Ⅷ 法の供物
シャンデリアの灯りをうけてほのかに色づく果実酒越しに、ササライは晩餐を楽しむ二人の姿をそっと盗み見た。
ルディスの前にも同じ林檎酒が置かれ、ネウトは同種の林檎を使った果汁を小さく喉を鳴らして飲んでいる。
ささやかな幸せだからこそ、あまり凝視しては壊れてしまいそうな気がした。
元々紅茶の方が好みなこともあり酒は食事の際に嗜む程度だったが、ここのところは特に顕著になっていた。禁酒をしているわけでもなかったが、自分だけが葡萄酒で食事を流しこむのも、なんとも味気ないものだと知ったからだった。
毎日ひとりで食事を取っていた頃は気付かなかったが、会話があれば酒類で喉を潤す必要はあまりないのだろう。
燭台が照らし出す皿から掬い上げた最後のひと口の後、向かい合い座っていたルディスが幸せそうに感嘆の息をこぼした。
「今日もすごく美味しかったです。名残り惜しくて夢に出るかも」
「ご満足頂けてよう御座いました、階下の者たちも喜ぶことでしょう」
目尻に皺を寄せた品良い笑みを浮かべて、初老の執事は満足気に答えた。
この日のために料理長が腕を振るった品々は、確かにいつもとは一味違うものだった。それはこの屋敷に仕えてくれている善良な使用人たちの心がこもった仕事の賜物であり、そして何よりも、ずっと都合が合わないがために顔を合わせる事さえ難しかった3人が同じテーブルにつき、久々の団欒を楽しめたという事が大きいのだろう。
「今日はこのあとも、ずっといっしょ?」
先にササライとルディスが食事を終えてしまったことに気付いたネウトが、慌てて手を動かし始める。まだ時間はあるから焦らなくてもいいのだと声をかけると、ようやく彼は安心したように匙を咥え直して美味しそうにデザートを頬張った。
ルディスがスフィーナ家に赴くようになってからは、以前のように3人一緒に朝食を取ることすらままならかったのだから、無理はないのかもしれない。
聞き分けの良い彼は屋敷にひとり残ることを嫌がりはしなかったが、目に寂しげな色を浮かべて耐えている姿を見てしまえば放っておくことなど出来はしなかった。
円の宮殿に連れて行き仕事の間は部下達に相手をさせたり、ルディスと一緒にスフィーナ家で勉強させるといった風に、なるべくひとりにしないように気にかけて過ごしたが、やはりどうしてもササライもルディスも己の事で手一杯で、あまり相手をしてはやれなかったのだ。寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれない。
ようやくすべてを食べ終えた弟は、今度はいそがしく椅子を飛び降りて執事の元へと駆け寄って行った。そして本のようなものを受け取ると、懸命に背中に隠しながら持ってきたそれを、おずおずとルディスの前に差し出した。
「あのね、にいさんとねえさんにきいてほしくて、ぼく、ずっとひみつでれんしゅうしてたんだよ」
「これって新しい曲?」
「うんそうだよ」
ササライも楽譜を手に取り曲名を確認すると、それはダンスの曲として使われる、とてもありふれたものだった。旋律の美しさに惹かれて選んだのだと少年は答える。
「この曲、踊れるよ。みっちりレナさんに教えられたばかりだから」
「レナはそんなことまで君に教えたのか。徹底しているな」
聖職に就くならばダンスをする機会など滅多にないのだが、念のためにと指導したのかもしれない。たとえ限られた時間の中にあっても、こちらの満足のいく成果を出してくれるレナの手腕は健在のようだった。
「にいさんはおどれないの?」
「踊れないんじゃないよ、踊らないんだ。聖職者は舞踏会でダンスをする必要はないからね」
ネウトの問いかけにそう返すと、横に立つルディスが残念そうに、そして落胆を表すようにぽつりと吐き出す。
「だから踊れなくなっちゃったんだ……」
「踊れるさ、甘くみられては困るな」
売り言葉に買い言葉だった。その言葉が親密さから来るからかいの混じったものであることは理解していたが、何となくその言い草にひっかかるものを感じ取って思わず反論していた。
「ではササライ様、わたくしと踊って頂けますか?」
すると次の瞬間その口調は一転し、挑発的に真っ直ぐに差し出された右手がササライの前へと伸びていた。
まるで、貴婦人からのダンスの誘いそのものだ。断れば失礼に値するとされている、地位のある女性がエスコートを許した相手に示す態度で彼女はササライにダンスを申し込んだのだった。
「わたくしもスフィーナ家で受けた教育の成果をお見せしたく存じます」
そう言って社交用の笑みを乗せたルディスの手を、同じく笑みを返しながら取った。作り笑顔ならばこちらの方が上手だろう。
「喜んでお相手いたしましょう」
十年早いと笑い飛ばしても良かったが、わずかに興味が勝った。大方最後の夜の余興のつもりなのだろうと、部屋の中心へと手を引いて進む。
そのやりとりを見たネウトが、広間の正面に据えられた鍵盤楽器へと一直線に向かっていく。そしていつも練習している時と同様に椅子に腰掛け譜面を開くと、期待のこもった視線を投げかけた。
それを合図に豊かな黒髪の上から背中を抱き、掌を重ねて彼女の右手を握った。控えめに肩に手を添えられた相手の左手はどこかぎこちなく、服越しに微かな緊張が伝わってくる。
演奏が始まる直前、ふいに悪戯心が顔をのぞかせた。もし足を踏まれたら、少しばかり大袈裟に痛がって見せてからかってみようか。どんな反応が返ってくるだろう? 慌ててすまなそうに詫びるだろうか。それとも、開き直ってまだまだなのだと悪びれなく笑うのだろうか。
だが一度一度ホールに流れた曲に身を任せれば、そんな予想は良い方向に裏切られていた。
鍵盤に触れた小さな指から生まれたリズムに誘われるように足を踏み出すと、ストライプのスカートの裾が動きに合わせて翻った。
体が軽い。
五線譜から生まれ出た音に身を委ねれば、まるでホールの空気と一体になったかのように、自分が心地良い流れの一部へと変わっていくのを肌で感じた。
それはルディスも同様だったようだ。緊張のために強ばっていた腕はササライの肩にもたれかかり、作り物の笑顔は消えて今は軽い驚きを含んだ自然な笑みを浮かべている。
楽しい……、かもしれない。もしかして、これがネウトの宿している紋章の効果なのだろうか。
「驚いたよ、これが特訓の成果というわけかい? 正直に言えば、足を踏まれる覚悟で手を取ったんだけどね」
「たくさん練習したから。きっとレナさんとラッシュのお陰だ」
この口ぶりだと、彼女の練習パートナーは相当足を踏まれたに違いない。足の甲を押さえて痛みをこらえている護衛役の青年の姿が容易に目に浮かんだ。
レナは約束通り、一切手を抜くことなく朝から晩まで熱心に指導をしてくれたようだった。それが彼女の甥の言葉を借りれば”しごき”とも言えるほど厳しいものであったということは、得られた結果から見ても十分伝わってくる。
レナの教育。それは立ち振る舞いやマナーといった貴婦人教育には留まらなかった。地理学、政治学、歴史学、もちろん宗教学も。それらはすべて国政に関するものであり、また周辺国の情勢を知るのに欠かせないものであった。それとルディスの希望で、少々の植物学も。そして並行して紋章学と剣術の鍛錬も休むことなく行われた。
睡眠や食事といった必要最低限の時間以外のすべてを使った、正に目が回るような毎日だったに違いない。
それが辛く当たってのものではなく、相手を想ってのことだという事は、接する態度や口ぶりからルディスにも察せられるものだったのだろう。巣立った後も立派にやって欲しいというレナの気持ちが伝わったからこそ、彼女もレナの教育指導を最後までやり通すことが出来たに違いなかった。
「……そうか。君は、出会った頃よりもずっと成長していたんだね」
もうひとりであっても、つまづかずに歩いていけるほどに。
そうこぼすと、ルディスは何も言わず、ただ満足そうな笑みを返してくれた。
そんな当たり前の事に今更ながらに気付かされて一抹の寂しさを覚えてしまうのは、何故なのだろうか。
楽しい時間ほど、早く過ぎ去ってしまう。曲の終わりとともに部屋の中央で足を止めると、相好を崩した執事の賞賛の拍手が広間に鳴り響いた。演奏を終えたばかりのネウトも、嬉しそうに頬を染めて興奮のままに執事を真似てしきりに手を叩いている。
目を離したわずかな瞬間、重ねていた手がするりと指の間を抜け落ちていった。ダンスの間は近くにあった体温が離れて、まるで急に周りの空気が冷めるように熱が引いてゆく。
そして彼女は一歩下がり、スカートの裾を摘んで左右に広げて左足を引き、淑女のように優雅な仕草でこうべを垂れた。
「どうかこれまでのご無礼をお許し下さい。今日のこの日までを貴方様の元で過ごせたわたくしは、幸せ者でございました」
形式を重んじた、正しい、そしてあまりに他人行儀なその感謝の言葉に当惑して息を飲む。急に離されて行き場を失った左手もそのままに、ただ意図を図りかねて立ちすくんだ。
「最後だからちゃんとお礼を伝えたかったんだ。変、だったかな」
「いいや…… 少し、見違えただけさ……」
口調を戻した相手にやっと安堵を覚えて、何とかそれだけを返した。
これからは気安く話すことなど、そうそう出来はしなくなる。だからこれが正解なのだと、頭では理解できる。だが、それでも……ただいつも通りの笑顔でただ一言”ありがとう”と伝えられた方が、どれだけ嬉しかったことだろう。
夢から覚めたような気持ちでその顔を眺めていると、今度は下から法衣の裾を引かれて我に返った。
「さいご? さいごって、なに?」
視線の先では、きょとんとした顔で不思議そうに弟が首を傾げている。
「この国で一番偉い人の命令でルディスが円の宮殿に行くことは、前にも話しただろう?」
「うん」
前もって説明していた事の経緯を、もう一度やさしく言い聞かせる。
「ネウトはこれから、兄さんと姉さん、どっちと一緒に居たいんだい?」
「ぼく、ずっとにいさんとねえさんといっしょがいい」
それでもまだ意味がよく理解出来てはいないらしく、叶わない純粋な願いを彼は口にする。
「残念だが、ルディスはもうここでは暮らせないんだよ。神殿付きの司祭という立場になってしまうからね。これからは僕の元ではなく、神殿が決めた場所に住まわなくてはならなくなるんだ」
「ネウトはこのままこのお屋敷に居てもいいんだよ。ただ私が出て行くだけで……」
「3人いっしょじゃだめなの? なんで……?」
ルディスが宥めるように語りかけるが、それでも少年は動揺も顕に理解できないと言いたげに声を上げた。
以前話した時は、きちんと話を理解しているように見えていた。しかしそれは大人の側の都合による、そうあって欲しいという思い込みだったのかもしれない。
まだ外を知らない小さな子供にとっては家と家族は世界のすべてなのだと、昔ディオスが言っていたのを思い出す。遠征や出張のたびに子供達に何処に行くのかと訊かれては大泣きされるのだと参った様子で語る愚痴を、そんなものなのかと微笑ましく聞いたものだった。
ある日突然今まで傍に居て当然だった存在が居なくなってしまう、ということは、彼等の世界を形づくっていた大切なものが欠けるということであり、当たり前だと思っていた世界が泡となって消えてしまうのに等しいのかもしれない。
その生い立ちのせいなのかひどく大人しく物分りが良い彼は、どんなに構ってあげられる時間が少なくなってしまっても、こちらの都合で慣れない場所に連れて行って不安にさせてしまったとしても、文句のひとつも零さなかった。
でもそれはきっと、自分の身に降りかかった問題を十分に理解して、仕方のない事なのだと割り切って飲み込んでいたわけではなかったのだろう。
ままならない事でも、理解できない事であっても、大人を困らせないよう小さな手を握りしめながら、ただひとり耐えていたのだ。
彼が納得できるまで、何度でも話すべきだった。
忙しさを理由に十分な時間を割いて説明することが出来なかったことを、いまさらながらに悔やんだ。
「……ぼくが、わるい子だったから? だからいっしょにいられなくなっちゃったの? わるい子だったから、またまどのないへやに、つれていかれるの……?」
「違う。違うんだよ」
悲痛な叫びを上げながら、不安で胸が押しつぶされそうに震える小さな体を、膝を着いて抱きしめる。
「兄さんも姉さんもネウトが大切なんだ。大切だから、たとえ離れ離れになっても君を守ることを選んだんだよ。窓のない部屋になんか、もう二度と連れて行かせやしない。僕達が必ず君を守るから。だから……どうか僕達を信じてほしい」
「ごめん。ずっと良い子で待ってのに、私たちのためにこんなに綺麗な曲を弾いてくれたのに、それなのにさみしい思いをさせて、ごめんね……」
ルディスもまた、事の重大さに気付いたのだろう。ネウトの髪をやさしく撫でながら、詫びるように言葉を紡いで寄り添った。
彼はそれまで耐えていたぶん感情を爆発させるように、ササライの腕にしがみついて嗚咽を漏らし続けた。そして気の済むまで泣きじゃくった後、赤く染まった鼻をすすりながら強い意思を感じさせる声色で答えた。
「ねえさんといっしょにいく」
抱擁から解放された彼はぐしゃぐしゃになった顔を袖口で懸命に拭い、気丈に顔を上げる。
「にいさんにはおはなの大きなおじさんたちがいるけど、ねえさんはひとりぼっちになっちゃうでしょ。だからぼくがいっしょにいてあげるんだ。にいさんしってる? ひとりって、すごくさみしいんだよ」
「そうだね、ひとりの寂しさは兄さんもよく知ってるよ。お前は優しい子だね。……僕の自慢の弟だ」
初めて出会った時のように彼の両手を二人で取ると、そのよく知る温かさに何かがこみ上げてきて互いに笑みがこぼれた。
それから時間が来るまで、分かち合ったたくさんのことをひとつひとつ確認するように話しては笑いあい、これ以上離れないようにと強く手を繋いだ。
楽しかったこと。大変だったこと。残念だったこと。そして嬉しかったこと。
短い時間の中で共にした思い出は驚くほどたくさんあり、いくら時間があったとしても語り尽くせないほどだった。
それでも別れの時は、こちらの都合などお構いなしにおとずれる。
明日の儀式の準備の為に、今夜はスフィーナ家へと行くルディスを見送るべく玄関ホールへと移動すると、肌を撫でる冷気が扉から邸内へと流れ込んできた。
春が近づいてきたとはいえ、まだ雪が残る時期である。照明に照らされた一面の白の中、暗闇に吸い込まれるように一筋伸びる轍が、その先にあるクリスタルバレーへと続いている。
メイドに防寒着を着せてもらったネウトを待って外へと出ると、先に外に出ていたルディスは用意された馬車の横で執事と話しているところだった。
「お世話になりました」
「こちらこそ、ご一緒できて光栄でございました。貴女様の行く道が良きものであるようにと……ここで祈っております」
まるで娘の門出を祝う父のように、初老の執事は痛みを匂わせる優しげな微笑みをルディスに贈った。
内通の処罰として庭師を解雇した時に、屋敷の管理を任せている彼にも事のあらましは説明していた。だから彼は知っているのだ、庭師が何故この屋敷を去ったのかも、これからルディスが神殿に行くことも、そしてそれが苦難にあふれた道であることも。
必要以上の事は口にせず、ただ去る者の背中を押すように彼は馬車のドアを静かに開いた。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
必要最低限の荷物だけを持って馬車へと乗り込もうとするその背中が、これから手の届かない場所へと旅立ってしまう。
明日から彼女の姿をこの屋敷で見ることはもうないのだ。
またひとり、ササライの元から去って行ってしまう。
あと何度こんなことを繰り返せばいいというのか。
冷静な聖職者の顔を作って
上辺の祝福を祈り
そして平気なふりをして送り出す
置いていかれる痛みも伝えられずに
「待って」
今際の際にようやく現実味を帯びた喪失感に突き動かされ、思わず引き止める言葉が口をついて出ていた。
するとステップに足をかけようとしていた後ろ姿の動きを止まった。飾り気のない黒い髪を揺らしながら、ルディスが振り返る。
「なに? 忘れ物、あったかな」
「いや……そういう、わけでは……」
それ以上言葉が続かず、気まずい沈黙が下りる。どうして呼び止めてしまったのか自分でもよく分からなかった。
別れの挨拶はとっくに済ませている。今更かける言葉など、有りはしないのに。
彼女はしばらくそのままの体勢で言葉の続きをまっていたが、しばらくするとそれ以上の返答は得られないと判断したのか、馬車を降りてササライの目の前まで戻って来た。そしていつもと変わらぬ態度で口を開いた。
「おやすみなさい。また明日」
「ああ、おやすみ…… また明日」
やけにあっさりとした、とても彼女らしい別れの言葉だった。ネウトにも同様に就寝の挨拶をすると、今度は振り向かずに雪が掃き清められた土の上を進んでいく。
馬車の中から軽く振られた手が見えたのと同時に、待ちかねた御者が馬へ鞭を当てた。真っ直ぐに暗闇に向かって走りだした馬車は、ルディスを乗せてスフィーナ家へと発っていった。
「もう中に入ろう。風邪をひいては大変だよ」
馬車が見えなくなるまで轍の先を見つめていたネウトに声をかけると、もう少しだけ、と返ってくる。もう何もない夜の闇の先を、置いて行かれた者同士ただ何も言わず、しばらくの間目を逸らすことなく眺めていた。
「ササライ様」
静かな呼びかけに目を転じると、いつの間にか手の中に包みを抱えた執事が控えていた。
「こちらをお預かりしておりました」
「……これは?」
「はい。ルディス様よりササライ様への感謝の品、とのことでございます」
何もその場で開ける必要はなかったのかもしれない。だが差し出された包みを執事に待たせたまま、その場で開封する。紐を解き柔らかな包み紙が開かれると、素朴な風合いの手編みの膝掛けが姿を現した。
こんなものをいつの間に用意していたのだろうか。記憶を辿れば、以前ユーリに嗜みとして刺繍や編み物を習っているのだと、そう言っていた事が思い出された。
きっと今日に間に合うように、目の回るような日々の合間をぬって完成させたのだろう。
言葉よりも何よりも、形に残る感謝をササライに残そうとしたのだろうか。見るたびに、傍に居ることを感じることが出来るようにと。
彼の色彩と同じ白い息を吐きながら、ネウトが見上げてくる。
「にいさん、ないてるの?」
「……どうしてそう思うんだい」
「だって、すごくかなしいっておと、きこえるから……」
涙などとっくに枯れ果てた自分が、今どんな顔をしているのかなど、分かる筈もない。
しかし、彼には分かるのだろう、音の紋章の技を会得した者にだけ聴こえるという、人の心に流れる感情の音色が。
別れならば何度も経験してきた。だから今回も乗り越えられるはずだ。乗り越えなければ、先に進まなければ、ならない。失ったものたちに報いるためにも。
気の済んだ様子の少年と手を繋いで、暖かな光りの溢れる玄関ホールを目指して歩き出す。
「今日は僕と一緒に寝ようか」
「うーん……ぼくのおへやなら、いいよ?」
「兄さんの部屋じゃ駄目なのかい?」
「うん、びょうきになっちゃうかもしれないから入っちゃだめって、ねえさんが言ってたよ」
少し散らかっているだけだというのに、随分な言い草だと笑い飛ばしながら、弟の提案に同意した。
扉が閉じる瞬間後ろを見やると、ルディスを飲み込んだ闇がなにをするでもなく、ただそこに変わらぬ温度で広がっていた。
次第に細くなる光の線がやがて完全に消えたことを見届けると、両手に確かな温もりを感じながら屋敷の中を再び歩き出した。
円の宮殿の大聖堂は、光りに満ちていた。広く厳かな聖堂は全面に青いステンドグラスが張り巡らされており、その多くは円の紋章を称える意匠が散りばめられている。
式典のために人の出入りが制限された聖堂は貸切に近く、静けさと少し冷えた空気は祈りを捧げるのには良い環境だった。
紡ぐのは、今日送り出す者のための祈りだ。
信じるものは失って久しいが、願うのは何時だって、この手が届かない者達への庇護である。
後方から次第に近づく長靴の音が背後で止まると、目を開いて固く組んだ手を解いた。
「お時間です。参りましょう」
「……そうだね」
控えめなジュニアの催促は、どうもいつもの無遠慮な彼らしさを欠いている。どうやら今日は彼ですら冗談を言う余裕はないようだ。
祈りが終わると、ジュニアを連れて静かな聖堂の上階へと続く階段に進んだ。
本日執り行なわれる儀式では、この大聖堂の上にある大広間が使用される。内々の授与式であれば宮殿の一室を使用すれば事足りるのだが、これも神殿の命令の一部であったため、従ったかたちだ。
この場所は神殿に詰める神官であっても、普段は滅多に入れる場所ではない。神官将として度々祭事を執り行うササライでも足を踏み入れるのは、建国記念の式典時以来だろうか。
動くたびに複雑な装飾が施された神官将の正装が体に重くのしかかるが、袖を通せば、これから神殿の儀式が執り行なわれるという実感も湧いてくる。なるほど、どうやら正装とは、纏う者の心構えも正すものであるらしい。
物心ついた時から四六時中法衣ばかりを着ていたので、正装など「普段よりも重い服」というくらいの認識だったのだが、今度からは考えを少し改めることにしようと思う。
心境の変化が新しい発見に繋がることもある。関わった者たちからそう教えられたような気がした。
目的の部屋へと辿りつくと、かつての副官がササライを出迎えてくれた。
「ササライ様、ご機嫌麗しく……」
こちらの姿をみとめた彼女は身をかがめる。気心が知れた仲であるはずの自分にも、生真面目に一介の貴族として弁えた態度を示そうとする相手を立ち上がらせると、久々に顔を合わせた元部下と改めて向き合った。
「久しぶりだね、レナ」
数年ぶりに見たレナは、当たり前ではあるが記憶に残る近衛服ではなかった。しかしドレスではなくスーツを着たその姿は、昔から動きやすい格好を好む彼女に良く似合っており、スフィーナ家の当主として相応しい貫禄を帯びてきたようにも見える。
再会の挨拶を済ませると、年月を経てなお変わらぬ眼差しがササライを見下ろした。懐かしい感覚に、互いの顔に笑みが浮かぶ。
「問題はなかったかい」
「はい、万事滞りありません」
今日までルディスの世話全般を任せていた彼女には、本日執り行なわれる儀式の支度も一任していた。先に入ったルディスとラッシュも、既に控えの間でササライの到着を待っている手筈だ。
「よく働いてくれたね。きっと君以外には、この仕事は務まらなかったことだろう」
「ありがとうございます。身に余るお言葉です」
労いの言葉をかけると、胸に手を添えたレナはあの頃と同じように礼を返してくれた。
レナの案内に従いジュニアを連れて入室すると、おどけた口調の彼女の大甥の声が聞こえてくる。
「なーに、大丈夫さ。説法の真似は得意だろう?」
ルディスがクリスタルバレーに来たばかりの頃に、ラッシュに絡んできた近衛兵とちょっとした諍いを起こすという出来事があった。青年の言葉はおそらく、その時を指したものだろう。
ラッシュの身の上を馬鹿にした近衛兵達も、あの時に三等市民と罵った娘が地位を得ることになるとは思いもしなかっただろう。もしかしたら今頃は、やり返されるかもしれないと勝手に怯えて震えているのかもしれない。
円の宮殿に来た初日から問題行動を起こすその無鉄砲さも、今となっては懐かしい。思えば、自分のことは二の次で他人のために奔走してばかりの娘だった。手元に置けば退屈せずに済んだが、そんな騒々しい日々とも、これでお別れになるのだろう。
「寂しがってないかな」
「父が預っているのでしたら問題ありません。ああ見えて子供の扱いも慣れていますしね」
儀式の間ディオスに預かってもらっているネウトの事をルディスが心配すると、ジュニアは会心の笑みを返した。実の息子であるジュニアが父親をそんな風に評するのは少しだけ可笑しみも感じるが、安心して任せられる相手であることを保証した事には違いない。
そしてルディスは最後に控えの間に現れたササライに気が付くと、腰掛けていた椅子から静かに立ち上がった。
ハルモニアの象徴である青い法衣に、胸元には国章のモチーフ。神殿の侍女達の手によって美しく整えられた黒く艶のある髪には、神殿への献上品として彼女が作った青い花を加工した髪飾りが乗っている。
間違えようもなく目の前の人物は見慣れたルディスであるはすなのに、目に写る化粧を施し司祭の法衣を纏ったその姿は、まるで別人のようだった。
「祝福していただけますか、ササライ様」
そう穏やかな笑みで求められる。
静かに近づき、向かい合う。儀礼的に肩を抱くと、合わせる頬を替えて2度、抱擁を交わす。それは神官として生きる中で染み付いた動作だった。立場上、儀式を取り仕切る事も多い。その度に幾度と無く、心にもない祝福の言葉を新たなる同胞たちに贈ってきた。
手を取り踊った昨晩よりも、近い距離。しかし法衣の厚い布地に阻まれてその体温を感じる事は出来ない。残ったのは、僅かに掠めた頬の暖かさだけ。
「……きみに、円の紋章の祝福があらんことを……」
「ありがとうございます。閣下」
視界の端に映ったレナが複雑そうに目を伏せていた。相変わらず顔色を隠すのは苦手らしい。そういう素直なところが、彼女の好ましいところでもあるのだが。
「レナさん、お世話になりました」
「私からお教え出来る事はもうございません。ユーリとともに、貴女様のご活躍を祈っております……どうか立派にお務めください」
慣れ親しんだ面々と言葉を交わし終えたことを見届けると、覚悟を問うように声をかけた。
「行こうか」
「はい」
顔をそらさずに答えたルディスを先導するように、緩やかに開いた大広間へと繋がる扉に進んだ。
扉をくぐり抜けると、既に儀式に参加する神官達が我々の到着を待っていた。
しかし、その想像だにしなかった光景に息を飲み、目は釘付けとなった。
他の神官将達が壁を背に取り囲む部屋の中央。神官達の視線を浴びて佇む、見慣れぬひとりの人物の姿がそこにはあった。
ある外見的特徴を持つその人物は、ササライよりもずっと背が高い。
青年の姿をした現人神が振り返る。
陽光を透す白い髪に、青白いほどの白い肌。色が存在するのは、ごく薄く灰を帯びた瞳のみ。ハルモニアの聖職者の証である青い法衣のほかは、ただただ真っ白だった。
その姿を見て真っ先に浮かんだのは、今は副官に預けているたったひとり救い出せた”弟”の姿だった。
彼は地下牢の中では自分は失敗作と呼ばれていたのだと、そう教えてくれた。それは色素が薄く生まれてしまったがために外での活動が制限され、利用価値が低いと判断されたからなのだと、そう思っていた。
だが、それは思い違いだったのだ。
彼は陽の光の元で自由に動くことが出来ない欠陥までもが、本物とそっくりそのまま同じに生み出されてしまった。だから幽閉されていた。
神官長ヒクサクと同じすぎたがために、彼は失敗作と呼ばれたのだ。
この身と”弟”達の元になった、人間。
所定の位置に誘導する神官に声をかけられてようやく、自分が途中で立ち止まっていた事に気付いた。他の神官将同様己の立ち位置におさまるが体の力が入らず、こめかみから頬へと流れ落ちた汗を拭うことも出来ないまま、視線だけは縫いとめられたように部屋の中央を見詰め続けた。
目にした瞬間、本当にこの身が複製なのだと、理解してしまったのだ。
ルディスは部屋の中央に進んで件の人物の前に厳かに跪き、静かに言葉を待っている。
「最高司祭の証として、この杖を汝に与えん」
浮世離れをしているがどこか生気に欠けた男が、側役が差し出した杖を手に取りルディスへと授け渡した。
それを両手で受け取ったルディスは膝をついたまま、儀仗を縦に構え直す。そして掲げるように杖を真正面に立てて、予め教えられた宣誓の言葉を神官長ヒクサクへと捧げた。
「我が主、全てを統べる神官長ヒクサクさまのもとに、この身、この魂をゆだねることを喜びと感じます」
ヒクサクの元に下るのを選んだのはルディス自身だ。そして送り出すことを認めたのは、紛れもなくササライだった。
それでも。自分を無償で慕ってくれていた者が他者に、しかも叶わぬ存在である”父”に おもねる姿など、見たくはなかった。
どうしようもなく脆く暗い感情が内に渦巻き、同時に困惑が湧き起こる。
思えば自分は心の底から誰かを憎んだり、どうしようもなく羨んだりといった感情を抱いた事は今まで一度もなかったのかもしれない。
良く言えば処世術に長けていたと言えただろう。それは神殿という他者に弱みを見せられない環境で育った為であり、神官将となるべく受けた教育も関係しているのかもしれない。時には口さがない者に、人間味に欠けていると陰口を叩かれることもあった。
だが、愛してくれる者が居ない寂しさも、部下を死によって失った時の悲しみも。誰にも見せることは出来なくとも、そういった人としての当たり前の悲しみ、そして畏れや戸惑いを抱くことは、ササライにだってあったのだ。誰かを否定するほど深いものではないとしても。
例えばそれが、正規軍の指揮官として戦場で対峙する敵軍であったとしても、ササライの邪魔立てを企む愚かしい政敵であったとしても同じだった。容赦なくねじ伏せる必要がある時ほど心は乱れのない湖面のように静謐で、憐れみはあれど、相手を深く憎む気持ちなど抱いたことは一度もなかった。
それは敵対する者達にも彼等なりの理由があり、自分にも譲れない理由があるからだと、どこかで割り切っていたからだろう。
ルックに〈真の土の紋章〉を奪われたですら時も、最初に生まれた怒りは次第に困惑へと変わり、最後に残ったのは一生埋まることのない喪失感だった。
それなのに。
こんなにも誰かを否定する感情が己の中に有るなんて知らなかった。
望んで庇護の対象にしていた者までもを疎ましく思い、批判する感情が消えない。目の前で行われている光景がどんな裏切りよりも非道いと感じるのは、ササライの独りよがりなのだろうか。
知りたくなどなかった。こんな醜く、理解しがたい感情など。
儀礼的な授与が滞り無く修了すると、神官長ヒクサクは顔色ひとつ変えずにバルコニーへと歩を進めた。
大広間から外に張り出す造りのバルコニーは神殿の外にある中央広場に面しており、神官長ヒクサクと付き従うルディスが同時に姿を表すと、集まっているであろう民衆のざわめきが部屋の中まで聞こえてきた。
まだ寒さの残る初春の空に穏やかにそよぐ風が、円の紋章が描かれた幾つもの国旗を揺らしている。
おもむろに神官長ヒクサクの白い右手が正面へと翳されると、人々の間には感嘆の声が上がった。
「真の紋章を掲げよ」
風にのってササライの耳へと運ばれた男の声は、確かにそう聞こえた。
こちらからは後ろ姿しか確認できないルディスは一拍の間を置いたあと、その言葉に従うように左手を持ち上げた。
「かつてサナディアより真の紋章を持ち帰った忠義の民は、今や神官将となった」
突然、式典の進行を任せられている神官将のひとりが前に出て、外の群衆へ言い聞かせるように声を張り上げた。
「そして此度、この者は下賤の生まれでありながら真の紋章を手にし、最高司祭の地位を賜った。これは、真の紋章を持ち帰りし功績を嘉してのものである!」
品性を疑う内容を大声で言い始めた男の言葉に耳を疑うが、誰も彼を止める気配はない。
「出自や身分は問わない! 三等市民であれば、二等市民に。二等市民であれば、一等市民に。それ以上の物を望むのも良いだろう。忠誠を誓いし臣民には、民族全体に富を与えるとのお言葉である!」
過激さを増す発言の内容に驚くが、一度始まってしまった儀式を止めることはもう出来ない。
「真の紋章を持ち帰り供する信仰深き者は、必ずや望むものを手に入れることだろう!!」
それまでしんと静まり返っていた空気が塗り変わり、熱気を帯びた歓声が一斉に沸き立った。神官長ヒクサクの傍らでは、眼の色を変えて色めき立つ群衆の歓呼をあびる背中が、自分の晒された状況に耐えるように必死に手に杖を握りしめていた。
その時、自分達が絡め取られたものが何であるのかを、やっと理解することができた。
これは扇動だ。現実から目を背けさせ、得られる利益のみを見せて夢見させる。
27すべての真の紋章をハルモニアが手に入れるまでに、一体どれほどの民の血が大地に流れるのというのか。
不思議だった。ただ手元に置いて逃がさないというならば、生かさず殺さず閉じ込めておくのが神殿のやり方だと。年端もいかぬ子供を魔道具扱いし、牢に押し込めることも躊躇わない彼等のする事ならば、むしろその方が自然というものだろう。
突然、古びた何の意味もない官位を与えるなど言い出したのは。
表舞台に立たせ顕職を授け、忠誠を誓わせたのは。
明らかに特権階級ではない容姿を持つルディスが神官長ヒクサクに寵愛を受けている姿を見せるためだったのだ。
誰でもあっても栄誉を享受できるという神殿の言葉が嘘ではないと、示して見せるための傀儡として。
状況のすべては分からずとも、道具として利用された状況には気付いたのだろう。屋根の下に戻ったルディスは呆然と立ち尽くし、次に力なくヒクサクを見上げた。
「お前は役目を果たした。発言を許そう」
「今の行為に、どのような意味があったのでしょうか」
長手袋が外された左手の甲を見つめながら力なく発せられた問いに、ヒクサクは感情の起伏を感じ取れない声で答えた。
「鼠どもに啓示を与えたのだ」
「仰る意味が……分かりかねます」
「いずれ分かろう」
神官長ヒクサクは窓の形に切り取られた空を眩しげに見つめた後、思い出したようにルディスを見下ろし、再度口を開いた。
「音叉の器が気に入ったそうだな。 叙位の祝いにくれてやろう」
まるで愛玩動物を与えるかのように告げられたそれが、ネウトを指した言葉なのだと気付いたのは数瞬の後だった。
ずっと疑問だった。神官長ヒクサクが自分たちを、己の複製たちを……どう思っているのか。その答えは、今しがたヒクサク本人の口から出たその言葉がすべてを物語っていた。
ササライをこの聖堂に安置された銅像とでも認識しているかのように、神官長ヒクサクはこちらに一瞥の視線も寄越そうとはしない。
訊けば己の存在が根底から否定されてしまうのではないかと、そんな気すらしていた。だからそれを知ってしまうのは恐ろしくもあったのだ。
これまでの事を繋ぎ合わせれば、彼が複製たちに特別な感情など抱いてはいないのだろうという事は、初めから分かっていたというのに。
「それには及びません、猊下」
するとルディスは先程の失意を顕にした様子から一転、固く杖を握り直して声を上げた。
「ハルモニアの臣民となった記念すべきこの日に、〈円の紋章〉のご慈悲を賜ることがもし許されるならば……どうか、わたくしのささやかな願いをお聞き届けくださいませ」
「申してみよ」
思い通りに事が運んだことに気を良くしたのか、難色を示すことなくヒクサクはルディスの言葉を促した。
「猊下のうつし身であらせられる神官将ササライ様。そしてその弟君のネウト様。おふたりがヒクサク様の実子であることをお認めになり、公知の事柄として知らしめて頂きたいのです」
まるでこの場で起こるすべてが遠い場所の出来事のようにすら錯覚していた時に、己の名が飛び出て引き戻された。他の神官将たちが、表面上は平静を装いながらも驚き真偽を伺うような視線をこちらに投げかけてくる。
帰属を求められた時の話し合いで彼女は言っていた。
『私だけでなく、あの子にも一等市民の身分をくれるように頼む。それから神官長ヒクサクにも公に存在を認めさせたい。もう不当な扱いなんてされないように』
一等市民の身分を認めさせただけでは守るには不十分だと感じたのだろう。だがまさかそれが、ササライをも指した言葉だとは思いもしなかった。
ルディスにササライが実子であると、嘘の情報を教えたのはヒクサクである。もちろんルディスは、ササライ達がヒクサクの実子などではないことを知っている。
彼女が真の紋章の封印球と接触した際に真実を知った可能性を、神殿ももちろん考慮しているだろう。意図したものかは分からないが、この懇願は神殿にとっては脅迫としての一面を持っている。
つまり彼女は、嘘を真にしろと言っているのだ。
「……それがお前の望みか」
「わたくしの望みはそれだけです」
一貫して感情の読み取れなかった神官長の様子に、初めて変化が浮かんだ。興がそがれたようにルディスの横をすり抜けると、すれ違いざま答える。
「好きにするがいい」
それ以上言葉を発することなく、神官長ヒクサクは宮殿の中へと続く扉の向こうへ立ち去った。
大広間を支配していた張り詰めていた空気が消えたと同時に、残された神官達の冷めた視線が中央に立つルディスへと降り注いだ。彼等はこう考えているのだろう。不躾な新参者が、せっかく数十年ぶりに姿を表した神官長の不興を買ってしまったと。
しかし操られながらも一矢報いたその横顔は、もう不安気に曇ることなく前を見ていた。
「新たなる最高司祭に祝福を!!」
高らかに響く神官達の唱和に呼応するかのように、大聖堂の塔を彩る鐘楼が一斉に鳴り響いていた。
*
こんな風にひとり物思いにふけるのは、いつぶりだろうか。
ネウトはルディスの元に送り届け、ルディスはすでに神殿が帰る場所になった。
レナは護衛の任務から解放されたラッシュと共に帰し、今日は式典が最も大きな仕事だったため、既にディオス達も帰宅していた。
近衛にはこちらから呼ぶまで人を入れないように申し付けたので、他の神官将たちも今日だけは放っておいてくれることだろう。
帰りを待つ者も居ない。
そして気付けば、執務室に居るのはいつの間にかササライひとりになっていた。
「僭越ながら、先ほどからお召になる量が少々多いように見えますが……」
誰もいなくなった執務室に響いた声に顔を上げる。日が落ちた空を写す窓を見上げると案の定、予想どおりの人物が窓枠に腰かけていた。
見慣れた緑のハーフコートを愛用するこの男は、ササライが抱えている優秀な諜報員だった。
見ていたならば、もっと早く声をかけるべきではないのか。いつもは気にも止めない男の悪い癖に今日は苛立ちを覚えてしまう。
「少しぐらい飲んだって、かまわないだろう」
そう返しながら、テーブルの上を占領していた数本の空の瓶を億劫そうに脇へと追いやった。
今日の儀式のために働いた神殿関係者には、明日一日の休暇を与えられている。咎められる理由などない。仕事に差し支える心配をせずとも良いし、何より今は飲みたい気分だったのだ。
気付けばすぐ傍まで近づいていた諜報員の男は、責めるでもなく気遣わしげに微笑を浮かべたまま、まだ中身の入っていた一本を探し当てて手に取った。
「ご相伴に与ってもよろしいですか?」
「……好きにすればいいさ」
投げやりなササライの返答を受け取ると、男は棚からグラスを一脚取り出して瓶の中身を注いだ。そのあとはソファへは腰かけることはせず、ササライの後方へと進むと背中合わせのかたちで背もたれに体を預ける。
「収穫は?」
ササライがぽつりと問いかける。
「少し前に指示された、例の身元調査の件ですが……」
「それについては打ち切るとすでに伝えたはずだよ」
「本当によろしいのですか?」
「……やけにひっかかるじゃないか。何か新しいことでも分かったのかい」
「いえ……。これは私の感ですが、何やらきな臭いものも感じますので……」
「もう過ぎたことだ」
はっきりとしない物言いを切り捨てると、葡萄酒で渇いた喉を潤した。
状況は変わってしまった。どんな出自でも迎え入れるつもりだったが、それもすべて、今では過去の憂慮に過ぎなかった。
今ルディスの事で頭を悩ませるのは、気が進まなかった。胸の内に残るわだかまりから逃げるように話題を切り替える。
「報告では、いくつか面白い顔もあったようだね」
「本日の儀式は他国の賓客を招いてはいませんでしたからね、先方の方から、わざわざお忍びでお越しくださったようです。見覚えのある姿も群衆の中でいくつか見かけました」
「想定の範囲内だね。接触は?」
「いいえ。商人風のゼクセン人やティント人、トランの忍びに、デュナンの影……。群島諸国やファレナの密偵と思われる者まで、選り取りみどりといった具合でした」
男はまるで、ちょっと旧友に会ってきたとでも言うかのように語ると、酒の香りを楽しみながら杯を揺らす。
次に問うべきは最も重く、気の進まない質問だ。躊躇した言葉を暫しの沈黙のあと、声にした。
「……今日の式典、君自身はどう感じた」
「私は元々民衆派の出でもありますし、あの方にこれといった特別な感情は持ちあわせておりませんが、ですが……もしササライ様がお年を重ねられたのならば、あのようになられる未来もあるのかもしれないと、そう思いましたよ」
「………そうか」
歯切れの悪い態度を返したササライを気遣ったのか、男は言い直すように告げる。
「永く表舞台から遠ざかっていた法王を引きずり出した。それだけは功績として認めてもよろしいと思われます。ササライ様のイライザは立派に務めを果たされた」
男は軽い口調で言い切り、血のように赤い葡萄酒を喉に流しこんだ。
「次の任務は決まり次第伝えよう。ご苦労だったね」
報告の終わりを告げても動き出そうとしない諜報員の男を振り向くと、愛想笑いとともにこんな台詞を吐いた。
「もう少しお付き合いいたしますよ」
「君はいつまで、ここにいるつもりだい」
「はは……それが、カミさんの機嫌を損ねてしまいまして。しばらく帰ってくるなと言われているんですよ」
だからと言って、何故ササライの元に居座るつもりなのか。
「帰る家ならばあるだろう。まだラトキエ家に戻るつもりはないのか?」
「何度も申し上げたとおり、私はあの家には帰れません。もう以前の私ではありませんから」
「甥の顔ぐらいは見たんだろう」
「……ええ、まあ。随分大きくなりましたね」
何とも言えない複雑そうな顔で、ナッシュ・ラトキエはグラスに残っていた上等な酒をすべて喉に流し入れて溜息を天に吐き出した。
今日の式典で別人のように着飾ったルディスを目にして最も堪えていたのは、クリスタルバレーに来てから片時も離れず側にいたラッシュだったのかもしれない。法衣姿を「見違えたぜ。これが馬子にも衣装ってやつだな」とからかいながらも、もしも自分に妹が居たなら、嫁に行ってしまう時はこんな気持ちなのかもしれないと寂しげな顔で語る姿が印象的だった。
その哀愁を感じさせる姿は、ラトキエ家が没落した時にすれ違ってしまったナッシュとユーリを思い出させた。
「帰りを待つ者も居ない同士、飲み明かしましょう。こんな夜ですから」
一緒にされても困るが、今だけは上司をひとりにしまいと気遣ってくれる部下の厚意を、気づかぬフリで受け取る事にした。
否定してしまえば余計虚しさが募るだけだろう。
本当に待つ者が居ないのは、ササライの方なのだから。
2015年02月05日初稿作成
2020年07月01日サイト移転