Ⅵ 籠の中の安寧
奥宮殿の入り口に存在する美しい中庭。その片隅に、ひとりの青年が所在なさ気に佇んでいた。手持ち無沙汰といった様子で2着の外套を小脇に抱えながら、気の緩んだ顔を晒してひたすら待ち人の帰りを待っている。
「久々に綺麗なおねーちゃん達が居る店にでも行きたいもんだなぁ。でもあの店のおねーちゃん達、もう俺の事なんか綺麗さっぱり忘れてたりしてな……」
青年が上司の命令に従いとある人物の護衛の任務に就いてから、早いもので数ヶ月の時間が過ぎようとしていた。片時も目を離すなとの指示を守り四六時中護衛対象と生活を共にしているので、彼にとってこの数ヶ月は自由もプライベートも無いに等しい状態だったのだ。しかし言葉とは裏腹に、聞く者が居ない事を良いことに取り留めのない事をぼやくその姿からは、文句を言いながらも世話を焼くのは満更でもなさそうな人の良さも滲み出ている。
季節感のない青々とした緑や豪奢な噴水を鑑賞することにも飽きた彼は、何となく中庭を覆うようにドーム状に設えられた硝子張りの天井を仰ぎ見た。ハルモニアの高度な技術で作られた透明な天蓋の向こうにあるはずの青も、雪と鉛色の雲に閉ざされ垣間見ることすらかなわない。この国の青は今は天には在らず、法とともに地に存在するからだ。
大陸の北に位置するこの国にとっては珍しくもない光景だが、こう雪ばかりが続いていては太陽の光が恋しくなるのが人間というものだろう。一体いつまで、この全てを覆い隠すような雪は続くのだろうか。ぼんやりそんな事を考えていると、突如雨雲が上空に現れたかのように足元に影が生まれ、視界は濃い灰色に塗りつぶされた。
「ん? 何だ?」
呑気に首を傾げる青年が事態を正確に認識したのは、その身に災厄をこうむってからの事だった。
「どぅわっ?!!!」
押しつぶされた蛙のように奇怪な声を上げる青年をよそに、突然彼の上へと現れたふたつの人影はその背中へと見事着地を果たした。下敷きになった青年が良いクッションになったのだろう。現れた人物は身体を痛めた様子もなく、直ぐ様立ち上げると、忙しなく視線を巡らせる。
「失敗したのか? いや、魔力が干渉し合って転移魔法の軸がぶれた……?」
聞き覚えのある少年の声が青年の耳へと降ってくる。その声をよく知るラッシュは、なかなか自分の上から降りてくれない上司へと、聴く者に憐れみを抱かせるであろう情けない非難の声で訴えかけた。
「ど、どいていただけますか……お願いします……」
その声でやっと青年の存在に気付いたのか、頭上の人物は視線を落としたのち地面へと降り立った。ようやく人二人分の重さから解放された青年は、たった今まで己を踏みつけていた上司へと向き直ると驚きの声を上げる。
「ササライ様、その子供は……?」
コートに付いた土埃を払いながらラッシュも立ち上がる。見覚えのない、しかしササライによく似た子供を伴った上司に問いかけると、その問いを軽く手を上げ押さえたササライは周囲の状態を確認するように視線を走らせた。
「ルディス、どこに居るんだ!?」
更に自分が任されている護衛対象を探し始めたササライに、目を丸くしながら再度問いかける。
「ルディスですか? ご一緒だったのでは」
「さっきまでは確かに共に居たんだ。転移する直前までは傍に居たから、そう離れてはいないはずなんだが……」
どうやら厄介な事になっているようだ。即座に事態を飲み込むと、人払いされて誰も居ないはずの美しい中庭をぐるりと見渡した。
「どうしたんだい?」
後ろから聞こえた上司の声に振り返ると、ササライは彼とともに転移魔法で現れた白い子供に話しかけていた。子供は耳をすましているのか暫く遠くを見るように立ち尽くしていたが、すぐにまるで人間の足音を拾った小動物のようにピクリと小さな身体を震わせた。そしてササライと繋いでいた手を解くと、奥宮殿へと続く扉へと裸足のままのおぼつかない足取りで近づいていく。
まさかと思いながらもその子の隣に並び扉の真正面に立つと、ぴったりと閉じられた扉の隙間から蚊の鳴くような声が漏れ聞こえてきた。
「おーい、ルディス! そこに居るのか!?」
声を張り上げて扉の内側へと問いかけるが、何しろ声が遠くて返事が返されたのかどうかも判別がつかない。
「何て言っているのか分かるかい?」
ササライが白い子供へと向き直る。
「あかない、たしかにああ言ったけれどこのタイミングはひどい、って……」
「何の事でしょうか?」
「気が動転して誤解をしているようだ……とにかく、ルディスである事は間違いないようだね」
そうは言うものの、突破すべき障害は高い。固く口を閉じて鎮座する扉は体重をかけて押しても微動だにしないし、取っ手らしき物も見当たらないので引いてこじ開けることも出来なそうもない。
「……かぎで、あけられないの?」
「これは鍵で開閉する扉ではないんだろう。恐らく権利を与えられた者だけが通過出来る魔術の類が掛けられているんだろうが……」
ササライは心配そうに見上げてくる子供に優しくそう答えると、次に声のトーンを落としてこちらへと耳打ちをした。
「力づくで抉じ開ける事は可能かい」
おいおい、本気か? そう驚きながらも、求められた答えを差し出す。
「お許しを頂けるのであれば、火薬を仕掛ければ……あるいは」
「どれくらい必要だ?」
「……半時といったところでしょうか」
そうラッシュが答えると、ササライは固い表情を作り押し黙る。最善の策とは言えない。表情がそう物語っていた。
どう考えても、状況は良くない。前例の無いこの妙な状態からみても、自分の主であるササライが何かしらの事を起こし、その結果急ぎこの場所を離れたがっているのが見て取れる。
この場面で取るべき判断は大きく分けて2つだろう。危険は増すが時間が掛かってもルディスを救出するか、もしくはルディスを見捨てて立ち去るか。
過去に属していたあのギルド流に言えば、任務の成功率だけを考えて後者を選ぶのが正解なのだろう。しかしササライは見捨てる選択肢など最初から無いとでも言いたげにその場を離れようとはしなかった。無論ルディスと最も共に時間を過ごしてきた自分もまた、同じ気持ちだった。
身内を助けるためならば、神殿の扉のひとつやふたつ、吹き飛ばすくらい吝かではない。そう腹を決めてコートの内側にある火薬の小瓶へ指をかけた瞬間、その場の誰もが予想しなかった形で問題は解決した。
鈍い音とともに固く閉じていた扉が僅かに開かれ、人ひとりがやっと通れるほどの隙間からワインレッドの服が飛び出してきたのだ。懸命に中から押し開こうとしていたのか、転がるように現れたその体を、転倒するすんでのところで受け止める。鼻の頭を赤く染めて怒ったような泣きたいような、そんな表情をした見慣れた顔が腕の中にはあった。
「何があったか知らんが、泣くなよ」
「………泣いてない」
どう見ても半泣きの状態なのだが、本人は認めたくないらしく口を結んで鼻をすすっている。そのやり取りのすぐ後ろでは、殆ど表情が読み取れない子供と、その肩に手を置いたササライが疲労を含んだ安堵の表情を浮かべていた。
やっとの思いで外に出られて文句を言う元気も失ったのか、ルディスは言葉が出ない様子で何か言いたげにササライをじっと見ている。疑いの眼差しを向けられた当の本人は、うっすらと汗の滲んだ青い顔をしながらも、踵を返して迷いのない足取りで扉とは逆方向へと歩き出した。
「説明は後だ、一刻も早くここから離れよう」
その提案には賛成だ。第一ここは何もかもが完璧すぎて、ゆっくり話し込むには落ち着かなすぎる。北口に待機させたままだった馬車を使えば、とりあえずはこの堅苦しい宮殿を離れる事ができるだろう。
ササライに従い歩き出した二人に続こうと、ラッシュも身を翻して扉へと背を向ける。しかし背中に視線を感じて、歩き出そうと踏み出した足を止めた。顔を向けることなく、薄く開いたままの扉のその奥の暗闇に目を凝らす。曲がりなりにも暗殺と守護を司る組織で訓練を受けた者が、素人臭い下手な姿の隠し方に騙されるはずもない。細く覗いた扉の隙間から見えた青い法衣の裾が滑るように消えると、音もたてずに宮殿の最深部へと続く扉は静かにその口を閉じていった。
馬車に揺られている間は、誰ひとり言葉を発しなかった。それぞれが疑問と疲労を抱えながら、逃げるようにあの場を後にしたのだ。聞くべきは今ではないと互いに暗黙の了解を感じ取っていたのかもしれない。
辿り着いたのは、後方に果ての見えない針葉樹の森を背負った館だった。この郊外に建てられた邸宅と、暖かな季節ならばのどかな風景が広がるこの辺り一帯は、ササライが所有する荘園だった。
左右に出迎えが並んだ正面玄関で馬車を降りると、責務に追われ普段邸宅に戻らないササライに代わりこの屋敷を預かる執事が、一歩前へと歩み出た。主人が連れ帰った見慣れない者たちを前に執事はほんの一瞬だけ驚きを示すように目を細めたが、すぐに落ち着いた佇まいを取り戻す。
突然この郊外の邸宅へと戻った主人の行動に疑問が湧かない訳がないだろうに、慇懃な挨拶を述べたのち、彼等は丁重な態度を崩すことなくルディス達を広さだけはある屋敷の中へと招き入れた。
「この子に湯浴みを」
そう言い渡して腕の中の”弟”をラッシュに任せると、出会ったばかりの彼は不安気にこちらを何度か振り返りながらも、大人しく手を引かれて別室へと姿を消して行った。
執事が声をひそめて顔色を心配する言葉をササライへとかけたが、端的に問題ないと返すとその足で客間の一室へと真っ直ぐに向かう。
こちらから呼ぶまで誰も部屋には近づかないようにと申し付けると、執事たちはササライとルディスを残して静かに客間の扉を閉じた。
プロ意識の高い上級使用人である彼等は、決して主人の秘密を口外したりはしないだろう。だがこれから交わされる会話は、何かの間違いで他の人間が知ってしまえば、命の危険を覚悟しなければならないような危険を孕んでいる。これは彼等使用人を危険から遠ざける為の指示でもあった。
転移魔法の連続使用による消耗。嘔吐による疲労。そして精神的なものも加わり、立っているのが億劫なほど蓄積された負荷は今や大きな倦怠感となり両肩にのしかかっている。だが話すべきは今しかないのだろう。きっと時間が経つほど口を閉ざし、この秘密を打ち明けることを躊てしまうだろうから。
力なく近くのソファの肘置きに手をかけると、そのまま背中がずるずると背もたれをつたい柔らかなクッションへと腰を落とした。閉じられた扉の前には、メイドに勧められた着替えを後回しにしてまでササライの言葉を待っているルディスが居る。すぐ側にあるソファにも座ろうともせずに、ただ冬の暮色を浴びながらそこに佇んでいた。
「今すぐに説明が欲しい。……そう言いたげな顔だね」
あの場所は何の為の場所だったのか。地下牢に囚われていた子供は何者か。彼女が抱いた疑問は、そんなところだろうか。
それとも、転移魔法を失敗したササライに対して怒っているのだろうか。
「……あの行動は一体何のつもりだったのか、答えてくれるかい」
「あの行動?」
「君があの時、真の紋章の封印球たちを……消滅させた紋章魔法のことだよ」
目の前に存在する全ての物を、まるで見えない牙が抉り取るような魔力の発露。攻撃魔法なのは間違いないのだろう。だが、ササライの知る限り見たこともない紋章魔法だった。
しばらくの沈黙の後、ルディスが静かに口を開く。
「シンダル遺跡で倒れた時に見た夢の中で、この紋章の魔法で敵が倒される光景を見たんだ。だから、攻撃魔法だって知っていたから使った」
「何故、あの時封印球を攻撃しなければならないと判断したんだ?」
危険はないのだと確認したのならば、紋章も宿ってはいない空の封印球を攻撃する理由などないはずだ。
「……あの中に入っていたのは人間の体の一部のように見えたから、だから、楽にしてあげたいと思ったんだ」
この内に有るはずの心臓の脈打つ音が、振動となって耳の中に響いた。
「もう死んでいる人間をあんな風に扱うのは、死者への冒涜だと思ったんだ。もしまだ生きているなら……もっと惨い。だからもう彼等は楽になるべきだと思った。もしも自分が同じ立場になったら、そう願うだろうから」
……彼女は気付いただろうか。
あの封印球と僕が、僕たちが、同質だという事を。
息を呑み、続く言葉を待つようにただその顔を見詰めた。
「……勘違いだったらごめんなさい。真の紋章の封印球の中に閉じ込められていたのは、弟と呼んでいたあの子と同じ貴方の兄弟たちなの?」
貫くようにササライと目を合わせた彼女の悲しみを湛えたその黒を、逸らす事すら出来ずにただ諦めるように受け入れた。
詳細は分からずとも、封印球の中に浮かぶ瞳の色がササライのそれと同じものなのだと、間近で見た彼女は気付いてしまったのだろう。封印球に手を添えて、初めてササライの目を見た時と同じように綺麗だと囁いたあの時に。
これまで通りの生き方を望むのならば、今この場で彼女を”処理”するのが正解なのかもしれない。しかしもう既にササライは選んでしまっているのだ。絶対であると刷り込まれて育った、神殿の思惑から外れた道を。
分からないから、理解しようと行動を起こす。真実を知らされていないから、周囲の思惑を汲めずに大それた選択をしてしまう。既に只の保護対象ではなくなりつつある相手に下手な隠し立てをするのは逆効果なのだと、今回の一件でササライは嫌と言う程身に染みて実感していた。
この国の一部として生きて行くかどうかを問うのは、まだ早いと思っていた。だが望むと望まざるにかかわらず、何も知らずただ共に過ごせる優しい時間は、もうとっくに終わってしまっていたのかもしれない。
「……かつて僕には、ルックという”弟”が存在した」
泥に沈むように体重を預けた背もたれから、ギシリと軋んだ音が鳴った。静かに語り出された昔話にルディスは瞬きも忘れたように耳を傾けた。
―――時を遡ること、およそ10年
グラスランドを戦火が包んだ『英雄戦争』と語り継がれる戦い
これはその戦争を引き起こした、一人の男の話
今や神殿の記録からも抹消された
『仮面の神官将』と呼ばれていたその男の本当の名は
〈真なる風の紋章〉の継承者、ルック
ハルモニアすらをも利用し
己が目的を果さんと火禍を瞬く間に草原へ広げた強風は
炎の英雄とその仲間の手によって砕かれ歴史の闇へと葬られた
ただそれだけの話ならば
野望を抱いた哀れな男の末路だと言えるのだろう
だがそうではなかった
ルックは自らを破壊者と嘲りながら
その実は世界の救済を望んでいたのだと知ったのは
すべてが終わった後、
彼が最期に言葉を交わした炎の英雄ヒューゴの口からだった
やがて未来を覆う灰色の未来の訪れを憂い
その身を捧げて世界を救おうとしたのだと
愚かだと笑う事は出来なかった
哀れだと忘れる事など出来なかった
彼はササライの”弟”であり、もう一人のササライだった
“真の紋章の封印球”の正体は神官長ヒクサクの不恰好な複製であり
己も同様の存在なのだとルックは語った
“兄”と呼んだササライもまた
同じように造られた真の紋章の容れ物に過ぎないのだと……
「これでもう、君に秘密はないよ……」
抑揚を抑えて淡々と語った過去の記憶は酷く現実味を欠いていて、驚くほど淀みなく音を得て紡がれた。失態も秘密も全てさらけ出してしまった。ルックの事すら包み隠さず話した。ずっと話せなかった己の秘密を打ち明け、不思議と胸のつかえが取れたような、そんな気分すら感じていた。
「話してくれた内容はとても複雑だし、難しいことは私にはよく分からない。……でも私の目には、貴方たちは人間にしか見えない」
静かに耳をかたむけていたルディスはぽつりとそう呟くと、向かい合うササライへと視線を上げる。
「あの子を最初に見た時、私は貴方に似ていると感じた。謁見の時にあの人の声を聞いた時もやっぱり、似ていると感じたのは貴方だったから。だから」
恐れていたはずのその瞳には蔑みでも憐れみでもなく、ただただ真っ直ぐで純粋な色だけが映っている。
「もしもこれから神官長ヒクサクの顔を見る事があったとしても、私は他の誰でもなく、最初に出会ったササライに似ていると感じるんだと思う。人の認識なんて、そういうものだと思うから」
親しい友人のように名を呼ばれるのは、これが初めてではないだろうか ───
そんな場にそぐわない感慨を、凪いだ海のような心の中で呟いた。
「大切な事を話してくれて、ありがとう」
見慣れたはずの顔に浮かんだ、頬と服を汚しながら少しばかり腫れた目を細めて形作られたその笑顔を、例え様もなく美しいと思った。
知らぬ間に張り詰めていた緊張が緩んだのかもしれない。気づけば、肺に溜まっていた澱みを吐き出すように意図せず天に向かい安堵の息をついていた。
「私も貴方に秘密は……」
語尾がすぼみ言葉が途切れる。何かを思い出したように表情を硬直させたかと思うと、今度はしどろもどろと手を合わせ、ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべ始める。
「少し、ある……」
「話してごらん」
どうやらあまり隠し事は得意ではないらしい。今度は許容の溜息をつきながら穏やかな口調で促すと、ルディスは悪戯を暴かれた子供のようにしょげて俯いた。
「ラトキエ家の事情を、クリスタルバレーに来た最初の日に聞いてしまったんだ。ごめんなさい……」
重大な秘密を告白するかのように告げられた内容に、思わず肩透かしをくらう。
「それはもう知っているよ。むしろあれで隠しているつもりだったのなら、僕も君たちにずいぶん甘く見られたものだね」
民衆派の筆頭貴族だったラトキエ家は、没落してもなお利用価値の残る血筋だと言える。
今でこそ静かなものだが、当時は神殿派・民衆派問わず当主不在のラトキエ家を利用しようと画策し、骨肉の争いが繰り広げられた。ギルドとの闘争にも発展しかねない状況を見兼ねたササライが密かに助け舟を出し、最終的にはナッシュ・ラトキエが首謀者との決着を着けて事態が収まったという経緯がある。
だからこそ、分家筋のスフィーナ家が行き場を失ったラトキエ家の者たち、ユーリ親子を手厚く保護し、特例的な対応としてそのスフィーナ家との縁を持つ神官将である自分の存在をにおわせているのだ。『迂闊に手出しをすれば只では済まない』と含ませて。
ちなみにこの貸しは今もナッシュがせっせと労働で返してくれているのだが、返す先から増える貸しをすべて返済し終わるのは、当分先になることだろう。
没落貴族自体は、ハルモニアではさほど珍しいものでもない。だが他の元貴族たちとも普通の二等市民とも違う特殊な境遇で育ったラッシュは、遠巻きにされ腫れ物に触るような扱いを受けてきたという経緯がある。そんな他人と距離を置いて生きてきた彼がすぐに打ち解けたというのなら、関係性を変えるなんらかの切っ掛けがあったはずだ。恋人同士になったという感じではなかったし、第一リスクを冒してまで護衛対象に手を出すほど、彼は愚かではない。
だとすれば思い当たるのは、秘密の共有だ。ラトキエ家の屋敷に他人が入る状況を受け入れるはめになり、不自然な家庭の事情を隠し切る事を早々に諦めて打ち明けたのだとすれば説明がつく。そして同じ秘密を共有すると人は、相手を仲間だと認識して心を開きやすくなる。
そう順を追って丁寧に説明をすると、最初は縮こまっていたルディスは、話しが進むにつれて惹き込まれたように呆けていたかと思うと、最後は感心したように頷いていた。そもそも、ラッシュにラトキエ家の過去を教えたのは他ならぬササライなのだ。そんな分かりきった事を告解されるとは思いもしなかった。どんな言葉が飛び出るのかと身構えていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
すっかりいつもの調子で饒舌に話してしまった。昏い秘密を知ってもなお変わらぬ態度に、静かな喜びを感じているからだろうか。
「それと……」
「まだあるのかい?」
からかうような口調で尋ねると、困ったような顔が返ってくる。どうせまた小さな隠し事だろうと高を括って耳を傾けたその続きに、少なからず意表を突かれた。
「この紋章を宿した時に見た夢に、貴方によく似た人が出てきたんだ」
「……何故、あの時すぐに話さなかったんだ」
「穏やかではない内容だったから、あの時はあれ以上心配をかけたくなかったんだ。だから、ごめん」
「穏やかではない内容? どういう事だい」
背もたれから上半身を起こして話の続きを促すと、言葉を選びながらルディスはその時見たという夢の内容の一部始終を語った。ササライとよく似た顔の男に殺されて終わる、途切れ途切れの夢。その断片的な情報とササライの知る知識を繋ぎあわせて推測を組み立てる。
「君が宿したその紋章、たしか〈涙の紋章〉と言ったね。ヒクサク様は古代アロニアの統治者が所有していたと仰っていたのだと。だとすれば、建国戦争でアロニアの王が倒れた時の記憶を見たのかもしれない。真の紋章は宿す者に、過去の継承者の記憶を夢見させる事があるからね」
今しがた話し聞かせた内容を思い出したようで、ルディスは納得したように感嘆の息を漏らした。ササライがヒクサクの複製なのだと知っていれば、彼女はもっと早く答えに辿り着いていたのかも知れない。
「何故神官長は謁見の時、私に嘘を教えたんだろう。たしかに考え方によっては貴方達は親子なんだろうけど……」
「……真意は分からない。けれど、今君に話している内容はすべてこの国の最高レベルの機密情報にあたる。だから教えられなかったとも考えられる。ひとつだけ言えるのはヒクサク様が何をお考えなのかは、情報が足りない今の僕達には辿り着くことは困難だという事、それだけだよ」
ルディスは視線を落とし、納得がいかないと言いたげに口にへの字を浮かべている。嘘で塗り固める上層部のやり方など、今に始まった事ではない。真に価値の有るものを掴みとりたければ、己の手で成すしか道はない。それもルックがササライへと伝えたかった事の一部なのかもしれないと、今ならば言えるだろう。
「さっきの話に出て来た、真の紋章を通して見える灰色の……未来? 私は見た事が無いのだけれど、ササライはあるの?」
「いいや。僕は神殿の結界の中で育ったし、より紋章に近かったルックよりも影響が少なかったのかも知れない。君は宿して日が浅く紋章との繋がりも薄いから、その為だろうね」
真偽はともかく見ることも出来ない未来など、ハルモニアから出ることも叶わない自分たちには、今は途方も無い夢物語でしかない。そんな会話を交わすと、彼女はその左手に視線を落とした。すると今度はそこに有る紋章を確認した顔が、訝しげに顰められた。
「もう魔法は限界まで使ったはずなのに、魔力が回復してる」
まさかと思いながらも確認の為に紋章魔法を使わせると、言葉通り発動した眠りの風は、ササライのリフレクトの壁に散らされて直ぐに掻き消えた。
「もしかしたらその紋章は、魔力吸いの紋章と似たような効果が有るのかもしれない。あの紋章はそれほど強い効果を得られるものではなかったはずだけど……」
その紋章は試した事がなかったと呟くその横顔を眺めながら、胸の内ではこれからの事を考え始めていた。
「あの子の事、心配だけど貴方と一緒なら安心だから、よろしくお願いします」
そう深々と頭を下げて当然のようにラトキエ家に帰ろうとする相手へと、呆れを含んだ言葉を返した。
「何を言ってるんだい。君も当分この屋敷で暮らすんだよ」
一瞬の沈黙ののち、拍子のずれた驚きの声が飛んでくる。
「えっ」
「当然だろう? 事態が落ち着くまで君はラトキエ家には戻れないからね。だから責任を取って、暫くここであの子の面倒を見るんだよ」
「わ、わかった……」
完全に意表をつかれた様で立ち尽くした間の抜けた顔を、笑いを噛み殺して横目で見遣る。
夕焼けの朱と臓腑の赤を、等しく美しいと謳う。虐げられる者の解放と死による救済を、同等に願う。時におそろしく時に美しい、その稀なる世界の捉え方。このハルモニアでは特異な価値観を持つからこそ、不自然な存在であるササライをすんなりと受け入れてくれたのかもしれない。
だから一番傍に置く事を選んだのは、おそらく出会った時から続く奇妙な好奇心の延長線なのだと、そう思うことした。
ササライが所有する荘園だというこの大きな屋敷に来た当初は、正直これまでの生活との違いに少なからず戸惑いを覚えた。
神殿での奉公や街の喧騒とも切り離されたこの穏やかな生活は、まるで外に存在する諍いや 煩わしさと切り離された、秘密の小さな隠れ家のようでもあったからだ。
事実、普段は宮殿の敷地にある官舎へと体を休めるためだけに帰るのだというササライも、少ない賜暇を使ってはこの荘園に足を運んで、誰にも干渉されないささやかな休養を得ていたのだと教えてくれた。
帰ることの出来なくなったラトキエ家では、帰ってこないルディスのことをユーリはきっと心配していることだろう。事態が落ち着いたら戻れるのだろうが、結果的に挨拶も無しに出てしまったのは気に掛かったし、何よりも世話になったユーリを悲しませるのが心苦しかった。
元は名のある貴族が所有していたというこの立派な屋敷は、全体を窺い知るのが難しいほどの広さを誇っていた。
「部屋の位置関係を知りたいもんだな」
そう言い出した護衛の青年の後を、世話係として一緒に過ごしているネウトも連れて3人で邸宅の中を探検をした時は、一息に把握するのは到底困難だとラッシュが舌を巻いていたのを覚えている。ルディスにいたっては途中までは部屋の数を数えてはいたのだが、段々見分けがつかなくなり最終的には何部屋あるのか分からなくなってしまったほどだった。
そんな邸内でも特に印象に残った場所といえば、大振りの硝子が贅沢に使用された温室だろう。管理された湿度の中で様々な植物が水々しい葉を伸ばして競っている様は、窓の外がまだ雪深い冬であることを忘れさせるような光景だった。そこにあるのは麻痺や毒への効能を持つ薬草や、観るものを楽しませる背の高い観葉植物たち。もっとも日を浴びる一角には、蔓が生い茂る薔薇の株まであった。
食事の際に使用する食器ひとつとっても、勝手が違う。指先でいたずらにスプーンを弾くと白銀の輝きを放つそれはキィン、と澄んだ音を鳴り響かせる。
長らく世話になっていたラトキエ家の食卓で見かけた食器達は、主に木製や真鍮といった身近な素材が主だっが、ここで使われるそれらは全て、ピカピカに磨かれた紛れもない本物の銀食器だった。
凄い。こんなのラトキエ家でも見たことがない。
住む世界が違うとは本来こういうことを指すのだろう。素朴で慎ましやかだった二等市民の生活とは違う立派すぎる邸内の様子に、彼がこの国でも数人しか存在しない最高レベルの権力者の一人なのだということを今更ながらに理解せざるを得なかった。
ここに来た最初の日に打ち明けられた秘密を仕舞い込んだ胸の内には、ラッシュやジュニアにも言えない新しい秘密を抱える事になってしまった後ろめたさと、今まで近いようで遠かったササライとの共通の秘密を抱えているむず痒さが同居している。これが秘密の共有というものなのかと、ひとり納得をする。
ササライは他の者達には円の宮殿の地下牢から救い出したあの子の事を、事情があり別々に暮らしていた弟にあたる子供なのだと、そう説明したようだった。なにしろ、彼がもしも7歳くらいの子供になったのならこんな感じなのだろうというくらい瓜二つなものだから、他に言い様もなかったのかもしれない。ササライが不在の時は護衛として引き続き傍に居てくれる事になったラッシュも、疑う事なくそれを信じたようだった。
邸宅で過ごす間は、ここに来る前と同じように何も知らないような顔で過ごさなければならなかったが、そもそもあの秘密を聞かされた後もササライを慕う気持ちに変わりはないので無理に取り繕うような場面もなかった。
例えばラッシュが没落貴族の家に生まれたが為に士官出来ないのも、ルディスがハルモニアでは三等市民に分類されて軽んじられる外見なのも、生まれ持ったものであり、己の意思で選んだ訳ではない。ササライの抱えていた秘密もその問題の質は違えど、彼が選んだものではないという点では同じだ。
自分ではどうしようもない事で後ろ指を指される辛さも、受け入れてもらえた時の嬉しさも、ここに来て学んだ事だった。
そもそも、偉いからとか強いからとか、そんな理由で彼についてきた訳ではない。一度信頼を失いかけた経緯があるからこそ、信用に値する人間だと判断して心の内を話してくれたことが、ただ嬉しかった。
外界と切り離された穏やかな日々を過ごすうちに、少しづつではあるが、この邸宅の管理に従事する人々の事も分かってきた。
主の留守中に屋敷を預る彼等使用人は、二等市民の者も居れば三等市民の者も居て、中には元々は一等市民の家柄だったという者まで居て驚いた。よくよく話を聞いてみれば、年齢も身分も様々なこの邸宅の使用人たちの共通点は「神官将ササライに恩義があり仕えている」という一点に他ならなかった。
つまりここに居る者たちは様々な理由でハルモニアの中で行き場を失った者達であり、進退極まっていたところを運良くササライに拾われたという事なのだろう。彼等はルディスと同じように、彼に助けてもらわなければ日陰に生きるしかなかった人々だったのだ。ササライがルディス達が身を寄せる場所としてここを選んだ理由が、なんとなく理解できたような気がする。
そんな彼等の反応の中で最も意外だったのは、ササライが不在の日には護衛としてこの邸宅に来ることになったラッシュに対するそれだった。
歳若い使用人たちは別として、ユーリと同年代、もしくはそれよりも上の年代の使用人たちは、彼がラトキエ家の嫡男だと知るやいなや驚き萎縮し、何故かその場で頭を下げ始めるのだという。年配の庭師は突然畏まり、いそいそと帽子を脱いでは貴族に対するような大袈裟な礼を始めるし、恰幅の良いメイド長に至っては「ラトキエ家のぼっちゃん」と呼んでユーリは元気なのかと親しげに話しかけてくるのだと、毎日飽きもせずに愚痴を報告してくる。
「まったく、俺が何したってんだよ」
背中を丸めて居心地悪そうに後頭部を掻くその姿は、急に構われすぎてうんざりしている野良猫のようだった。
『ラトキエ家は、没落してもなお利用価値の残る血筋だと言える』そうササライが語った話の一端が脳裏を掠める。突然現れたルディスたちに良くしてくれる彼等を、利用しようと近づいてくる輩ばかりだと決め付けるのは早計なのかもしれない。けれど、用心に越したこともないのだろう。
「ラトキエ家は、派閥はどちらなの?」
「ん? 何だお前、派閥なんてよく知ってたな」
「以前ジュニアに教えてもらった。そういえばラッシュとこういう話をするのは初めてだね」
庭先を借りて行っていた剣の稽古の後そう問いかけると、深緑の瞳が意外そうに細まった。いつもとは少し感じの違う、けれど落ち着いた表情がそこには在った。どう違うのかともし問われてもうまく言葉では言い表せないほど、複雑で、小さな違い。
「そうだな……昔はそこそこ大きい民衆派貴族をやってたらしい。だが今はただの没落貴族だよ。政治的な力なんてものも無い。だから俺は、腕一本で護衛家業をやってるってワケさ」
ジュニアは、自分達は民衆派なのだと教えてくれた。ラトキエ家も民衆派。更にここの使用人たちも、直接聞いた限りでは民衆派の者ばかりだった。どうやら、民衆派と神殿派は対立しているというだけあって、円の宮殿のような場所でもない限り両陣営の者が入り乱れているわけではなく、どちらか一方の派閥の者達が集まるのが自然のようだ。
しかしジュニアは、ハルモニアの民である限り人質を取られるなどすれば、あっさり寝返る可能性もあるとも言っていた。今日味方だった者が明日急に寝返り敵になる可能性も、ゼロではないと。
外の政敵を牽制しながら味方も疑わなければならないなんて、なんだか疑心暗鬼に陥ってしまいそうな話だ。
「急に政治の話なんて持ち出した理由はなんとなく分かるが、俺は大丈夫さ。人の心配をする元気があるようなら、お前さんも大丈夫だな。……けど、ひとつ忠告しておくぞ。ササライ様はやめておけよ」
「やめる?」
真剣さを帯びた言葉が何を指しているのか咄嗟に理解出来ず、思わず おうむ返しで問い返していた。
「血縁でもない男女が一つ屋根の下……! なんて、間違いでもあったら大変だろう!?」
「じゃあ、ラッシュと一緒に暮らしてた時も危なかったのか…」
ようやく意味を理解して見上げると、兄貴分の血が騒ぐのか、まるで説教をするかのように仕事で護衛として行動を共にするのと今回では、状況がまったく違うのだと力説が始まる。
「いいや、ラトキエの家に居た時とは全然まったく状況は違う」
「よく分からないけれど、そんな心配は必要ないと思う。そもそも、聖職者は結婚できないものでしょう」
神官とは神に仕える聖職者のはずだ。だから間違いなど起こるはずもない。するとそれを聞いたラッシュの熱を帯びていたその顔が、見る間に呆れとともに冷静さを取り戻していく。
「おいおい……本気で言ってるわけじゃないよな? この国の神官は婚姻を許されているんだぞ。もっとも、ササライ様の場合はもっと複雑だろうけどな……」
本当は大真面目に言った言葉だったが、また世間知らずだと笑われるのも癪だったので冗談半分だと言葉を濁した。
目の前の青年の話では、神官長ヒクサクが所持する〈円の紋章〉に仕えるハルモニアの神官は、聖職者としての側面も確かにあるが、政治家といった方がより正しい存在らしい。彼等の大半は一等市民である貴族から輩出されており、ハルモニアの実権を掌握してあらゆる勢力を動かしているのだという。選ばれた血統を持つとされる彼等の成すべきことは、ヒクサクに仕え国を動かすこと、真の紋章を集めること、そして純粋な血を繋ぐこと。だから聖職者であっても神官は、家庭を持つことを許されているのだと。
しかしササライの場合は、普通の家庭を持つことはおよそ有り得ないのだろうともラッシュは語った。何しろ彼は”生まれながらの神官将”という、神殿で生まれ神殿で死ぬ事を運命づけられている存在なのだという。しかも真の紋章の所有者だ。他の者たちが知り得ない生まれの事を差し引いても、普通の人間として余生を過ごすなど許されないのだろう。
「たしかに神官は聖職者だ。でも同じ人間であることには変わりはないし、権力と金を腐るほど持ってる神殿の青狸どもが裏で何をしてるのかなんて、誰にも分からんだろうが。表にこそ出てはこないが、どこそこの高位の神官の血筋だとか、誰それの落胤だとか、本当かどうかも怪しいそんな奴らは履いて捨てるほど居るんだぞ」
彼の言う青狸にはササライも含まれているのだろうか。そう思ったが、口に出すのは止めておいた。
「西の街で遺跡に行った時の事、覚えているか?」
その言葉に首肯で答える。自分の弱さをどうすれば良いのか分からず、逃げ出すことすら考えたあの時。持て余す不安を吐露したルディスを叱咤してくれたのは、今も変わらず傍に居る目の前の青年だった。
「ここに戻って力を尽くす事を、あの時のお前は自分で選んだんだ。問題にぶつかった時にはそれを思い出せよ。……これでも、心配してるんだぜ」
彼等のおかげで、あの頃よりは剣も紋章魔法も少しは扱えるようになれた。身を守れる術を身につけるという第一目標は、もうすぐ達成できるだろう。……でも、その先は? それからどうすればいいのだろう。進むべき道をまだ見つけられないこの状態は、まだまだ自分の力で立っているとは言い難い。
「迷惑を掛けるばかりで、何を返せるのか正直まだ分からないんだ」
知らず気落ちしたような声をあげてしまうと、肩に軽い衝撃が走った。驚きそちらへと首をひねると軽く握られた拳が、大丈夫だとでも言いたげにルディスの肩へと差し出されていた。
「俺の見る限りあの方にとってお前は、保護すべき対象であり、戯れ程度の友達ごっこの相手といった感じに見えるよ。喜んでもらいたいっていうんなら、損得なんか関係ないって顔でずっとただの味方で居ればいい」
「……分かった」
そんなこと、言われずとも分かっている。そう含めた返事を返すと、肩に当たっていた拳へと、己のそれを重ねて呟いた。
それは、ある日ササライの私室の近くを通りかかった時の事だった。
もちろん屋敷の探索に関しては主である彼の許可はすでに取っており、他の場所では使用人たちも苦笑しながらも自由にさせてくれていたのだが、この時ばかりは足を踏み入れるどころか近づく事すら必死の形相で止められてしまった。
最初は、留守中に勝手に主の部屋に人を入れる事は出来ないためなのだろうと思っていたが、額に汗を滲ませ止めるその様子から見ると、どうやら他にも理由があるようにも見えて不自然な違和感を感じていた。
また別の日に通りがかった時は、今度は数人のメイドが彼の部屋を神妙な顔つきで覗いているところに遭遇した。
その時になんとなく目にした中の様子、その光景がとにかく凄かった。
扉口から見えるソファに無造作に掛けられたあのハルモニアブルーの衣類は、もしかしなくてもいつも着用している軍服なのだろうか。あのまま放置していてはシワがついてしまうのではないだろうかと見る者に不安を与える。そのソファの足元には、読みかけの本を材料にしたいつくもの塔が、遺跡群を成して広がっている。テーブルの上に見えるあれは、もしや食べかけの食事……なのだろうか? 正に男の一人住まいといった凄惨な光景だった。
凄い、こんなのラトキエ家でも見たことがない。
言葉を濁しながらも教えてくれた執事やメイド達の話を合わせると、不在の間に片付けてもすぐに元通りになってしまうので、彼の部屋は年がら年中常にこんな有様なのだという。
プロのメイドも裸足で逃げ出すこの惨状を見てしまえば、改めて問いかける必要もない。こんな足の踏み場もない部屋に恋人を招くことなどできはしないのだから、きっと良い人など居るわけがないのだろう。
ラッシュに言われてはじめて、ササライにもジュニアのように決まった相手が居る可能性に気付いたのだけれども。もしそういった相手が居るのなら自分とネウトがここに居ると邪魔になってしまうのではないかとも考えていたが、どうやら要らぬ心配だったようだった。
ハルモニアの冬は、長く厳しい。
窓の外では絶えず吹きすさぶ風の中、大粒の雪が天から舞い降りて蒼き首都クリスタルバレーを白く染め替えている。宮殿に詰める近衛兵や神官達はみな、一様に外套の長い裾を揺らしては、雪に閉ざされた街と同様に固く口を閉ざして行き交うばかりだった。
クリスタルバレーよりやや北上した場所に位置するササライの所有する邸宅にネウトとルディスが身を寄せる事になって、早数日が過ぎようとしていた。
そう、あの時地下牢から救い出した弟はネウトと名付ける事にした。名を持たず外界を知る事もなくただ命だけを長らえていた彼は、少しずつ日々周囲からの愛情という名の栄養を吸収して、見違えるように元気な姿を見せてくれるようになっていた。
そしてその手には予想していた通り、真の紋章と思われる初めて目にする紋章痣が浮かんでいた。その形に最も近いものをひとつ挙げるならば、吟遊詩人の紋章だろうか。詳細を問おうに本人もよく分かってはいないらしく首を横に振るばかりで、無闇に使用しないよう言うにとどめてしばらく様子を見ることにした。
ルディスはといえば、彼の世話係という名目でいつもネウトと一緒に過ごしている。状況が変わった今、これまでのようにラトキエ家に置いていてはユーリ達にも危険が及ぶ可能性があるからだ。それに長い幽閉生活から解放されたばかりの怯えが残るネウトがまともに口をきくのが、ササライかルディスのみであったため、どうしても宮殿に顔を出さざるを得ないササライの分まで傍に居られるようにというのも理由だった。
普段そつなく忠実に責務をこなし続けるササライには珍しいことだが、流石に真の紋章の封印球を再び目にしたあの日は、すぐに権力の座に巣食う年寄りたちの顔を眺める気分にもなれずに、呼び出しの一切に応じることなくやり過ごした。
すると今まで神殿に逆らった事の無い”生まれながらの神官将”のそんな反応が予想外だったのか、翌日には上層部からの非公式の招喚命令が届いた。それに応じる形でようやく重い腰をあげて、翌日には円の宮殿へと舞い戻ることとなった。
招喚に応じて馳せ参じたササライを出迎えたのは、予想通りの高圧的な態度の老いた神官達と、事の顛末を求める詰問の数々だった。
真の紋章の扱いに不慣れな者が起こした、偶発的な出来事だったこと。保管庫へと足を踏み入れたことも中に存在したものを破損したことも、事故であったこと。そして不始末を起こしたその責任は、すべて自分に有ること。
平穏を装った表情で予め用意しておいた言葉を差し出すと、横並びに座った男達は眉を顰めてささめき合った。
ハルモニアの国家機密である、真の紋章の封印球たる神官長ヒクサクの複製の存在は、神殿としても公には出来ないだけに落としどころに苦心しているのだろうか。額を合わせて処遇を決めかねているその様子を見ると、処罰の内容については彼等の中でも意見が割れて未だに結論が出ていないのかもしれない。
こちらの出方を探りながらのその対応に、譲歩を引き出す為の付け入る隙が存在する事を確信した。
「貴卿が地下の宝物庫より持ち出した宝物の返還命令が出ております。即刻戻されますように、との指示でございます」
やや高い場所に据えられた緩やかな半円を描く卓から、神官のひとりが見下ろしながら命令書を読み上げた。
ササライと同じ存在である”弟”をまるで物か何かのよう指すその言い草に、感情をおくびにも出さない冷静な仮面をつけたまま、心の中で密かに毒づいた。配慮に欠ける物言いを受けても、何も感じないとでも思っているのだろうか? それともこんな事態に陥っても尚、ササライを何も知らない人形だと軽んじているのだろうか。
「……”宝物”? そのような物を地下から持ち出した覚えはありません」
「隠し立てする必要はありませぬ。此度の件がどのような事故にせよ、この先も神聖国に変わらぬ忠誠を誓うのならば、既に破損した宝物に関しては不問に付すとの寛大なお達しです」
中心に座る神官の朗々とした言葉が青い部屋を満たした。器は器の保管庫へ。そしてササライは今までと同じく従順な神官将の座へ。元通りの場所へと秩序立てて納めれば、まるで何事も無かったように元通りになるのだと、この宮殿を牛耳る神官たちは本気で信じているのだ。
「………いいえ、隠し立てなどしてはおりません。何故ならば地下に存在したのは宝物などではなく、この私と同じ…………、神官長ヒクサク様の複製だったのですから」
この10年間、ひとり抱えて苦しんだ迷いを、ようやく吐き出す事ができた瞬間だった。
統べるものたる〈円の紋章〉に仕える証の青い裾が、動揺を示すかのように目の前で一斉にたなびいた。ある者は立ち上がり、ある者は信じられないものを見るように息を呑んでササライの顔を凝視している。目に見えて狼狽えはじめた年老いた高位の神官たちを見据えて、畳み掛けるように問い詰める。
「何故、神官将の重責を賜るこの私に、真実を話しては下さらなかったのですか?」
中心に座る老骨を真っ直ぐに見つめ返すと、相手は決まりが悪そうにつと目を逸らして口元を歪めた。そして老いた神官達は、取り繕った勝手な言い訳を口々に述べ始める。
───神官将の任を遂行するのに必要ではなかったからだ
───神殿の最高機密をそうやすやすと話せるはずがない
───尊き身をして生まれたのだから、疑問など持つべきではない
さも大義名分を語るように持論を振りかざす彼等の言は、その実は身勝手で白々しいものばかりだった。 冷たい牢の中で虐げられていた弟たちが、最後まで己の存在に苦しんでいたルックが、そしてそのすべてを知ったササライが、そんな空虚な言葉で納得などするとでも思ったのだろうか。自分たちの都合で複製たちの命を弄んだという事実に、何も変わりはないと言うのに。
怒りを通り越して冷めた視線を返すと、それを軽蔑と受け取ったのか高位の神官たちは今度は一様に恐れを含んだ色を目に浮かべた。
赤子から育て上げて御することなど容易いと思い込んでいた人形に、侮られた憤慨なのか。はたまた、自分たちには望んでも叶わない真の紋章を持つササライに対する、生き物としての本能的な恐怖なのだろうか。
その相対する者を責めるような人の弱さを映す目の色は、かつてササライが畏れていたものそのものだった。
しかし今は、自分を受け入れ共に生きてくれる者たちの瞳の色を知っている 。
出生の秘密を知って尚、出世に繋がる細い蜘蛛の糸だと、妹を救ってくれた上司なのだと、側に居て役に立ちたい大切な恩人なのだと、そう言って寄り添い生きる事を選んでくれた彼等の真っ直ぐな眼差しを、今のササライは知っているのだ。
それを忘れずに生きることが許されるのならば、この先他のどんな心無い視線を受けたとしても、きっともう、この足は揺らぎはしないだろう。
「他の誰にも扱いきれぬ獣を任されれば、ササライ卿にも言い分があるのは当然の事でございましょう……卿、この場を納める妙案をお持ちでしたら申されるとよろしい」
他の神官たちが未だ態勢を立て直せずにいる中、低く響いた声の方へと視線を移すと、見覚えのある男の顔が目に入る。奥宮殿への案内人として幾度と無く顔を合わせたあの老神官が、ひとり落ち着きを失わない水色の眼差しでササライを見つめていた。
それは互いの望む着地点へと誘うために出された、助け舟だったに違いない。ルディスの事を獣と呼ぶ棘のある物言いには違和感を感じたが、今日ここへ出向いた目的を達成する為にはこれ以上無い申し出だった。
「私は神殿のしきたりに従い、宮殿の最奥にて起きた事、見聞きした事の一切を口外はいたしません。”彼”を奥宮殿に戻すことはいつでも可能です。しかし今はどうか、この私にお任せを」
相手の望む神聖国への変わらぬ従属を誓う言葉と同時に、地下より連れ出した子供の身柄を引き受ける旨を伝える。最終的に彼等は、譲歩の内容としては悪くないと判断したのだろう。双方が口をつむぐことを条件にこの件を一時棚上げとして、何とかネウトをササライの元で正式に預かることを認めさせる事が出来た。
良い報告を持ち帰ることが出来ることに胸を撫で下ろしながらも、その一方では儘ならない現実がササライの心に暗い影を落とす。この様子では、あの時地下室で眠らせた世話役の男達は既にこの世には居ない可能性が高い。
一人を救ったその裏では、図らずも別な命が消えていくこともある。その選択の重さに耐えられる者でなければ、軽々しく他者に手を差し伸べるべきではない。知れば直接手を下した訳ではないにしろ、自分が殺したも同然だと考えてあの子は胸を痛めるのだろうか。
神官長ヒクサクの名は、最後まで出ることはなかった。
この荘園の邸宅に来てからササライは、以前にも増して休む間もなく仕事に追われるようになったように見えた。 どれほど遅い帰宅になっても彼は毎日この郊外の邸宅へと帰ってきているようだが、最初の頃は禄に顔も合わせられず、いつ出かけていつ帰ってきたのかも分からないほどだった。
自分が取った行動が相手の負担を増やす要因になっていることは重々承知しているので無理は言えないが、一緒に住んでいるのに顔も合わせる事がないなんて、ラトキエ家では経験したことのない寂しさだった。
あの屋敷ではいつもユーリが待っていて、朝は「頑張って」と送り出してくれるし、夜は「ご苦労様」と労ってくれた。それがどれほど毎日自分を支えてくれていたのか、恥ずかしい話だが彼女の元を離れてから初めて気がついたのも事実だった。ユーリのように出来るかは分からないが、今度はルディスがユーリのように帰ってくる者を支える番なのだろう。
そこで自分なりに考えた結果、昼と夜は時間が合わず一緒に居られる時間が少ない分、せめて朝食をともにするのはどうだろうと執事を通じて提案してみた。少し早めに起きるのはネウトも辛いかもしれないが、その分普段あまり話せないササライと過ごせるのならばきっと彼も頑張れるだろう。そう見込んでの提案だった。
翌日にはすぐに了承の返事が返ってきた。そこには気兼ねなく話せるように屋敷の使用人たちを退室させるので、指定の部屋まで直接来るようにと流れるような文字で書き綴ってあった。
すると今度はその返信を持ってきた執事が、やはりやめるべきではないかと至極真面目な顔で言い出した。その時は意味がよく分からなかったので大丈夫だと返したのだが、その警告の本当の意味を理解したのは当日になってからだった。
寝ぼけ眼のネウトを起こして急いで身支度を整えて、指定された一室の穏やかな朝日が差し込む窓辺へと急いだ。
先にテーブルについていたササライは、眠そうに半ば目を伏せるその顔の上に、盛大すぎる寝ぐせを乗せていた。いつもは癖ひとつない櫛の通った彼の髪が、伸びっぱなしの時のラトキエ家の裏庭の雑草よろしく四方八方に飛び跳ねている。育ちの良さそうな印象を与える左右に流れる分け目は今は存在せず、雑に下ろされた前髪のせいなのかより幼くも見える。
「寝ぐせ、すごいよ」
「そっちこそ、鏡を見たのかい? 今の君の有様も相当だと思うけどね」
挨拶もそこそこに数日ぶりに交わした会話がこれだった。後で部屋に戻って鏡を見てみたら、本当にすごい事になっていた。どのようにすごかったのかというと、後頭部に尻尾が3本ほど出来ていたくらい、ササライに負けず劣らずすごい事になっていた。
おかしい寝ぐせが付いていたら教えてほしいとネウトに頼んでみても「おかしくないよ、すごいね」と喜んでいたので、もう寝ぐせについては諦めることにした。それ以来、本調子ではない朝のお互いの姿については、触れずに過ごすのが毎朝の暗黙の了解となったのだった。
長い間牢に閉じ込められていたネウトには髪を整える習慣が無いのだと気が付いたのはしばらく経ってからの事だったが、ササライの場合は……多分、ただ面倒なだけだろう。
出かける時はちゃんと神官将になっているようなので、身支度を手伝う側役が優秀なことには違いなかった。
ネウトは手のかからない子供だった。小さな子供によく見られる、勝手にどこかへ行ってしまったり悪戯したりという行動が彼にはなく、屋敷の使用人たちが何かを尋ねても、最初の頃はただただ静かに行儀よく縮こまって、怯えるような眼差しで大人を見詰め返すだけだった。
それが普通の子供の反応ではないことぐらい、ルディスにもすぐに分かった。栄養不足のせいなのか背は小さめだけれども、6歳ぐらいのその幼さで人の顔色を見て生きるなんて、いくら幽閉されていたといえども不憫だった。
「もっと我儘を言ってもいいんだよ」
「なにか欲しいものはないのかい?」
ルディスとササライがそう声をかけると、彼はおずおずと遠慮がちに一言、歌や楽器を覚えたいと答えた。
どうやら就寝の前にねだって聞いていた子守唄を彼は完璧に覚えており、世の中にはもっと色んな歌や音楽があるのだと教えたこともしっかりと記憶していたらしい。
弟の希望を知ったササライの行動は早かった。翌日には楽譜や楽器が屋敷に運び込まれ、執事が家庭教師として楽譜の読み方や楽器の使い方を彼に教えた。まるで玩具代わりのように嬉しそうに毎日それらに触れるようになったネウトは、幼い子供特有の透明感のある歌声で屋敷の者たちを楽しませ、そして愛されるようになっていった。
更に元々賢い子だったようで、紋章魔法の扱いにおいてはあっと言う間にルディスを抜き去ってしまった。武術はまったくもって苦手なようだったのだが、そんな所までササライに似ているなんて、本当に兄弟なのだなと感じいってしまいなんだか可笑しかった。
そんな子守りをしながらの生活にも慣れてきた頃、たった一度だけディオスが屋敷に姿を現したことがあった。数回息子の方のジュニアが理由をつけては顔を見に来る事はあったが、ササライの部下を取り仕切る副官という立場であるディオスを円の宮殿の外で見るのは、これが初めてだった。
ササライの不在時だったので行き違いなのではないか訊くと、違うと言う。ルディスを訪ねてきたのだと、その立派な鼻をこころなしか膨らませながら彼は答えた。
「細い蜘蛛の糸を自ら手離すと、そう言ったそうですね」
「蜘蛛の糸……ですか?」
思慮深さと柔軟さを持ち合わせた青い目が、きらりと光ったように見えた。
「既に亡き弟君の話も聞いたようですしね。差し出がましいとは思いますが、もうあのお方を追い詰めるような我儘を言うのは、もうお止めなさい。恩義に報いるためにここに居るというのなら尚更です」
「ディオスさんは全部知っていたんですか!?」
予想していなかった言葉に驚きの声をあげると、ディオスは眉一つ動かさずに淡々と続ける。
「私は10年以上ササライ様の下で働かせてもらってますからね。上司の秘密も共に抱えなければ、真にお仕えすることは叶いません。この件を知っているのは貴女と私、そして一人の特殊工作員のみですよ」
神官将の副官として影に日向にササライを支えるディオスは普段は飄々とした人物だが、ルディスなどよりもずっと長い間、ササライを側で支えてきたのだという。秘密を知っていたとしても、おかしくはないのだろう。
「神殿の禁忌とあの方の出生の秘密を知ってもなお、私はササライ様について行く事を選びました。もし貴女が我々の同志でありたいと願うのならば、……腹をくくりなさい。感情の赴くままにあの方を傷つけ困らせるような事は、もう終わりにするべきです」
厳しいその言葉に返す言葉が見つからず、広い応接室にしばしの静寂が下りた。
今まで彼等にとって、ルディスは神殿の指示に従い置いていたに過ぎない者であり、いつ居なくなってもおかしくない、言わばお客様のような存在だったに違いない。
しかし状況は変わってしまった。今やルディスは、彼等の命運を握るササライの機密情報を知る数少ない人物になってしまった。外に出してはならぬものならば、取り込むしかないとディオスは判断したのだろう。
ササライに仕えることを選ぶ時期が来たのだと、しかしそれには覚悟が足りないのではないかと、そう言われているのだ。
「意外に思われるかもしれませんが、10年前までのササライ様は盲目なまでの神殿派だったのですよ。しかし英雄戦争のさなか、あの方は神殿が御自身をずっと欺いていた事を知ってしまった……。そんな彼の傍を離れず支え続けたのは、かつてササライ様が手を差し伸べた民衆派の者たちでした。どんなに強い力と権力を持ってたとしても、あの方も人としての当たり前の弱さも、優しさも持ち合わせているひとりの人間なんでしょう。情がうつったのならば、その者を助けようと力も尽くしてくださる。ですが、我々はそれに甘んじてはならないのですよ」
まるで古傷をなぞるように目を細めて語ったディオスは、顔を上げていつもの冷静さを取り戻した視線をこちらに向ける。
「私は真の紋章についてはまったくの専門外ですがね、その脅威を10年前に身を持って経験したひとりではあります。貴女の行動ひとつが、我々だけではなくこのハルモニアという国にとっても毒にも薬にも成り得ることを理解してほしいんですよ。安定こそが美徳とされ変化を嫌うこの国において、性急すぎる変革は大きな反発を生む原因ともなり得ます。どうかそれを忘れないで下さい」
「……はい」
仲間として迎え入れるつもりがあるからこそ、行動が目に余るのだと忌憚ない意見を言ってくれるのだろう。忠告を噛み締めるよう返事を返すと、ノックもなく扉が開く音に気付き慌てて口をつぐんだ。
本を読んでもらおうと様子を伺っていたのだろう。開いた扉から半分顔を出したネウトが絵本を両手で抱きながら、初めて会うディオスをその色素の薄い瞳で不思議そうに見つめながら佇んでいた。入ってきてもいいのだと手招くと、早足に近寄ってルディスの背に隠れるような格好でまた顔を半分隠してしまう。知らない人間に対する恐怖が拭い去れないのかもしれない。
「申し遅れました。わたくしササライ様の副官を努めておりますディオスと申します」
そう言って片膝を折って丁寧な挨拶を交わすと、ディオスは大きなその手でネウトの頭を優しく撫でた。目元を緩ませ瞳の奥に暖かい色をのぞかせるその姿は、執務室で部下たちをまとめるいつもの参謀長ではなく、ひとりの父親の顔だった。
「懐かしい。うちの息子も昔はこんなでした」
「ジュニアがですか?」
マメで堅実で、むしろ他人の世話ばかりを焼いている印象のジュニアが幼子だった頃というのは、ちょっと想像がつかない。
「ええ、子供の教育はほとんど妻に任せっきりだったのですが。まあ、それなりに使えるように成長したのではないかと。これでいつ私が引退しても、アレが代わりにササライ様をお支えする事ができるというものです」
「面と向かっては言えないのかもしれませんが、ジュニアはディオスさんには敵わないといつも言っています。引退なんてまだまだ先の話ではないでしょうか」
突如飛び出した気弱とも取れる言葉をそう否定すると、ディオスは目を細めて頬笑んだ。
「ああ、今直ぐにどうこうという意味ではありませんよ。私の前にも副官を務めた者が居たように、次に副官を任せられる者はいずれ必要になります。それがあの愚息であるならばそれ以上望むべくもないという、ただそれだけの事ですよ」
主の弱さも秘密も共有できる者でなければ、真に仕えることで出来ないのだと語ったディオス。それがジュニアならば良いと言えるのは、いずれ自分のように良い副官になれるだろうという、息子に対する信頼の証なのだろう。
ディオスが言うように、部下としてササライに仕えるのも良いのかもしれない。むしろ恩を返すために居るのなら、それが自然なのだろう。でもそうなれば、ラッシュの言うところの「友達ごっこ」は終わりにしなければならない。
損得の関係ないただの味方で居ることは、もう出来ない。
ようやくディオスの手から解放されたネウトの少し乱れた髪を手ぐしで直すと、照れくさそうに戸惑った小さな顔が見上げてくる。守るものが出来た今、選ぶべき道はもう自分だけのものではないのだろう。
守られ過ごした籠の外の広さを知る時期が近づいている。
ディオスの来訪は、そう予感させるのに十分な出来事だった。
その夜は連日の雪が嘘のような、美しい夜空だった。
かつてはラトキエ家の所有する別荘だったこの屋敷で使用人でもない人間と一緒に暮らすという、ササライにとって経験のない不思議な毎日が始まってから、およそひと月以上の時が過ぎようとしていた。
それまでまったく別々の場所で暮らしていた3人が寄り添い、ひとつの所に住むようになってから送られた毎日は、最初こそどこかぎこちなかったが、次第にお互いにとって掛け替えの無い日常と呼べるものへと変わっていた。
「二人は?」
いつもより早めの時間に屋敷に戻り執事にそう尋ねると、温室に居ると答えが返ってくる。戻ったら何よりもまず先に二人の顔を見たいと、そう自然に思うようになったのはいつの頃からだっただろうか。面倒な軍服の着替えが億劫に感じられて、戻ったその足で屋敷の一角にある温室へと早足で向かった。
「あのほしは、なんていうなまえなの?」
「うーん……、本にはのってないね」
「なんで、あかく光ってるのかな」
「何でだろう。ササライ兄さんが帰ってきたら、一緒に聞いてみようか」
扉が開け放たれていた温室の入り口に到着するなり、本をめくる音とともにそんな会話が耳へと入ってくる。部屋の奥に目を向けると植物に囲まれた大小の影が、窓の前に備えられたソファに並んでその先にある硝子越しの雲ひとつない澄んだ星空を見上げていた。
「お帰りなさい」
「あ! おかえりなさい」
入室したササライに気付いたルディスが声をあげると、その真似をするようにネウトも出迎えの挨拶をしてくれる。
「良い子にしてたかい?」
「うん、にいさん」
くすぐったそうに見上げる小さな頭を優しく撫でながら、彼の右隣へと腰を下ろした。最初こそ見るものすべてに怯え部屋の隅でじっと身をひそめていた弟だったが、新たな環境に慣れると徐々に様々なものに興味を示すようになっていった。
食事の際は見たこともないであろう料理をおそるおそる口に運んでは、初めて知る味に驚きながらも気に入った様子で夢中で食べ、言葉や文字を教えれば、その意味を知りたがりルディスをつかまえては微笑ましい質問攻めをしていた。
表情を失い陰っていた目の光が日を追うごとに生き生きとしたものに変わっていくのは、ササライにとっても大きな喜びだった。手足の霜焼けも治り、うっすらと赤みがさす頬は今では愛らしい丸みを帯びている。栄養のある食事を摂るようになったことで少しずつ血色が良くなったふくふくとした手を握った時は、本当に安堵したものだった。出会った時の痛ましい姿はもうすっかり過去のものとなっていた。
この小さな手の暖かさを忘れない限り、彼に手を差し伸べた事を後悔する日は決して来ることはないだろう。
自分の帰りを待っている存在が居るのは悪くはないし、ディオスやレナがよく言っていた『守るべき家のために国に仕える』という意味も、今ならばほんの少しだけ理解出来るような気がする。もっとも彼らは、家族の居ないササライを気遣ってなのか、家庭での出来事を口にすることはあまりなかったのだけれども。
物心ついてからこのかた肉親と呼べる存在と過ごしたことはなかったけれども、もしかしたら家族というのはこういうものの事を言うのだろうか。かつて自分を兄と呼んだあの弟も、家族と呼べる存在を外で得られたのだろうか……。星空を見上げるふたつの白い横顔を眺めながら、ぼんやりとそんな事を考えた。
「きょうは、お外でゆきがっせんをしたんだよ」
一緒に居られない時間の分まで甘えるように、これくらいの大きさなんだと雪玉の大きさを手で表しながら話すネウトは、楽しそうに一日の出来事を報告してくれる。
「聞いたよ。二人がかりでラッシュをボコボコにしたんだって?」
「それも本当だけど、気付いたら勝手に雪に埋もれてたと言う方が正しいと思う」
二人がかりでも敵わなかったので、樹の下に追い込み枝を攻撃して雪まみれにしてやった。けれどそのあと勝手に足を滑らせて、転がり落ちて雪だるまみたいな有様になっていたのは自分たちのせいではない。そうルディスは語った。
「それよりも、この子の肌が火傷のように爛れてしまって大変だったんだ。前に魔法の練習をした時と同じだったから、今日は私の風の魔法で癒したんだよ」
ルディスはされるがままのネウトの両腕を持ち上げ、その白い手をこちらに差し出す。すぐに風の魔法で治したという言葉通り、彼の細く白い腕には痛々しい火傷のあとはもう見当たらない。
「前にもあった、雪焼けにしては酷い火傷の事かい? 陽の光が強く感じてしまう体質なのかもしれないな。光量の少ない冬でもこの有様では……可哀想だが、昼間は外出を控えるしかないだろうね」
白く小さな手のひらを取ってそう告げると、人形のように力を抜いていた腕は少しだけむず痒そうに身じろいだ。
ごく稀に、自然界でも太陽の光から身を守る色素を持たない生き物が生まれるという。その稀で美しく儚い姿から教会でも神聖視されることもあるその種の個体は、日の光にとても弱く、少し外を歩くだけで肌が焼け爛れるためひどく制限された暮らしを余儀なくされるとも。
「日の光を避けなければいけないのは分かったけど、外に出られないなんて不便だ。それしか方法はないのかな……」
「防御魔法を応用して短時間負担を軽減するくらいならば、可能だろうね。でも完全に太陽の光を遮断する方法というのは僕も聞いた事がないよ。そもそも、そういった紋章魔法の使い方を必要として研究している者の数が少ないんだろうけど。他に思いつく方法となると、属性魔法を軽減する装飾品などが挙げられるけど……」
そう続けてふと、もうひとつの問題点に気付き顔を上げる。
「風魔法で傷を癒したと言ったね。君、いつの間に癒しの風が使えるようになったんだい?」
「今日。試してみたら出来た」
そう答える本人の態度はやけにあっさりとしたものだが、今までは不可能だった上位の魔法が行使出来るようになるという事は、ただ単に風の紋章魔法が上達したと言う以上の意味を持つ。それは一定量の魔力が備わり、理論上は他の紋章魔法のレベル2も使える状態になったということ。即ち、その左手に宿る謎の紋章も、新しい魔法の発露に必要な条件を満たしたという事だ。
「それと面白い手品も出来るようになった。見てて」
庭師から分けて貰ったという種子の袋を取り出すと、ルディスはその中の一粒を掌に盛られた一握りの土にのせた。見守っていると、すぐに変化は起きた。
種子を守る殻にひびが入ったかと思うと、若草の色味を帯びた新芽がひょっこりと顔を出す。最初は背を丸めて首をもたげていたそれが垂直に立ち上がり、両手を広げるように双葉が広がった。それと同時に次第に根がほうぼうに伸び、その間にも茎とは葉はみるみるうちに天を目指して伸びていく。
「これは……」
目を奪われて言葉を失っていると、ついには鮮やかに開花した赤い花を持ったままのルディスの黒い瞳が、呆然とするササライの瞳を覗き込んだ。
「一回使うとしばらくは使えないんだけど、何の魔法だろう」
「盾魔法に似たような効果をもたらすものがあるから、水や風とも違う系統のようだがおそらく回復魔法の一種じゃないかな。植物が急激に成長したのは副作用のようなものだろうけどね」
そう伝えると好奇心を湛えたままの眼が細まり、薄紅色の唇は嬉しそうに笑みを形取る。
「回復魔法なら、きっとこれから役に立てるね。君の火傷も治せるだろうし」
ルディスがネウトにそう話しかけるが、返事は帰って来ない。不思議に思い同時に視線を下に移すと、ネウトはルディスの膝の上でいつの間にか丸くなって寝息を立てていた。
さっきから大人しいとは思っていたが、難しい話に飽きてしまったのだろうか。遊び疲れて幸せそうに眠るその背中に、起こさぬようにそっと膝掛けをかけてやる。
「そうだ、春になったら3人でピクニックに行こう。お弁当、つくるよ」
まだ見ぬ春も共に過ごせるのだと、そう信じて疑わない笑顔を目の前にすると胸が痛んだ。これからこの笑顔をかき消す提案をしなければならないからだ。
「……ここからずっと西のゼクセンとグラスランドの境目に、ビュッデヒュッケ城という小さな城がある。君達には春になったらそこへ行ってほしいんだ」
「ゼクセン? グラスランド……?」
その言葉の意味を理解しようとするように、ルディスは本でのみ知るであろう異国の名を口の中で繰り返し呟いた。
「神殿は君とネウトを道具として見ている。このままハルモニアに身を置き続ければ、いずれ君たちは望まぬ形でこの国の政治や戦に利用されるようになるだろう。そうなる前に、いざという時には身を隠せる場所に居るべきだ」
それは悩み抜いて選んだ、ひとつの答えだった。
「ササライも一緒に来るの?」
「いいや、僕はここに残るよ」
小さく首を振って否定を伝える。行けるはずがない。ササライまで逃げ出してしまえば、事が大きくなりすぎる。どんなに離れがたくとも、それだけは選んではならない。
「僕は今まで、本当の意味で自分の意思で選んだものなど、何一つ無かったのかもしれない。それでも、もうこの手の中に有る多くの守るべきものたちを放り出すわけにはいかない」
民を、部下たちを見捨てては行けない。もしもササライが突如消えてしまえば、彼等がこのハルモニアで今まで通りの生活をすることは不可能だろう。
「真実を知り操られて生きてきたことを知った時………崩れかけた僕を支えてくれたのは、それでも変わらずついてきてくれた部下達だった。生きる理由をくれたのは、この国に生きる力なき民たちだった。今の僕を動かしているのは神殿の意向なんかじゃない。僕は弟を、そして僕を必要としてくれている彼等と君を守りたい。これが僕の偽りない、本心だよ……」
目を逸らさずに全てを伝えると、鏡のように輝く星を写した漆黒の瞳がササライを見詰め返してくる。暫く視線を合わせた末、彼女はただ静かに頷いた。
「どちらか一方の頼みをきいたら、もう一方も相手の頼みもきく。そういう約束だったよね。私が神殿で勝手な行動をとった時、貴方はそれを許してくれたから。だから今度は私が貴方の指示に従います。グラスランドに行くよ」
「………すまない、ルディス」
自分にもっと神殿の干渉を抑える力があれば、こんな提案を飲み込ませなくとも済んだのかもしれない。そう考えると申し訳なさが募った。顔を伏せて謝罪を零すと、視線の端で緩やかに首を横に振る横顔が見えた。
「グラスランドは安全な場所なんだね」
「あの地にはかつて僕が共に戦った信頼できる者たちが居る。それに、真の紋章とも縁が深い土地だ。きっと君達が迷う時には力になってくれるだろう」
瞼裏に同じ五行の真の紋章を背負う者たちの顔が浮かんだ。隻眼の傭兵に、銀の乙女。そして、燃える瞳の草原を束ねる年若き炎の英雄。
最初は一時的に手を組むだけの間柄だったが、今となってはあの戦いの痛みを分かち合うかけがえのない繋がりとなっていた。英雄戦争の後に何度も交渉の席で顔を合わせた今も、それは変わってはいない。彼等がササライ同じ呪いと時間を持つ”同類”でもあったのも理由かもしれない。
「ネウトも寂しがると思う。たまに会える?」
「グラスランド方面の調停交渉は10年間僕の管轄なんだ。年にほんの数回程度ではあるけれど、外交で訪れる機会がある。……会いにいくよ」
まるで他愛のない世話話のように淡々と言葉を交わしあう。それはこれが今生の別れなどではないと、お互いに理解しているからなのだろう。
残された穏やかな時間を噛みしめるように安心した顔で眠る弟の髪を撫でると、強く打ち鳴らされたノックが部屋に鳴り響いた。驚いて半分起きてしまった彼をルディスに任せてドアへと振り返る。何事かと訝しりながらも入室を許すと、執事が早足でササライの元へと近付いた。
「ご、ご歓談のところ失礼いたします。ササライ様、これを……」
額に汗を浮かべながら彼が差し出したそれは一通の手紙だった。封蝋に刻印されたハルモニアの国章を目にした途端、言い様のない胸騒ぎが沸き起こる。夜半を過ぎて届けられた、正式な書簡。手に取ったあと少しだけ躊躇い、しかしすぐにトレイに添えられていたペーパーナイフで封を切る。中から出てきたのは、たった一枚の書状だった。
「……何の手紙?」
ササライの顔色を見て状況が変化したことを察したのか、ネウトの背を撫でながらルディスが問いかける。返答の代わりに読み終わった手の中の紙片を差し出し出すと、見ても良いのかと戸惑ったあと文面に視線を走らせたその横顔が、見る間に不可解なものを見る表情へと変わっていく。見間違えではないかと二度三度確かめた後、何度読んでも内容は変わらない事を理解したように、ルディスは己の名が記されたその下の文章を微かに震える声で読み上げた。
「神官長ヒクサク様の命により……汝に、ハルモニア神聖国一等市民の身分を付与する……それに伴い……」
ササライが立ち上がると同時に、声は途切れた。目を覚ましてしまったネウトが、目をこすりながら不思議そうに顔を上げる。
「ふたりとも円の宮殿へ行く準備をするんだ、今すぐに」
『それに伴い最高司祭の位を授ける』
2014年05月25日初稿作成
2020年07月01日サイト移転