物を拝借するという発想は自分にはなかった。知恵で立ち回るその様は、まるでナッシュのようでもある。
錆びついた音をたててあっさりと開かれた鉄格子の扉とルディスを白い子供はしばらくぽかんとした表情で見比べていたが、しばらく待ってみても自分の足で出てくる様子はない。
「……ここを出たら、どうなるの?」
彼の未知の世界への恐れを知るには、身を縮こませながら怯えたように発せられたその言葉だけで十分だった。
「自由になれるよ」
ルディスが答えた。
「”じゆう”って……なに?」
「たくさんの中から選べるようになるって事だよ。もう誰かに閉じ込められたりなんてしなくたっていいんだ。美味しいものを食べたり、綺麗な景色を見たり、大切な人と一緒に居ることだって出来るようになるんだよ」
するとそれを聞いた灰色の瞳が、わずかに驚愕を示すように見開かれた。まるで見た事もない宝石を見たかのように目に光が輝き、血色を感じさせなかった白い頬にほんのりと赤みがさした。
「ここに居ても君は何者にもなれないだろう。だが人として、自分として生きたいと願うのなら、僕が力を貸そう。……兄弟として、共に生きよう」
小さな胸に希望を手に入れたばかりの彼の背中を押すように、膝をつき手を差し出す。するとルディスも反対側の手を差し出し、最後にこう問いかけた。
「きみはどうしたい?」
「………いきたい……」
絞り出すように、しかし力強く告げられたその望みを受けとめるために、2人で汚れた小さなその手を取る。弱々しく握り返された掌からは、子供らしい温かな体温が伝わってきた。
怖々といった様子でようやく牢を出た子供の手を引き、来た道を急ぎ戻るために再び歩き出す。封印球の並ぶ部屋に差し掛かると、白い子供はしもやけで爛れた足をにわかに止め、それらを見上げて佇んだ。
「どうしたんだい、外に出るのが怖いのかい?」
その場から動こうとしない子供に声をかけると、彼はゆるゆると首を横に振ったあと、灰を帯びた瞳でササライの顔をじっと見上げた。
「……みんなは? みんなは、そとにいけないの?」
思いがけない言葉に、表情が強張るのを感じた。この子は知っているのだ。己もササライも、ずらりと無機質に並んだ封印球たちも、ルディス以外のこの空間に在るものはすべて、何者かに作り出された同等の存在なのだという事を。
幼い彼には分からないだろうと、心のどこかで高をくくっていたのかもしれない。だがそれは間違いだったのだろう。そもそもササライに真実を教えてくれたのは、かつてここに囚われていたルックだったではないか。
「それは出来ない。無理なんだ……」
彼ひとりの人生を救い出すことならば、不可能ではないだろう。神殿の上層部と渡り合い必ずこの子の自由を勝ち取って、2度と同じ過ちを繰り返さないと誓える。だが、人としての人格を持たない封印球までをも持ち出したとなれば、それは単なる略奪行為だと見なされるだろう。
既にここに居ること自体がササライの領分を越えているのだ。これ以上の危険を背負い込む事は出来ない。
すると彼はそんなササライを悲しそうに見詰めると、顔をルディスへと向けた。
「みんなにも……”じゆう”をあげて」
ササライがその懇願の意味を図りかねていると、ルディスはしばらく白い子供の視線を受けて見詰め合う。そして口を引き結んでただ一度、決心したように頷き返した。
背を向け、ずらりと並んだ封印球へと向かいあったその左手が持ち上がる。手袋と魔封じのアミュレットが外されたままだった手の甲から、淡い光と共にその手に宿る紋章の文様が浮かび上がるのをササライは見た。かざされた手の甲がいっそう眩く光輝く中、瞼を閉じたままの彼女の唇から詠唱が紡がれる。
次の瞬間何が起こったのかを、即座に理解することは出来なかった。
ルディスの紋章が発動すると同時に、今まで真の紋章の封印球が存在していた場所が突然、何も無い虚無へと変わり果てていた。まるで何かが弾けるような音とともに床石が大きく抉れ、立ち並んでいた真の紋章の封印球はひとつ残らず消え去っている。
僅かな砂塵の舞う中、封印球が在った一点を目を逸らさず目詰め続けるその横顔を、白い小さな手を握りしめながらササライはただ呆然と見入る事しか出来なかった。
2014年02月07日初稿作成
2020年07月01日サイト移転