Ⅶ 最善の選択

公開:2020年6月1日最終更新:2020年7月1日
1、最善の選択

 

 

「神官長ヒクサク様より、貴殿にハルモニア神聖国一等市民の身分を付与せよとのお言葉が御座いました」

深夜と言って差し支えない時間にようやく円の宮殿へと到着すると、まるで待ち構えていたように使いの神官がササライの執務室を訪れていた。以前謁見の際に迎えに来た老神官その人ではないが、感情が失せたような冷たい表情から受ける印象は同一のものだ。

「このハルモニア神聖国に忠誠を誓った暁には、最高司祭の位も授けるとの仰せです」

一等市民は知っている。下層階級の者達が嫉妬と羨望の入り混じった目で見上げる、ハルモニアの特権階級の事だ。

書面で目にした時から疑問だったが、あとは何を意味する言葉なのだろうか。 助けを求めるように周囲の面々を見渡すと、ジュニアとラッシュも同様に初めて聞く言葉だとでも言うように肩をすくめていた。

ディオスは強張った面持ちで目を見開き、頼りのササライは心なしか血の気の失せた顔色で執務椅子に腰掛けたまま、向かい合う神官を正面から見詰め返している。

座っているのは部屋の主である彼ひとりであり、ルディスを含む部下達は横に控えて息を呑んで動向を見守っている。この執務室に来るのは久しぶりなのだけれど、状況が状況だけに懐かしむ余裕もない。

ルディスの後ろに居るネウトに至っては、張り詰めた空気と突然現れた神官の姿に、驚き縮こまって隠れてしまった。スカートをぎゅっと掴んだその手から怯えと緊張が伝わってくる。そもそもいつもなら彼は寝ている時間なのだ。ひとり残すわけにもいかず連れてきたが、急な変化に負荷を処理しきれないのかもしれない。

「このような時刻に知らせもなく訪れ、ササライ様のお手を煩わせるとは。無礼な!」
「いい、ディオス。私が応対しよう」

ササライは憤りのままに声を荒げるディオスを抑えると、革張りの肘掛け椅子の上から冷静さを失わない声色で神官に告げる。

「神殿より保護対象者を預る者として、当人に代わり返答します。本日はどうかお引き取りを」
「申し訳ございません。お言葉を授かった者のみの返答を預るようにと、そう申し付けられております。ササライ様といえども例外ではなく

おそれる素振りも見せずに神官は彼の言葉を退ける。

ササライは二の句が継げない様子でほんの一瞬唖然とした表情を晒したが、直ぐに常には見られない歯がゆさを含んだ強い眼差しで神官を睨めつけた。

目の前で繰り広げられたやり取りに思わず面食らう。神官将であるササライが軽んじられるなど、ルディスの知る限りは今までに無かったことだ。

「いつまで待って頂けますか?」

注意を引くために声を発すると、能面のような顔が静かにこちらへと向けられる。他の人に任せることが出来ないなら、拙くとも自分で応対しなければならない。間違っているかもしれないが、先程のササライの発言の意図はもしかしたら時間を稼ぎたいと言う意味ではないだろうか。

「期日は一両日となっております」
「ではそれまで時間を下さい」
「なれば、明日の同時刻に再度参りましょう。それまでにはご返答を」
「分かりました」

恭しく一礼をすると使いの神官は来た時と同じように足音も無く出口へと進み、法衣の裾の擦れる音だけを残して扉の向こうへと姿を消した。

上出来だよ。これで少しだが猶予が出来た」

前向きな言葉とは裏腹に、浮かない表情のままササライが呟く。

「あの者、ササライ様になんて大それた口を
「それだけあっちが強気に出れる理由があるってことか?」
「ですが、これで正式な神官長の言葉である裏付けが取れたのも事実です。それ以外で何者もササライ様にあのような態度が取れるはずもありませんから」

思い思いに不満を口にする部下達を一瞥すると、ディオスはそう結論付けた。感情的に声を上げた先程とは別人のように、彼に動じる様子は見当たらない。ササライに対する不遜な態度を諌めるための、ポーズのようなものだったのだろうか。

「残された時間は限られている。すぐに動いてくれ」
「ハッ」

短く下された指示の後ディオスが部屋を出て行くと、残された面々も金縛りが解けたように動き出した。

「おいで」

弟を呼ぶササライの元にネウトを連れて行くと、彼はその小さな体躯を自分の膝の上に乗せて微笑んだ。やさしい兄の腕の中で安心感を得た小さな手が、ルディスの手の平から離れていく。

「疲れてしまったのかい? じゃあネウトはしばらく僕と一緒に居ようか。君たち三人はこれから大聖堂へ向かってくれ。特に君は、あの場所をよく見ておくべきだろう」

 

 

 

 

広々とした大聖堂に、蒼の衣を纏った大司祭の声が響き渡る。

広い聖堂を隅々まで照らす照明は、複数の火の紋章魔法によって作り出されたものだった。国の威光と豊かさを写すその光は、貴族たちの豪奢な金の髪をキラキラと反射させては広がっていく。ハルモニアの民の中でも一握りの存在である彼等一等市民は、一様に頭をもたげて神聖国の主神である〈円の紋章〉を模したレリーフへと朝の祈りを捧げていた。

「ほらほら、少し髪が見えていますよ。しっかり隠してくださいね」

いつもなら3人で朝食をとっている時間帯だろうか。そう考えながら小声で指摘してくれたジュニアに手の動きのみで謝罪を伝えると、少しばかりずれてしまったフードの縁を指先でぐいと掴んで目深に被り直した。

円の宮殿のちょうど正面部分に設けられている、巨大な大聖堂。ルディスが教えられた限りでは、ここはハルモニア国内の教会の中でも最も格式の高く、そして規模の大きい聖堂だという。

室内の様子を見渡せば、自然とその意味も理解出来た。

国力と天井知らずの自負心を誇示するかのように一面に装飾されたステンドグラスは、金属を織りまぜて作られたという蒼色で輝いている。聖堂はその硝子を通して採り入まれた光りと紋章の照明とが混ざり合い、謳うような説法と相まって壮厳な空気が満ちている。

惜しげもなく使用された魔法で暖められた室内は、足首が埋まるほど雪が積もった外の寒さを忘れさせるほどに暖かい。

朝の礼拝の時間なので、そこには貴族や神官たちが我先にと長椅子の席を埋めるように首を並べており、まるで混じり気のない金色の糸だけで紡がれた巨大な絨毯のようだった。

すっぽりと頭部を覆ったフードのお陰だろうか。金の髪を揺らす貴族たちと距離を取るように端の席に腰を下ろしているラッシュとルディスを、周囲の者達は誰も気に止めはしない。念のため一緒に居るジュニアと事情を知る司祭たち数人の他は、特権階級の者しか立ち入りを許されない大聖堂に金色以外の色を持つ者が居るなど、誰も思いもしないのだろう。

「しかし、夜半過ぎにササライ様が宮殿に戻って来られた時は驚きましたよ」
「俺も帰ろうとしたら呼び止められたんで、何かしでかしちまったのかと焦ったぜ」

無言で座っていると居眠りを疑われたのか、心配そうに覗き込まれた顔と目が合った。考え事をしていたためなのか、睡魔が絶えず誘惑してくるからなのか。いつもは合わせられる彼等の軽口を聞き流してしまったようだった。

ごめん。ふたりにも迷惑をかけて」

なんとかそれだけ発すると、殊勝な言葉などに合わないとでも言いたげに首をすくめられる。

「これも仕事ですからね。あとで少し仮眠を取った方がいいですよ」

何しろ、昨晩神殿からの通達を受け取ったあとは一睡もしていない。それは呼び出しを受けたジュニアとラッシュも同じだが、流石に彼等は堪えている様子を表に出してはいなかった。

「司祭と神官は、違うんだよね」
「司祭とは教会で働き、信徒の信仰生活に奉仕する者たちのことです。政治を一手に担う神官たちに代わり〈円の紋章〉の威光を知らしめるべく、模範となって国と民への奉仕をするんです。説法や礼拝をもって臣民を導くので、より聖職者としての側面が強いとも言えますね」
「昔から坊主の小言ってのは、苦手なんだよなあ
「あの大司教や他の司祭も、一等市民から選ばれているの?」

げんなりと茶々を入れる青年をよそに、ジュニアは説教台で朗々と教典を読み上げる大司教に視線を向けたままその疑問に答えた。

「まあ、大概はそうですね。ですが例外もありますよ」

中央の政治に関われない分それほど大きな権力は持てないが、反面、敬虔さや奉仕の精神を要求されるので、政治的な駆け引きが必要とされる神官には向かない者もある程度までの出世は見込めるというわけだ。

神官とは違い有力者の推薦があれば比較的容易に就く事ができるため、高位の役職は無理でも助祭や牧師・修道士などはより良い地位を求める二等市民もおさまる事が可能だという。

平民出身者も就くことが出来る聖職という意味では、一般市民にとっては円の宮殿から出てこない神官よりも、よっぽど身近な存在と言えるのかもしれない。

「中央の目の届きにくい地方の街々や村などに教会を建て司祭を置き、その地方を管理させている。まあ、言わば現場仕事ですね」
「具体的には?」

ジュニアは今まで関心を示したことの無かった分野の事を訊ねるルディスの顔を少しばかり驚いたようにじっと見詰め、そしてまた周囲から自然に見えるように正面へと向き直った。

「個々の教会の運営は、その教会を預る司祭の手腕に委ねられています。二等市民の子供たちに読み書きを教える場合もありますし、医者にかかるのが難しい者たちを受け入れている所もあるようです。孤児院や救貧院の運営も同様でしょう」
「最近じゃ、崩壊したまま放置されている教会も珍しくないけどな」
「教会は主に、その地域の貴族の寄付によって潤いますからね。貧しい者ばかりが住むスラムなどに建つ教会は、維持をするのも難しいのが現実なのでしょう」

スラム、三等市民。

ルディスと同じ外見を持つ者たちも含まれる、権力構造の最下層に押し込められた、声なき悲鳴を上げる人々。

食うにも困るほど貧しい三等市民たちが望むのは、きっと自分たちを虐げる不公平な〈円の紋章〉への祈りではなく、日々の糧となる目の前の一切れのパンに違いない。

我らに、統べる者たる〈円の紋章〉の加護があらんことを

ひときわ高く礼拝を締め括る祈りの声が上がる。

意識を壇上へと戻すと、分厚い教典を閉じたばかりの大司教が説教台を下りるために重そうな法衣を引きずりながら動き出したところだった。

「やっと終わったな!」

げっそりと説法が始まる前よりも一回り小さくなったようにも見える青年が、静かなる喚起の声を上げる。

「さ、もうここには用は有りません。戻りましょう」

正反対にけろりとした顔で立ち上がるジュニアは本物の貴族だけあって、こういう場は慣れたものなのだろう。

司祭とはどういうものかと訊いたルディスに、ササライはその目で実際に見るのが早いだろうと語った。今直面している問題を解決できる糸口になるのかはまだ分からないが、判断材料は多いほうが良いということだろうか。

出口に向い通り過ぎる通路の横では、立派な身のこなしの貴族達が顔を付き合わせて穏やかに談笑している。目にする彼等はみな微笑を絶やすことなく友好的に見えるが、その心の内はまた違う思惑に満ちているのだろうか。

自分がより優位に立つための駆け引きを続ける彼等を横目に、眩しい朝日を取り込み輝きを増す大聖堂を後にした。

 

 

 

 

太陽暦-2年に国を興し、勝利で幕を閉じたハルモニア建国戦争。

そこには建国の父英雄ヒクサクとともに戦った、複数の真の紋章の継承者達がいたと記録されている。彼等の多くは戦が終わると役目を終えたとばかりにこの地を離れたが、中にはヒクサクを助ける為にハルモニアに留まることを選んだ者も存在したという。

その中のひとりである真の紋章の力を使い民を癒し、次第に奇跡の力で民を救う聖人として祀り上げられたひとりの女性に、その力を重用したヒクサクが与えた官位。それが始まりであったと歴史書には記されている。

だが司祭の長と呼ばれたその人物は、100年を待たず、真の紋章とともにハルモニアの表舞台から突然姿を消してしまう。

該当者が消えた以後は350年以上もの間事実上の空位であったため、今では半ばただの建国戦争を題材にした教訓を促すつくり話だとまで考えられていた。椅子は有れど、現在は名前だけが存在する階位として。

古ぼけた史書。子供の教育用と思われる絵が入った本。現職の司祭が持つ教典。

大聖堂からササライの執務室へ戻ったルディスたちを待っていたのは、テーブルの上に用意されたそれらの複数の文献だった。今回の件に関連すると思われるそれらを、少しの休憩を挟んだのち概要を聞きながら目を通す。

「そんな立派な由来のある位なら、やりたがる人もたくさん居そうだけど
「条件を満たす者が存在しなかったというのが有力な説だ」

名前だけは大層なので過去に候補者が上がることも何度かあったが、結局誰も就任することは叶わなかった。そしていつしか、こう噂されるようになる。”真の紋章を持つ者しか就く事ができない、名誉ある官位”なのだと。何故ならば就くには神官長ヒクサクの任命がなければならないのだがそれを得た者は居らず、過去の候補者たちはいずれも真の紋章を持っていなかったからだ。

「自分の身も守れるようになってもっと役に立てるようになったら、いずれ貴方の下で働くことになると思っていたんだ」
「もっと優秀な者ならば他にもたくさん居る。君には何も期待してはいないよ」

ササライは表情も無く視線を外してそう返した。

はっきりと言われてしまえば少なからず傷付いた。役に立ちたくてこれまで訓練に励んできたのに、期待していないと言われてしまえばこれからどうすれば良いのか。だが彼にその気がないのも、薄々気付いてはいた。この国でやっていけると認めてくれているなら、グラスランドに逃げろなんて言われないに違いないからだ。

問題ばかりを起こすので、とうとう愛想を尽かされてしまったのだろうか。そう思うと無性に悲しくなってくる。

ルディス、君はどうしたい?」

真向かいのソファに座るササライに名を呼ばれて顔を上げると、透き通る翠玉の瞳と目が合った。

ジュニアもラッシュも、そしてディオスも。彼等は迷う時に道を示してはくれるが、決してそれを押し付けたりなどはしない。あくまでも選ぶのは自分自身なのだと、そう言うかのように。ササライもまた、こんな事になってしまってもまだルディスの意思を尊重し、選ばせてくれるというのか。

「自由を願うのならば、君だけでも真の紋章の器という生き方から解放されてこの国を出る道を選ぶことが出来るかもしれないよ」
「ふたりも同じ方法で自由になれるの?」

そんな方法があるのなら、同じように彼等兄弟も解放されるのではないだろうか。期待を込めて投げかけたその問いを、ササライは首を左右に振り否定した。

「どうやら僕達は、紋章なくては長く生きる事は叶わないようだ。この世界に生まれ落ちたその時から、真の紋章と切り離して生きて行く事はできないように出来ているらしい。しかし、宿して日が浅い君ひとりならば

ササライの後ろで会話を聞いていたジュニアとラッシュは、自分たちが知り得ない情報の断片を耳にして明らかに当惑している。一足先に秘密を知った少しの優越感と、話すことの出来ない申し訳なさ。その場違いにふたつ並んだとぼけた困り顔に親しみと安心感を分けてもらい、張り詰めていた心が少し軽くなった。

同席を許したということは、彼等にササライの秘密が告げられる日も近いのかもしれない。しかしその頃にはおそらく、自分はもうこの場所には居ない。それが少しだけ残念だった。

「ひとりだけ助かることに意味はないよ。一緒に戦う」
「ルディス

しめっぽくなってしまった空気を変えたくて、口角を上げて周りの顔を見ながら笑いかける。

もうこの国の中には、自分にとってに安全な場所など存在しないのかもしれない。下手な返答をすればササライ達に迷惑がかかるだろうし、他国に逃げれば反逆者として地の果てまで追われる事になるだろう。

「一等市民の身分が欲しいわけじゃない。けど、受け入れる他にないと思う」

今回は、これまでのただの神殿の指示とは訳が違うのだろう。何と言っても、このハルモニア神聖国の最高権力者である神官長ヒクサク直々の命令だという。

以前ヒクサクに呼び出されて謁見した時に、ディオスが言っていたではないか。その命令は大変な名誉であると同時に重大な責務である、我々に拒否権はないのだと。

この国において、神官長ヒクサクの命令は絶対。逆らうことなど許されない。

事実上選べる道など、もとよりたった二つしか無いのだ。

恭順という名の服従か、汚名を着せられ生涯追われる身となるか。もちろん逃亡の末に捕まれば、どうなるかは言うまでもない。

「それに偉くなれたら、皆が困った時に今度は私が助けられるようになれるかもしれない」
地位を得るというのは、そんなに単純な事ばかりじゃないよ」

前向きな意見を出すと、分かってないとばかりに苦い顔を返されてしまう。

「温室の管理をしていた庭師の老人を知っているね?」
「もちろん。温室に行くたびにいつも土いじりも教えてくれるし、色んな種も分けてくれたんだよ。すごくいい人だ」

ラッシュに格式張った挨拶をして、いつも彼を困らせていた年配の庭師だ。彼はササライの屋敷で親しくなった使用人のひとりだった。そう答えると、間髪を置かずにササライは残酷な真実をルディスに教えてくれた。

「君を神殿に売ったのは、あの老人だよ。彼が神殿派と手引きをして情報を流していたんだ」

一瞬何を言われたのか理解できず、息をつまらせて固まってしまった。

「残念だが本当だ。気付けなかったのは俺の責任だ」

半信半疑でラッシュを見ると唇を噛み締めたやりきれなさを堪えた表情で、無常にも肯定されてしまう。

「ネウトを助け出した時に眠らせた、二人の神官のことも覚えているかい」
覚えてる」

身近な者に裏切られたという動揺を抱えたまま、部屋続きの資料室の扉に目を向けた。あの子は今、扉の向こうで疲れ果てて眠っているはずだ。

「おそらくあの神官達はもう処刑されているだろう。あの時に起こった不始末の代償を、彼等はその命で払ったんだ」
「どうして!? 罰だとしても重すぎる、殺すなんて!」

続けざまに与えられる無情な宣告に、もしかして自分は軽い錯乱状態に陥っているのだろうか。気付けば、ササライに言っても仕方のない感情的な抗議の声を上げていた。

「神殿にとっては宝物の盗奪を許したという失態が全てなんだ。彼等はあの時僕達にとっての障害であり、そして僕達は彼等を排除した。厳しい処罰はその結果に過ぎない」

冷静さを失わない声でササライは事実のみを淡々と述べる。

私のせいなんだね」

俯いて指先を見詰めると、スカートの布地に歪な円を作り出す雫がぽたりと滴り落ちた。

これは涙じゃない、汗だ。暑くもないのに、額が、首の後ろが、じっとりと汗ばんで止まらない。

ふたりの人間の死の原因を作った。その事実を知らされ、全身の血の気が引いていく音が聞こえた気がした。青ざめた自分の顔は、きっと見るに耐えない酷い有様だろう。

「君は、ネウトを助け出したことを後悔しているのかい?」

思いも寄らない言葉に弾かれるように顔を上げると、強く否定する。

「私たちが行かなければ、あの子は今も冷たい牢の中に居たんだ。後悔なんてするくらいなら最初から助けたりしない!」
「なら君は、世話役の神官達が罰を受けた事に対しても後悔なんてすべきじゃない。彼等はネウトが虐げられているのを知っていながらそれを黙って見ていた、あの子を傷つける側の人間だったんだ。あの時君に選べたのはネウトか彼等か、どちらか一方のみだった」

素直に頷くことも出来ずに、再度俯いてササライの声をただ受け入れた。

後悔はしていない、それは本心だ。でも相手の死を望んだわけではなかった。ただ誰も傷つけずに、彼を助けたかっただけなのに。でもそれは甘く困難な理想だったのだろう。

「この命令に従えば、君はこれからも裏切りと敵意に怯えながら孤独な権力の椅子に座り続けることになる。紋章使いとして十分に力がついたと判断されれば、神殿の命令で従軍司祭として戦場に立つようにもなるだろう。三等市民に落とされる他国の村を、そしてまだ見ぬ君の生まれ故郷を、その手で攻撃しなければならない日も来るかもしれない。君に、この国の為に手を汚す覚悟はあるのかい?」

汗で貼りつく髪が気持ちが悪くて、行儀悪く袖口で顔を拭った。

記憶にもない故郷を想えるほど感傷的にはできていない。分かるのは、今まで汚れずに来れたのはササライたちが面倒を見て、良くしてくれたからという事だけだ。なら戦って汚れるならばせめて、いま大切な人達を守るために汚れたい。

命令を受け入れれば私はハルモニアの人間になる。国益を得る為に戦場に出るのも受け入れるよ。だからこそ、せめて望みは果たしたい。交換条件を提示しようと思う」
「条件?」
「私だけでなく、あの子にも一等市民の身分をくれるように頼む。それから神官長ヒクサクにも、公に存在を認めさせたい。もう不当な扱いなんてされないように」

ササライは僅かに驚いたように目を瞠ると、その後は物憂げに眉を曇らせた。

そういえば大聖堂から戻って話し合いを始めてから、一度も彼の笑顔を見ていないような気がする。

どうしてこんなに悲しそうな顔をしているんだろう。出会った時からずっと、ただこの人に喜んでもらいたかった。それだけだったのに。

「それは僕も考えていた。あの子の事はどうにかしなければならないと。でも後の事は僕達に任せて逃げたって、誰も君を責めたりはしないさ」
「私が始めたことだから最後まで責任を果たしたい。決めたんだ」
後悔しないかい」
「この道を選んだことを後悔する日も、いつかは来るかもしれない。だからこそ、後悔した時に誰かのせいにしたくはないよ」
「それが本当に、君の選んだ答えなんだね

念を押すように吐き出された言葉が、ひとつの結論に到達した話し合いの終わりを告げていた。

名前も記憶も無かった自分に優しくしてくれた。暖かい居場所をくれて、身を守る術を教えてくれた。どうしようもない選択を迫られても、自由を選ばせてくれようとした。そんな彼等を、この先何があろうとも恨んだりなどしたくはなかった。

たとえ、差し出された暖かい手を自ら離すことになったとしても。

「私の意思を尊重しようとしてくれた事、ずっと忘れない」

 

 

結論が決まってしまえば、後は出来ることはあまり無かった。

返答を受け取りに来る神官が来る約束の時間まで休ませてほしいと願い出ると、まだ顔色がすぐれないとみなされたのかあっさりと許可は下りた。

休むといっても、食事をしたり眠ったりするつもりはない。今横になったとしても、とても眠れそうにはないだろう。それでも執務室を後にしたのは、これ以上ササライの顔を見るのが辛いという身勝手な理由からだった。

廊下に出て執務室の扉が閉まった途端、後ろから強い力で肩を掴まれる。力の抜けた動作で首を捻ると、同時に退室したラッシュが勢い良く詰め寄ってきた。

「おい、さっきの話本気じゃないだろうな!?

そのつもりだと言いあぐねて口を閉じる。まだ思い直す事が出来るのだと、この優しい青年は最後まで説得するつもりなのだろう。一緒に休憩を取ると言って付いてきてくれたジュニアが仲裁をするように間に入って宥めるが、深い緑の瞳はまだ収まらないとばかりにルディスから目を離そうとはしなかった。この真摯な眼差しを前にすると、まるで自分が一方的に悪いような気にすらなってくる。

「これで良かったんだ」
「だが、こんな形で

白い手袋がはまったままの手で口元を覆い、呻くようにジュニアは声を絞り出した。

「今回の条件をのめば、貴女は我々の保護下の人間では無くなります。自分の力のみで戦わなければならなくなる。もう我々に頼ることも、自由に会うことも出来なくなるんですよ」
「それにお袋も寂しがってる。もちろん帰ってくるよな?」
「そうですよ。貴女が来なくなってから仕事もたまる一方ですし、早く戻っていただかないと

同僚になるはずだった青年二人は、それらしい事を並べ立ててはルディスの帰りを待っていたのだと引き止める言葉をかけてくれる。それが嬉しくないはずがない。彼等と過ごした短い時間が脳裏に甦り、次に懐かしさすら感じるユーリの顔が目に浮かんだ。

どんなに望んでも、もうあの頃には戻れない。それは彼等もよく知っているはずなのに。

「ここに居たい。ここに居たいよ!」

耐えていた分堰を切るようにポロポロとあふれ出した涙を止めることも出来ずに、隠すように両手で顔を覆い首を振った。

本当は戻って来たかった。でもそんな我儘を、何も知らなかった頃のようにササライに言うことなんて出来なかった。神殿に従うでもなく、他国に逃げるでもなく。ただ以前と同じように貴方達の側で働ければそれで幸せなのだと、そう伝える事がもし許されたのなら。

物分りの良い賢しさを身につけてしまった今の自分は、言ってしまえば困らせるだけなのだともう理解してしまっていたからだ。

もしも逃げ出したいと答えていたならば、ササライは本当に逃がしてくれただろう。彼は約束を違えるような人ではない。 だからこそ、軽々しくその道を選ぶことも出来なかった。

例えばの話、貴方達と会わなければ何も持たない私は今頃、自分を売って暮らしていたかもしれない」

ふたりは同時にハッとした表情を浮かべると、そんなことを言うものじゃないと、本当の身内の事のように苦しそうな表情で叱ってくれる。しかし今回の神殿の命令も、ルディスにとってみれば生きるために仕方なく選んだものであることに変わりはない。

「けどどんな道を選んだとしても、自分で選んだことならそれは誰にも恥じる事なんかじゃないと思う。だから本当に良かったと思えるのはそうせずに済んだことじゃなくて、ここに来て心配してくれたり支えてくれる人達が出来たことが私にとっての幸いだったんじゃないかって、今はそう思うんだ」

本音を吐き出すと、頬を濡らす涙はいつの間にかとまっていた。我ながら単純だと思うが泣いたらスッキリしてしまったようだ。彼等が居てくれて、本当に良かったと今なら思える。ササライにこんな顔は、とてもではないが見せられない。

「もしどこに居ても、独りで耐えて何も信じられなくなってたら、こんなに幸せじゃなかった」
お前は今も、幸せなのか?」

不本意な選択をさせられても?

そう問いかける緑の瞳の青年の静かな疑問に、笑って見せて、頷いた。

「また皆と会えた時、笑っていたいんだ」

夜にはあの使いの神官がドアを叩き、ルディスの答えを謁見の間の白い帳の向こうへと持ち帰るだろう。

心まで売り渡すつもりはない。だが願わくば、これが自分たちにとって正しい未来に繋がっていればと思う。

我らに、統べる者たる〈円の紋章〉の加護があらんことを。

まだ耳に残る大司祭の言葉をそっとこころの中で反唱すると、冷たく足音を響かせる円の宮殿の回廊を顔を上げて歩き出した。

 

 

2、歴史を生きた淑女達 〜レナ〜

 

 

約束の時間に現れた神官に了承の返事を託すと、あとはルディスの意思の届かぬところで瞬く間に話は進んでいった。

従属の条件として提示した、ネウトに一等市民を付与する件も呆気無く許可は下りた。それは裏を返せば、手を下す相手の階級など神殿にとってはあまり関係ないという事なのかもしれない。もっと別の手段でも、彼を守る方法を考える必要があるようだった。

ルディス自身も、官位の授与の儀式は春先に執り行なわれることが決まったために、それまでにやるべきことは山積みだった。

司祭職に相応しい振る舞いを身につけられるようにと教養を身につけることが決まり、そしてササライが教育係として選んだのはラトキエ家の親戚筋にあたるスフィーナ家の当主、レナ・スフィーナだった。

「心してかかれよ、あの人は鬼だ。いや、鬼教官だからな」

親戚付合いの長い大叔母を評したラッシュから飛び出したのは、そんな失礼ともとれる言葉だった。鬼呼ばわりとは穏やかではない。

「女性に対して鬼なんて失礼だよ」
「仕方ないだろ、昔から苦手なんだよ」

とにかくラッシュにとっては頭の上がらない相手らしい。類縁関係にあるラトキエ家を手厚く保護している貴族の当主であり、ササライの副官をしていた優秀な女性だとは聞いていたが、ラトキエ家に居た頃にユーリが聞かせてくれた優しく頼れる人物像とは、印象が異なる気もする。一体どういう人なのだろうか。

顔合わせの当日。貴族たちが住まうクリスタルバレー北地区あるスフィーナ家の屋敷へは、難なく辿り着くことが出来た。よく見ると周囲の風景に見覚えがある。住んでいた時は気付かなかったが、ラトキエ家の屋敷とそう離れてはいない距離にあったようだ。

ラッシュが慣れた様子で取り次いでもらうと、スフィーナ家の家令に出迎えられて応接間へと通される。用があるのはルディスの方なのに、待っている間は護衛の青年の方が緊張気味に落ち着きなく部屋の中をうろうろと徘徊していた。何故そんなに顔を合わせずらいのか訊いてみようかと思い立った丁度その時、スフィーナ家の当主は姿をあらわした。

ハルモニアの貴族の証である輝く金の髪と、英知を湛えた青い瞳。品の良いタイトスカートのスーツスタイルが、どこか中性的な雰囲気を持つ彼女にはよく似合っている。目の前に立つと自然と背筋が伸びるような、そんな美しい年の重ね方をした女性だった。

「姪から貴女の事はかねがね聞いておりましたが、お会いするのはこれが初めてですね。スフィーナ家当主レナ・スフィーナと申します。かつては円の宮殿の近衛隊副隊長として、ササライ様の副官を務めておりました」

良く通る凛としたハスキーボイスが耳に心地良い。片手を胸に添えた軍人の名残を思わせる動作で自己紹介を済ませると、レナは今度はルディスの後ろで情けなく冷や汗を浮かべていたラッシュへと向き直った。

「久しぶりに顔を見せたかと思えば、相変わらず情けないね? ラトキエ家の坊や」

ラッシュはすっぱいものを口いっぱいに頬張ったようなしおれた表情を作ると、観念したように歩み出て正面から大叔母へと向き合った。

ユーリの叔母であり、ラッシュの大叔母にあたるというレナ。同じ金髪でもユーリの髪が太陽の光を透す蜂蜜色ならば、レナは豊かな実をつけて収穫を待つ麦穂を思わせる黄金こがね色だ。色彩は違えど、血縁だけあって並んでみると確かに彼等はどことなく面影が似ているような気がする。

「レナ叔母、悪いけど貴族の教育なんて、やっぱり俺には必要ないと思うんだよ」
「何を言い出すかと思えば必要に決まってるだろう。だからこそお前が望んだ騎士学校にも行かせてやったんだ。跡継ぎがそんな事でどうするんだい? いざという時本当の意味でユーリを守れるのは、お前だけなんだよ」

母親の事を持ち出されると流石に弱いようで、早くも悪くなった旗色に降参を示すように青年は縮こまった。

「それに、いつかラトキエ家が再興した時に教養が無くて困るのはお前なんだぞ」
「俺はそんな事望んじゃいないよ。少なくとも、今は
「相変わらず欲が無いんだね。でも、それだけではこの国ではやってはいけないのもとっくに理解出来ているんだろう?」

いつになく真剣な表情で唇を噛み締めてしまったラッシュを一瞥すると、レナは大きな溜息を吐き出した。

「これからもうひとり来客がある予定なんだが、忙しい私に代わってお前が迎えにいってくれると、助かるんだけどね」
「いや、俺も着いたばかりなんだがというか、なんで俺が?」
「いいから、やるのかやらないのか!」

当主の代わりを仰せつかった青年は若干の抵抗を見せるが、レナに尻を叩かれると渋々と玄関ホールへと引き返して行った。

「お見苦しいところをお見せしました」

心配そうにその背中を見送ったレナはもう一度だけ肺腑から搾り出したような溜息をつくと、ルディスに勧めたソファの向かいへと腰を落ち着けた。

「すでにお話は聞いておられるかと思いますが、改めてご説明いたします。貴女をどこに出しても恥ずかしくない貴婦人となるように教育するのが、貴女をササライ様よりお預かりした私の役目です。失礼を承知で言わせていただくならば、今の貴女では、とても神殿の公務は務まらないでしょう」
「今まで誰にも、そんな風に言われたことはありませんでした」
「それはあの方が寛容に過ぎるからです。それは言いかえれば、このような事態を想定していなかったがゆえの事ではあると思われるのですが

それまであくまで平静を装っていたレナの形の良い眉尻が下がる。それが意気消沈を表したものなのだという事を理解したのは、彼女の口を衝いて出た独白を耳にしてからだった。

「貴女の話を聞いた時は、もしやあのお方のお側でずっと力になれる者が現れたのやもと、そう思ったものだったが

紅で美しく形取られた唇から、まるで器に満ちた水が溢れるように気弱な言葉がこぼれて落ちた。

かつてササライの元で仕えていたというレナ。幼少の頃より彼を知り、ディオスすら知り得ない苦楽も共に乗り越えてきたのだろう。もしかしたらユーリやラッシュを見守るのと同様に、ササライの事も時には弟のように大切に思い、成長を見守ってきたのかもしれない。

しかしそれと同時に、側に居る年月が長くなればなるほど、彼女は自分とササライの生きる世界が違うのだという事も思い知らされてきたのだろう。それは何も身分の差だけを指しているのではない。残酷な時間の流れは、真の紋章の継承者であるササライだけを残して周囲の人間を変えていく。

彼はこれから計り知れない時間を、変わらぬ姿のままあの場所で生き続ける。神官長ヒクサクに死ぬ事を許される、その時まで。

自分もこれから、そうなるのかもしれない。だが寂しい籠の鳥であっても、寄り添う相手が居るのなら耐えられるのだろうか。

生憎そうなった事もないので分かりかねるが、こんなことになってしまってからササライと一緒に居るのはそんなに悪くないと、そう感じていた自分がいるのに気がついた。何事もなければ、恩を返し終わってもあのままずっと側に居続けたのかもしれない。

この国では誰もが、必ずしも己の望むかたちで生きていけるわけではない事は、私も理解しているつもりです。それでも彼等と共に過ごす穏やかな日々が、ずっと続けばいいと望んでいたのも事実です」

言葉を選んで答えると、レナは青い瞳にわずかな驚きの色を浮かべる。

「詮無いことを申し上げました。今の言葉は忘れてください」

レナは寂しげな微笑みをかき消すと、今度は迷いのない表情で右手を差し出す。

「限られた時間ですが、全力を尽くしましょう」
「よろしくお願いします」

握り返した彼女の手は温かく、そして頼もしかった。

レナの体温が手の平から離れていくと、今度は入れ替わるように廊下を早足でこちらへ向かってくる足音が聞こえてくる。

「来たようだね」

音の方向を顎で指して笑みを浮かべるレナと共に立ち上がると、勢い良く扉が開き、突然正面から細い腕に抱きすくめられた。金の髪が揺れる肩口から、よく知る甘い香りがふわりと漂う。その名を口に出すは随分と久しぶりのような気がして、自分を抱きしめて離さない両手の持ち主の名を呼んだ。

「ユーリさん!」
「ルディスちゃんああ、よく顔を見せてちょうだい。レナ叔母様があなたの教育係を仰せつかったと聞いて、居ても立っても、居られなくなってしまって

小さく震える華奢な背中に手を添えると、朝露を含んだ深緑を思わせる瞳を潤ませたユーリは久方ぶりの再会を心から喜ぶように微笑んだ。

「食欲はある? 困った事があったら相談してね? ササライ様の元に居るなら何も心配は要らないと思うけれども、貴方は私たちの家族でもあるのよ。家族に遠慮はいらないわ。貴女まで帰って来なくなるんじゃないかって、私

事情があったとはいえ、ラトキエ家には帰れずじまいになっていた。普段通り外出してそのまま戻らなかったルディスの事を、ユーリはどれほど心配してくれていたのだろう。いつも屋敷から空を見上げては、家族の帰りを一心に待っていた彼女の背中を思い出すと胸が痛んだ。

「ごめんなさい。心配、かけてしまって
「ううんこっちこそ、取り乱しちゃって恥ずかしいわ。でもこうして元気な顔を見れて安心できたわ。それだけでもういいのよ

落ち着きを取り戻すと、ユーリはまなじりに滲んだ涙を誤魔化すように瞼を指先でなぞって今度は恥ずかしそうにはにかんで見せた。

「まさかとは思ったが母さんまで来るとは今日は俺の厄日か何かじゃないだろうか?」
「聞こえているよ! レディに対してそんな態度を取るとは、先が思いやられるね。それに今回は特別だ。ユーリにどうしてもと頼まれては、無下にもできなくてね」

許可は得ていると付け加えて小さく笑うレナもどうもユーリには敵わないらしく、困り顔を作りながらも妹のような存在の姪の喜ぶ顔を見て満足気だ。

類縁の女性陣に囲まれて肩身が狭そうにしているラッシュと、親しい者達に囲まれご満悦のユーリ。対照的なその姿はこの場の力関係を如実に表しているようで、なんだか可笑しかった。

「仕方がありませんね、今日の勉強はお茶会の作法といたしましょう。でも明日からは厳しく指導させてもらいますので、覚悟なさってくださいね」

緩んでしまった空気を引きしめる事を諦めたレナは、言葉の節々に教育係としての威厳も感じさせながらもその顔に浮かぶ表情は穏やかだ。

「まあ、頑張れよ」
「何を言っているんだい? お前も一緒に鍛えなおしてあげるから、覚悟するんだね!」

責任感のない言葉を残してそろそろと逃げ出そうとしていた青年は、自分よりも背の低い大叔母に首根っこを掴まれて心底怯えるように震え上がっていた。

 

 

3、歴史を生きた淑女達 〜ジル〜

 

 

どのくらいの時間を馬車に揺られていたのだろうか。ハルモニアの片隅にひっそりと住まうというその人物を訪ねるためにクリスタルバレーを出発してから、道中ずいぶんと長くかかったような気がする。

そういうわけで、御者の到着の報告を受けてまず最初に護衛の青年と交わしたのが安堵の息だったのも、無理はない話だった。

森の中にまるで人目を避けるように建てられているその屋敷は、ササライの所有する邸宅と比べると流石に小規模ではあるが、立派なつくりのものだった。山荘というよりは、美しい異国風の別荘というところだろうか。

蔦を模した鉄製の正面門の前で止まった馬車を降りると、御者と護衛の青年を馬車に残してひとりで門扉を叩いた。今日会う人物には一人で会わなければならないのだと 、予めササライに申し付けられていたからだ。

しばらく待つと、扉の隙間から若い女性が顔を出した。編み込まれた豊かな栗毛が風に揺れて、素朴な顔立ちがあらわになる。くるりとこちらを向いた愛嬌のある大きな瞳と目が合った。

「ルディス様ですね? 遠いところを良くおいでくださいました、私はピリカと申します。こちらへどうぞ!」

ピリカと名乗った女性に案内されて屋敷の奥へと歩を進めると、窓辺の安楽椅子に腰掛けたひとりの貴婦人の姿が目に飛び込んできた。艶やかな黒髪と、凛とした気品。変わらぬ気高さを来訪者に示す彼女こそ、ササライの紹介で尋ねた人物。

旧ハイランド王国皇女ジル・ブライトその人こそが、この屋敷の主であり約束の人物だった。

「ようこそいらっしゃいましたルディス殿。わたくしは、ジルかつての名をジル・ブライトと申します」

貴婦人は張りのある落ち着いた声で語り始める。ハイランドの事が書かれた歴史書の中で初めて彼女の肖像画を見た時は、少女の面影を残した儚げなお姫様だと感じたものだった。いま目の前に居るジルも気品に満ちた面影は変わらないが、白い肌に刻まれた薄い皺が、彼女が故郷の地を離れてハルモニアで過ごした年月を物語っていた。

「お初お目にかかります、ジル様。ササライ様のご紹介により参りましたルディスと申します。拝謁の機会を頂き光栄にございます」

手ずから淹れたお茶を差し出すジルは、下々の行いを許す貴人の如く鷹揚に頷いた。

「ササライ様とはデュナン統一戦争の折に面識があります。わたくしの祖国ハイランドの為に、遠征軍を率いて友軍として戦ってくださったことよく覚えております」

ジルに会う事が決まった時に失礼がないようにと、多少ながらもハイランドについて学んだ知識を思い出す。

ハイランドという国は、現在の地図の上ではどこを探してもその名を見つけることは出来ない。何故ならば彼女の祖国は25年前に戦に敗れ、今は存在しない国となっているからだった。

ハルモニア神聖国の南に存在する、複数の独立した都市を内包するデュナン地方。

太陽暦460年に起こったデュナン全土を巻き込んだ新同盟軍とハイランド王国の戦いを指し、後に歴史家たちはこう呼んだ。どちらかが倒れるまで相争う事を止められなかった、都市同盟とハイランド王国の最後の戦い”デュナン統一戦争”と。

長らく紛争状態にあった両国の争いは、都市同盟によって休戦協定が反故ほごされたことを機に激しさを増し、反目しあった年月の長さに反比例するかのように僅か半年で決着を迎える。

新同盟軍が勝利し、ハイランドは消滅。旧ハイランド領を含めたデュナン地方一帯は、現在はデュナン国と呼ばれるひとつの国となっている。

ハルモニアの公式記録ではハイランドの王族の血は途絶えたとされているが、その皇族が名乗っていた姓がブライトだったと伝えられている。

「今のわたくしはもう皇女ではありません。どうか肩の力を抜いて楽になさって」
「は、はい

そうは言われても、元お姫様に急に馴れ馴れしくなんて出来そうもなかった。固さが残る返事をすると、そんなルディスの様子を見たジルは困ったように柔和な笑みを返した。

亡国の皇女ジル・ブライト。彼女は友好国であったハルモニアの片隅に亡命した悲劇のお姫様なのだと、ササライは冗談めかして教えてくれた。

ブライト王家の血筋を引く最後の人間である彼女の生存を知る者は、多くはない。ササライが彼女に会う機会をくれたのも、ジルに会うことはルディスにとって学ぶ部分が多いだろうという特別な配慮からだった。だから、たったひとりで会わなければならないのだと。

「ササライ様は貴女に何とおっしゃっていましたか?」
「お話を伺うようにと、それだけ言っておられました」
「そうですか

神官将ササライの使者がこの屋敷にやってくる。それは彼女にとって、あまり好ましい客人というわけではないのかもしれない。ジルは憂慮を振り切るように思案を止めると、穏やかに口を開いた。

「貴女がわたくしのお話を聞きに来た理由は存じあげています。近く司祭職に上がられるとか。おめでとうございます、と申し上げてよろしいのでしょうか?」
「それは

はっきり言ってしまえば、全然おめでたくない。固まってしまった顔のまま作り笑いも用意できずに口籠もると、こちらの戸惑いを見て取ったジルは小さく息をついた。

「どうやら貴女は、やはりわたくしと同様の立場の方のようですね」
「それは、どういった意味なのでしょうか?」
「貴女も、そしてわたくしも、ハルモニアが持つ駒のひとつに過ぎないという事です」

冷静に自身の立場を把握するジルのその言葉に驚いた。どうやら彼女は、己の境遇に嘆き狼狽うろたえるだけのお姫様というわけではないようだ。

「ハルモニアの神官達は、わたくしをデュナンに差し出す事もしない代わりに、手助けをする気もないようです。表面上は見て見ぬふりをして監視を続けている
「同盟国の皇族だったジル様をハルモニアが匿うのは、自然なことのようにも思えますが
「ええですが、ハルモニアと私たちは決して友人同士というわけでありません。私たちは生き長らえるため、ハルモニアは有事には私たちを利用するため、今は互いを不干渉としているに過ぎません」

飛び出た言葉に再度驚き、固唾かたずを飲んで問いかけた。

「利用ですか?」
「はい。事実、13年前に起こった”ハイイースト動乱”においては、ハイランド復権を掲げた一派がわたくしを担ぎ出そうする動きがありました」

ハイイーストとは、過去にハイランド王国があったデュナン国北東地方を指している。ハルモニア神聖国がハイランドの皇都であったルルノイエを奪い返さんと、現在のデュナン国ハイランド県に侵攻したのがハイイースト動乱と呼ばれる戦いだった。

当初はハルモニア辺境軍がハイランドの領土回復を目指して侵攻を開始したものだったが、デュナンの抵抗とハルモニア国内の内乱が重なり失敗に終わった。

しかし、辺境軍を預かっていた元ハイランド貴族の将軍が暴走。独断で侵攻を再開し、事態はハルモニア本国の意図から外れた方向へと進む。しくもデュナン統一戦争と同じ半年を費やした動乱は泥沼化した末に、ハルモニア中央から将軍の勝手な判断を諌める通達が下り、ようやく終結を迎えたという経緯があった。

統一戦争終結から何年経とうとも、故郷だったハイランドの復活を望む者は多いのかもしれない。

「わたくしは義妹いもうととともに静かに余生を過ごしたいと考えています。しかし生き残った皇族はわたくしひとりであることも事実。元ハイランド貴族の者達の中には、ハイランド復興などと世迷いごとを語る者も後を絶えません。嘆かわしいことです

デュナン統一戦争が行われた半年の間にハイランドでは2度の王位継承が行われ、そして3人の皇王が戦の中で命を落としたとされている。

統一戦争勃発時に在位し、都市同盟と休戦協定を結んでいた穏健派のアガレス・ブライトは、強硬派の逆臣の手にかかり謀殺ぼうさつの憂き目を辿った。

次に即位したのがジルの実兄であり、狂皇子と恐れられたルカ・ブライトだった。鬼神の如き強さと残虐さが今尚語り継がれるルカは、新同盟軍のリーダーに敗れ戦場にて命を落としている。

そして最後の皇王はジルの夫であり、地方豪族の生まれながら玉座にまで上り詰めたジョウイ・ブライトだった。彼は今も行方知れずとなってるが、崩れ落ちた城の下では生きてはいまいと判断されて、ハイランドの消滅とともに実質故人として扱われている。

3人の皇王はいずれもジルの肉親だった。

戦に翻弄され、国を亡くして、家族までもをすべて失ったジル。

「すみません
「どうしたのです? 何故、謝るのですか?」

突然謝罪を始めたルディスを、ジルは同じ黒の色彩を持つ瞳で不思議そうにじっと見つめている。

「私は昔話を聞ければそれで良いのだと、どこか軽い気持ちでここに来ました。心のどこかで、過去の事だから話す側の傷も癒されてるのだと、そう勝手に思っていました。でもジル様にとっては、きっと違うんだと思います。だから、ごめんなさい

辛い話をさせてしまった。項垂れた先に有るティーカップの中では、半分に減った紅茶に浮かんだ情けない顔がこちらを見ている。ハイランド式のもてなしてなのだと淹れてもらったお茶は、もう湯気がたたないほどに温くなってしまっていた。

「いいえ、ハイランドの事を何も知らない貴女だからこそ、わたくしはお話ししようと思えたのかもしれません」

優しい響きに顔を上げると、ジルは慈しみを湛えた微笑みを浮かべていた。

「そういえばササライ様は、わたくしとそう違わないお年だったと記憶しています。御壮健でいらっしゃるのかしら?」
「元気にしております。昔からの部下には、食えない中身に反して見た目は変わらないので羨ましいとよく言われるそうです」
「まあ!」

驚いたように丸く開けた口元を隠すように手を添え、ジルは花がほころぶような笑顔を見せてクスクスと笑った。ユーリといいジルといい高貴な女性というのは、どこか守ってあげたくなる雰囲気を持っているものなのだろうか。

「真の紋章の加護ですね。ハイランドも建国より代々伝わる〈獣の紋章〉を所有していたことはご存知かしら?」

過去形で語られる真の紋章の逸話に思わず姿勢を正して耳を傾けた。一つの神殿で読んだ古い本の中で目にしたその名を、当事者の口から聞く機会を得られるとは。

ハイランド建国時にハルモニアから寄贈された、双頭の狼が描かれた真の紋章。の国が滅んだ際に〈獣の紋章〉はハイランドの地から解き放たれ、以後行方知れずとなっていた。

「〈獣の紋章〉により我が兄ルカの凶行は加速し、デュナン統一戦争では多くの罪なき命が奪われました。そしてその〈獣の紋章〉の膨れ上がった力を抑える為に命を削りながらも〈黒き刃の紋章〉を使い続けたのは、我が夫ジョウイでした」
「ルカ・ブライト比類なき強さを誇った武人だったと、聞き及んでおります」

実際は、残虐で非道な行いを重ねた末に狂皇子などと呼ばれる、悪魔のような人物だったと伝えられている。でも実妹であるジルの前で、そんな風にはとても言えなかった。

「どうか、お気を使わないでくださいまし。兄がどのように語り継がれているかは存じております。そしてそれは事実であることも、わたくしはよく知っているのです。あの時のわたくしには、兄を止めることはできませんでした。疲弊する祖国の兵と血を流す両国の民を目にしながらも、兄を止められぬ己の非力さを悔やむしか、出来なかった

国と国の争いの中で命を落とすのは、何も戦場に赴く兵士だけではない。侵略により道行く村々は焼かれ、戦う力を持たない多くの一般市民も理不尽な凶刃の餌食となる。穏やかな生活を送っていた彼等の日常は切り裂かれて、ある日突然終わりを告げる。

今日こんにちまでに残された記録ではデュナン統一戦争での民間人の犠牲者の多くは、ハイランド軍の総司令官ルカ・ブライトの手によって生み出されたものであったとされている。

中でも最も残虐な行いとして名高いのは、〈獣の紋章〉への生贄と称した占領地ミューズでの虐殺だった。ルカは都市同盟の中核として多くの市民が暮らしていたミューズ市の広場に巨大な穴を穿ち、その中で女子供問わず集めた力なき住民たちの命を奪ったという。

そして思惑通り〈獣の紋章〉は捧げられた血を吸い力を増した。主であるはずのブライト王家がその凶暴な力を持て余し、手綱を握る事が出来なくなる程に。

「〈黒き刃の紋章〉は、真の紋章のひとつ〈始まりの紋章〉の片割れであったのだとジョウイは教えてくれました。不完全な紋章を使い続け苦しみながらも、彼は最後まで彼の友人とともに〈獣の紋章〉の脅威からわたくし達を守ってくれたのです」
「友人。それは新同盟軍を率いた『デュナンの英雄』リオウの事ですか?」

長い時を得た今もなお、彼女の眼裏まなうらには英雄達の姿が鮮やかに蘇っているのだろうか。ジルは瞼を閉じたまま、艶やかな黒髪を揺らしてゆったりと頷いた。

〈黒き刃の紋章〉で、暴れ狂う〈獣の紋章〉の力をたった一人で抑え続けたジョウイ・ブライト。〈輝く盾の紋章〉で、仲間とともに〈獣の紋章〉を打ち破ったデュナンの英雄リオウ。

デュナン統一戦争が同盟軍の勝利で幕を閉じると、気付けば彼等は人知れずデュナンの地から姿を消していたという。

彼等の行方を知る者は今は存在しない。そのはずだ。

しかしもしかしたら、ジルは何かを知っているのかもしれない。

ハイランド王家の生き残りでありジョウイの妻であったジルならば、〈獣の紋章〉そして〈始まりの紋章〉の行方を知る手がかりになるやもと神殿は考え、今も注視しているのだろうか。

「荒ぶる力、そして守る力。わたくしの目には真の紋章とは、善悪ばかりでははかる事は出来ないもののようにも映りました。強大な力をその身に宿し運命に立ち向かうあなた方は、時に常人には理解されない孤独をも抱えやすいのかもしれません。しかし力無きこの身であっても、寄り添い生きることは出来ます。わたくしたちはお友達になれるかしら?」

意外な申し出に目が丸くなった。 今ジルは、「あなた方」と括って話した。ここに来てから真の紋章の話は、こちらからは一言も喋ってはいない。問われもしなかった。ならば事前にササライから伝えられていたのだろうか、ルディスもまた、ひょんな事からその中をひとつを宿していることを。

激動の時代を生き抜いてきた彼女だからこそ、相手がどんな力をもっていたとしても無闇に恐れる必要はないのだと知っていて、あえて問うことはしなかったのかもしれない。

「ありがとうございます。私などでよろしければ」

貴重な話を惜しみなく話してくれたジル。気品を感じさせる所作だけでなく、胸の内に悲しみと強さを秘めた彼女の凛とした生き方は、迷う時の手本となるに違いない。だから、一も二もなく応えていた。

丁度話が一段落した時、控えめなノックの音が部屋に響いた。入り口を見ると、部屋に案内してくれたピリカが新しいティーセットを両手に抱えて佇んでいる。

「新しいお茶をお持ちしました。ファレナ産の、すごく良い香りのとっておきなんですよ」

気付けばティーカップの中に残っていた赤い水は、長話ですっかり冷めきっていた。ピリカの手で用意された新しいカップへと、芳醇な香りとともに温かな熱が再度注がれる。

「あの

お礼を伝えてから暖かいお茶を一口含むと、ピリカが躊躇いながらも声をかけてくる。

「どうしたの、ピリカ?」

ジルもその様子に気付き、傍らに立つ彼女を不思議そうに見上げた。

「ジョウイ兄さんの事をお話しされていたのでしょう? ご迷惑じゃなければ、私もお話しさせて頂いてもいいですか?」

戸惑いながらも意を決したように、ピリカはそう切り出した。

「ピリカはわたくしとジョウイの義妹なんです。血の繋がりこそありませんが、ジョウイとわたくし達は本当の家族でした」

だから会話の内容を隠す必要もないのだと。

「もちろんです、ピリカさんのお話ぜひ聞かせてください」 ルディスと同じく、ジルもまたピリカの申し出を喜んで受け入れる。ピリカは感謝の言葉を述べると、嬉しそうにジルの傍へと寄り添った。

そんなやり取りのあと、ジルは居住まいを正して肩に載せられたピリカの手を取り、最後にこう教えてくれた。

「今まで他の方にお話した事はなかったのですがここに来て数年が経った頃、ジョウイはわたくし達の元へと帰ってきてくれました。彼の友人達も、一緒に。そして〈黒き刃の紋章〉は彼の手を離れ、今はデュナンの英雄の元に。わたくしが知っている〈始まりの紋章〉の物語はここまでです」

「ま、待って下さい! そのような重大な事を私に話して頂いても、正直困ります」

ルディスは神官将の紹介でここに訪れた客だ。神殿に密告はしないとは限らないし、もしそうでなくとも、ササライに話してしまうとは思わないのだろうか。

慌てふためきそう指摘するが、ジルはただ穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見つめ返すだけだった。

「良いのです、この場限りのお友達との他愛無いお喋りにすぎませんから。それにまたハイイースト動乱の時のような事があった時に、もし貴女のような味方が居てくだされば、わたくしたちも心強いというものです。ササライ様にお話するかどうかについては、貴女を信じてお任せしたいと思います」

ジルは今も〈始まりの紋章〉に繋がる細い糸という事らしい。

真の紋章の情報をハルモニアの神官ではなく、ルディスのみに伝える。これがどういう意味か分からない程、鈍感ではない。

情報を他者に話してしまうのは簡単だが、それは情報の有用性を受け渡してしまう事と同じだ。賢いとは言えない。これは今のところルディスだけが持っている、政治的な意味合いでの強いカードなのだ。そしてジルはルディスのことを、それを渡すに値する人間だと判断してくれた。光栄なことなのだろう。

友人になるというのも、嘘ではないのだろう。しかし同時に、〈始まりの紋章〉の行方を追うのならば、ジルを守り協力を得られるようにしなければならない。

ルディス自身は真の紋章狩りというハルモニアの政策にはあまり賛成はしていないのだが、神殿に仕えるのならば避けて通れないのも事実だった。

この情報をどう使うかは、ルディス次第ということだろう。

「わたくし達は同じひとりの人間を愛し、信じました。そしてまた新たな友となれた貴女のことを、信じたいと思うのです」
「ジョウイ兄さんは幼かった私に教えてくれたんです。別れを悲しむのではなく、共に過ごせる時間を大切にしなさいと

ピリカがそう言うと、寄り添い生きる義姉妹たちは顔を合わせて微笑んだ。

故郷を離れて密かに、しかし健気に生き抜いてきた二輪の花。その姿は、まるで本当の姉妹のようだった。

 

 

4、幕間・ササライが所有する館の客室にて

 

 

ササライ様の御前だ。顔を上げろ」

重い空気を裂くように飛んだ激に男の体がビクリと揺れる。そして観念したように、じっとりと汗で濡れた顔を上げた。

背信の重さに耐えかねて逃げ出すと思われていた裏切り者は、予想に反して素直に姿を現した。人払いされた館の一室に居るのは、椅子に腰を落ち着けたササライと護衛として横に従うラッシュ。そして裏切り者の庭師の老人だけだ。

神殿派への密告を行った張本人である庭師の老人は、入室した後は一言も発することなく扉を背に佇んでいた。距離を置いて対面するササライ達を前に思いつめた顔で押し黙る彼の様子は、覚悟を決めて刑の執行を受けに来た罪人のようにも見える。

「何故、こんな真似をした?」

ササライが静かに事の真偽を探るべく問いかけるが、当の庭師は再び背中を小さく丸めてはうな垂れ、何も答えはしない。

彼が縋りつくように両手で強く握っているくしゃくしゃの塊が、使い込まれたハンチング帽だという事に気付いたのは、この尋問が始まってから随分経ってのことだった。

呼び出しに応じてから、老人はずっとこの調子だった。

「貴様! ササライ様の質問に答えろ‼ お前が神殿派に情報を売ったことは、屋敷の他の者達の証言で分かっているんだ! 何故ルディスを奴らに売った‼」

長年の庭仕事で節々が膨らみ荒れ果てた無骨な男の手は、脱いだ帽子をますますきつく握り締める。まるで先程ササライが問いかけた時よりも、ラッシュに責められる方が辛いとでも言うかのように。

今回同席させてもらえたのは護衛としての任務なのだと、事前にそう説明は受けていた。だがもしかしたらそれは建前であり、本当は何かを見せたいがためにササライは自分をここに呼んだのかもしれない。

見た目は柔なお坊ちゃん風のササライは、その実は優秀で強力な魔術師でもある。内通者の尋問とはいえど、老人ひとりに手間取ることなど有り得ないだろう。

だから自分がここに居る事を許されたのは、それ以上の何らかの意味がある事なのだろうとラッシュは考えていた。

そう考えていたのに。意図を汲もうとする理性とは裏腹に、感情のままに声を荒げて目の前の老人を追い詰めてしまった。叱責に耐えようと身を固くした相手は怯え、ますます頑なに口を閉じてしまう。

相手を萎縮させては何も聞き出せない。分かってはいるが、護衛としてこの場所に居たにも関わらず異変に気付けなかった事が情けなくて、悔しくて仕方がなかった。しかも被害をこうむったのは自分ではなく、護衛対象だ。冷静になれという方が無理な話だった。

「ラトキエ家の再興でも持ちかけられたのかい」

予め調べはついていたという事だろうか。その発言は核心を突いていたようで、ラッシュとは対照的にあくまで落ち着きを失わないササライの言葉に老人は勢いよく顔を上げ、驚きの表情で凝視する。もう隠すことは不可能だと判断したのだろう。観念したようにポツリ、ポツリと事の経緯を話し始めた。

「神殿に真の紋章を納める手助けをすれば、ササライ様でも無理だったラトキエ家の再興に尽力してくださるのだとそう持ちかけられて

「ラトキエ家の再興だって? まさかそんな甘言かんげんを本気にしたのか!? そんな、そんなくだらないことのために、身内を売ったってのか!!? クソッ‼」

荒ぶる感情のままに手加減なく壁を殴ると、衝撃を叩きつけた壁がみしりと音を立てて陥没する。手袋の中の拳も軋んで痺れたが、そんな事はかまわなかった。

そうでもしなければ、目の前の無力な老人を怒りのままに殴ってしまいそうだった。

かつて西方辺境領のサナディがまだ国と呼ばれていた頃。見事サナディを陥落せしめ真の紋章を手に入れた将軍が、その功績により特例とも言える栄転を果たした。神官長ヒクサクの勅令により、褒美として神官将の地位を与えられたのだ。

このハルモニアにおいて真の紋章を手に入れるという事は、それほどまでの意味を持つ。望むのならば栄誉も地位も、富さえも望むままに与えられるほどの。

そしてあわよくばその力を己に宿し、不老の肉体と永遠の命を得ようとする者さえも存在する。彼等は20年以上変わらぬ姿で神官将という栄光の座に座り続けるササライの姿をその目で見ているのだ。老いを憎み甘き死の手から逃れようとする者が居たとしても、不思議はない。

そんなこの国の事情を知っていたからこそ、とっくの昔に取り潰しになった問題のある家門の再興などという夢物語すら、実現可能だと思い込んだのかもしれない。

「主に背き、同じ屋敷で働く者を傷つけ。それで、そこまでして望んだ願いは、叶ったのかな」

一段低く響いたその声に、老人の顔色は見る間に青ざめていく。

そして先程まで指が白くなるほど強く握り締めていた拳を力なくほどくと、力無く無言で首を左右に振った。

「滅相もない危害を加えるなんて、考えもせんことでした。最初は、変わった事はないか見張るだけで良いと言われました。だけんども、見たこともない魔法を使い出したと報告すると、わしの役目は終わったのだと、そう言われました。それっきりです」

最初から約束を果たすつもりなどなかったに違いない。スパイ行為を持ちかけた輩は、この憐れな老人を誑かすために出来もしないことを言って聞かせ、夢を見せて操って。そして用が済んだら使い捨てた。そういうことだろう。

「あの娘は神殿の指示で預かっておいでだったのでしょう? なら神殿に返すのは、正しい行いのではねえのですか?」

屋敷の使用人たちにはルディスのことは、一緒に来たネウトの世話係だとしか説明はしていなかった。神殿の保護対象者であることも真の紋章を持っていることも、ラッシュ以外には知らせないとササライが判断したからである。相手の許容量を越える情報は、時に互いにとって良くない結果を招くからだ。

だからそれは、罪悪感を薄める目的で老人に与えられた、断片的な真実に過ぎなかったのだろう。

もしそうだとしても、それはお前が決めることではなかったはずだ」

無知な老人を利用した政敵に嫌悪しているのだろうか。固い声色で返された返答は、目の前の男を焦らせるのに十分だった。眉根を寄せたササライの言葉に事の大きさをようやく理解したらしい男は、脂汗を流しながら縋るように雇い主へと歩み寄ろうとした。

慌てて遮るように間に立ちはだかると、今度は老人のものとは思えない力でラッシュの肩を掴んで男は捲し立てる。

「わしは、わしはただ昔に戻りたかった! ラトキエの先代様は、わしらのような帰る故郷くにもない三等市民の使用人を、家族同然だと言ってくださるそれはそれは御立派なお方だった!」

息を切らし、苦しげに、しかし尚も必死の形相で老人は食い下がる。

「だからラトキエ家の面影を持つラッシュ坊ちゃんのお姿を見ちまったら、居ても立ってもいられなくなっちまったんです。ラトキエ家が存続してれば、この屋敷も本当は坊ちゃんのものでしたのに。それなのに小間使いのような扱いを受ける坊ちゃんが、わしゃあ不憫で

幼い頃からそうだった。 まるで亡霊のように、ラトキエの家名が行く先々に先回りして絡みつく。何処へ行っても背後を付いて回る消えない影のように、ラッシュの選択の自由を潰してまわるのだ。

「勝手に憐れまないでくれ。もう無い家を、自分の過ちの言い訳に使わないでくれ! あんたも、俺も、いつまでラトキエの名に縛られていればいいんだ

厭われ、憐れまれ、蔑まれ。あまつさえ、今回のように勝手な理想を押し付けてくる奴さえ居る。その度に思う。いっそのこと帰ってくることの無い叔父のように家を捨てて逃げ出せば楽になるのだろうか、と。

「あいつだって俺達の家族同然だったんだ。でもこれで、あいつはもうラトキエ家には帰れなくなっちまった。お袋がどんなに悲しむかアンタに分かるか? 分かる訳、無いよな」
「ぼっちゃんわ、わしは取り返しのつかない事を

よろよろと力無く、庭師の男は絨毯に沈むように膝をついた。

その小さな背中を冷たく見下ろす。深い皺に沿って流れる透明な涙を目にすると複雑な感情も湧いてくるが、それでも彼の犯した罪を許す気持ちにはなれなかった。

「首謀者の名は?」
「申し訳ありません誰の命令だったのかは、わしは存じないのです。連絡役の者は、事が成されれば知らせが来るとだけ

そう言って老人は連絡役であったという男の名を口にしたが、そんなものは十中八九偽名だろう。最初からトカゲの尻尾切りに使うつもりで誘ったのならば、本当の名前を教える理由などない。

体の良い捨て駒だったのだろう。胸糞悪い気分を吐き捨てることも出来ずにその言葉を飲み込んだ。

ササライは最初から実のある答えなど期待していなかったようで、それ以上深く訊くこともなく小さく溜息をついた後、庭師の男に申し渡した。

「すでに覚悟はしていると思うが、お前をここに置き続けることは出来ない。紹介状を書こう。朝一番にこの屋敷を出て、遠い土地でやり直すといい」
「ササライ様、しかし!」

裏切りの代償にしては軽すぎる。そう進言しようと身を乗り出すと、分かっているとばかりに押しとどめられる。

「僕たちがこの老人に手を下したところで、何の解決にもなりはしないよ。見知らぬ土地で残り少ない余生を過ごすことそれが彼が受けるべき罰だ」

齢を重ねた者ほど、土地に根付いて生きる事を望む。彼は文字通り、生きてきた年月で得たすべてを捨ててこの場所を去らねばならない。そして新しい場所で監視の元、罪を償いながら、生きる。これは生きる限り続く贖罪なのだ。

軽々しく命を断つことを好まないササライらしい判断だった。もしかしたらこれ以上この一件で傷つく人間を増やしても、庭師と共に過ごしていた彼の弟やルディスが気に病むことを避けたかったのかもしれない。

処罰の内容が申し渡されると、庭師の老人は頬に残る涙の線もそのままに、噛みしめるように深く、深く頭を垂れると、静かに部屋を後にした。その背中は気のせいか、入室した時よりも一回り小さくなってしまったように見えた。

「いつか君たちの元に返せる日がくればと、ラトキエ家の別荘だったこの屋敷を使用人ごと引き取ったんだがラトキエに仕えていた者達の心までは、僕は汲んではやれなかったようだ。ルディスにも君にも、彼等にもすまない事をしてしまったね」

「そんなササライ様がおられなければ、俺も母も今頃どうなっていたか分かりません。そのお気持ちだけで俺たちは十分です。母もきっと同じ気持ちでしょう」

ラトキエ家に縁のあった者と言えども、自分にとってはつい最近会ったばかりの人間に過ぎなかった。味方に裏切られた痛みは、助けるつもりで差し伸べた手を噛まれてしまったササライの方が大きいはずだ。だから気遣ってくれる気持ちだけで十分だというのは本当だった。

「護衛を任せていたとは言え、今回の件を君だけの責任にするつもりはないよ。君のこれからには期待しているからね」
「ありがとうございます勿体無いお言葉です」

寛大すぎる処置に感謝を示す。こんなに自分を買ってくれる存在など、もうこの方の他には現れないだろう。失望させない為に、これからはますます期待に添える働きをしなければならないと心に誓う。

片膝をついて謝辞を伝えると、ササライは寂しげな微笑でそれに応えた。

「しかし何度経験しても、人が自分の元から去ってしまうのには、やはり慣れることは難しい。ひととき賑やかになったかと思ったこの屋敷が、また静かになるな」

それは、明日姿を消す庭師だけを指した発言ではないのだろう。手のかかる子供二人と過ごした日々の中、楽しげな素顔をのぞかせていた彼の姿を思い出す。もしかするとササライも、ルディスが居なくなる事で母や自分と同じ喪失感を抱えるのだろうか。そう思うと、住む世界が違うと思っていた彼を、なんだか少し身近に感じられるような気がした。

身分も立場も違う自分たちだが、失うものは案外同じなのかもしれない。そう思うと、やりきれなかった。

 

 

 

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2014年09月20日初稿作成

2020年07月01日サイト移転