Ⅸ ハルモニアの子
豊かな実りの秋はラトキエ家で過ごした。
静かで優しい冬はササライの膝元で。
そしてこれから始まるのは春。新たなる季節だ。
神殿に移ってからの大きな変化といえば、奥神殿の一室を自室として与えられたこと、身の回りを手伝ってくれる数名の侍女が付いたこと、そしてまだ少ないが、神殿の指示する仕事をこなさなければならないことだろう。
毎日お仕着せさせられる青い法衣だけを見れば、自分も今や立派なハルモニアの聖職者に見えるのかもしれない。
しかし、一見厳かな法衣の下で体を締め付けるコルセットは、本当に人が身につける前提で作られた物なのかを疑う酷い着心地で、今なら固く絞られた雑巾の気持ちも理解出来そうだった。
それに生まれ持った黒い髪は金髪の中では目立ってしまうが、そう簡単に変えることは出来ないし、変えたいとも思ってはいない。この国では何かと差別の対象になりうる髪の色も、何もかもが与えられ決められてしまう神殿の中では、今では自分が自分である証明のようにも思えていた。
すべてが変わってしまったあの日を、何度も思い出す。
官位の授与の儀式で初めて目にした神官長ヒクサクの姿は、ササライ似ていた。真っ白な色彩の印象も合わせたなら、より似ているのはネウトとも言えるのかもしれない。
だがササライが持つ相手を気遣う笑顔も、弱い者に対する寛大さも、少なくともあの場でヒクサクから感じることは無かった。当たり前かもしれないが、やはり彼らは別人なのだろう。
それにヒクサク本人がどうこうというよりも、少年の面影の消えた精悍な顔つきにササライに重ねあわせては、成長した彼の姿をどうしても想像してしまう。もっとも、年相応というならばもっとおじさんになるのだろうけれど。
家恋しさだろうか。離れてからの方が頻繁にササライの事を考えている。
とにかく、これで当面の身の保証はされたと判断しても良いのだろう。身の安全が保証されれば、今度はこれからどうするかを考えなければ。もし何をしたいのかと問われれば、ずっと胸の奥に仕舞っていたひとつの思いがあった。
たとえ仮初であったとしても地位を与えられた事には違いない。今まで遠くから見るばかりで何も出来なかった三等市民の孤児たちに、今度こそ手を差し伸べることが出来るかもしれない。
まだ具体的にどうするかは決まっていないが、まずはとにかく与えられた仕事をして、自由に行動できるほど認められるように頑張ろう。
やる気に満ち溢れた今なら、何だって出来るような気がする。今日はこれから神殿の指示である場所に行かなければならないが、数日ぶりにササライにだって会えるのだから。
そうしてまだ見ぬ希望を胸にたどり着いたルディスを招き入れるかのように、宮殿の最上階にある会議室の扉は開かれたのだった。
*
案内された一室に足を踏み入れると、ホールと呼べるほど大きな部屋の中には既に二十人に満たない神官と、その部下たちが集まっていた。
どうやらここは、特別な会議にのみ使用する場所のようで、円形の広間の中心に大きな卓が備え付けてある。白く大きな天板のラインは弧を描いて途切れること無く繋がっており、上から見下ろせばちょうど真円に見えるだろう。
このハルモニアの最高会議である円卓会議には、11の席が設けられている。10席はハルモニアを支える10本の柱、すなわち神官将たちの席だが、内2席は現在空席となっていた。
ひとつは、10年前に『仮面の神官将』と呼ばれた男へ与えられていた席である。その神官将は謀反の疑いがかけられたまま戦死したため、事実上10年間空席になっている曰く付きの席とのことだった。
もうひとつは、近年急逝した神官将に与えられていた席だ。その神官は元々かなりの高齢であったため、後任の者も決まらぬままに病気で亡くなられたのだと説明があった。『仮面の神官将』の席とは違い、こちらの空席は一時的なものになるだろうという共通認識があるようだ。
議題の可決においては席数は奇数の方が都合が良いということもあり、現在は9席の体勢でおさまっているとの事だった。もっとも、すべての神官将が存命だった時代でも、ここ数十年は11の席全て埋まる事はなかったという。
円の紋章が描かれた、鮮やかな青の御旗を背にする第一席。円卓の正面に鎮座するその椅子は、神官長ヒクサクが座するためのものである。
しかしヒクサクは、ハルモニアの最高会議であるこの円卓会議にすら数十年間姿を出さず、その間、この国家の最高意思決定機関は神官将たちのみで執り行なわれていたという。
そして今回も、そこにヒクサクの姿は無い。代わりに今日神官将達と顔を突き合わせてその席に座っているのはルディスだった。今日神殿から下された指示は、この会議に代理として出席し、その報告を献上せよ、というものだった。
報告と言っても、記録を取ってくれる補佐官はちゃんと別に居るので会議中せわしなく羽ペンを動かす必要はない。だた座っている以外に何をすれば良いのか、今のところさっぱり検討がつかない。とりあえず出された茶をすすりながら、新参者らしく大人しく様子を伺うことにした。
卓上を見回せば顔ぶれは様々ながら、以前ササライが着ていたものと同じ神官将の正装を纏った老若男女が、着席して粛々と会議の始まりを待っている。神官将とはササライのような年齢を経た男性ばかりが就くものかと勝手に思っていたので、年若い者や女性も居るのは少し意外だった。
ちょうど真向かいの席に、そのササライが座っているのが見えた。彼の後ろに控えている副官はディオスだろう。知らない顔ばかりの中で親しい人の姿を見つけてホッとしてしまった自分は、案外小心者なのかもしれない。彼の執務室で雑用係をしていたのはほんの数ヶ月前の出来事なのに、まるで随分昔の事のように思えた。
「各々がた、お早いお揃いで。ふあぁ……」
最後に会議室姿を表した少年神官が軽いあくびとともに入室すると、他の神官将たちが歎息をもらした。
「我々が早いのではなく、貴卿が大物なのでは?」
「お褒めに預かり幸栄です。いや、大切な用件があったものでね」
「……かまわん、時間までに全員が円卓の座についておればそれで良いのだ」
悪びれる様子もなく足取り鈍く席についた歳若い神官将を、周りは半ば諦め気味に迎え入れているようにも見える。勝手気ままな振る舞いはいつもの事、とでも言いたげだった。
「どうやら揃いましたな。では此度も、円卓会議の幕を上げると致しましょう」
この中では年長にあたると思われる老紳士の神官将が、その場に居るすべての者に聞こえるように声を張り上げた。彼が今回の進行役といったところだろうか。
「では今回の主題をフュルスト卿からお聞かせ願いましょう」
名前を呼ばれた品の良い老婦人が小さく頷くのが見えた。そして女性らしい柔らかな良く通る声で話し始める。
「先日北部で行われた山賊の討伐についてですが……中心となり働いた部隊に払われた報酬が、十分とは言えないものだったのではないかと一部からは声が上がっております。北部辺境軍の司令官として作戦に参加されたヘルツォーク卿、何かこの件についてございますか?」
一同の視線の先に座る男が、煩わしそうに鼻を鳴らして答えた。
「件の戦いで主力として戦った兵の多くは、徴収された三等市民。ならば報酬が正規兵に比べて些か控えめなものであったとしても、致し方ない部分もありましょう」
その隣に座る細面の男が、口元を歪めて同意する。
「如何にも。あの辺りの三等市民の民族はたしか……ハルモニアの民となってから、まだ数十年といったところでしたな。たったそれだけしか仕えていないにも関わらず、取り立てて欲しいなどとよく言えたもの。まったく、蛮族は身の程というものを弁えぬものですな」
「まったく仰る通り……。しかし、もしも先日のお触れを真に受けた三等市民が真の紋章を持ち帰ることなどあれば、この円卓会議もそのうち場末の酒場のように様々な色の者達が溢れかえる有様になるやもしれませぬな」
発言のあと、ヘルツォークと呼ばれた神官将はわずかに薄笑を浮かべてこちらに視線を向けた。わざとらしく神妙な顔つきで顎をさする顔つきは、さながらそれが国家を揺るがす深刻な問題だと言いたげだ。
「今の発言は少々言葉が過ぎるのではありませんか? グラーフ卿。過去の遺恨はどうあれ、彼等も今は我が国の民なのですよ」
「戦場にあっては一等市民も三等市民もない、その戦力のみを考慮せよ……でありますな」
質疑を投げかけた老婦人が難色を浮かべれば、体格の良い男がそれに賛同を示して軍律を口にした。
日頃から特別意識を振りかざしている貴族達が、戦場でも地位を傘に着て横暴な態度を改めない姿は想像に難くない。ササライやディオスを見ればそんな輩ばかりではないのも分かるが、徹底されているとも言えないのが現状なのだろう。
「報告書によれば、先鋒部隊で作戦指揮を執った参謀官は我が門下出身の者でした。作戦内容も実に理にかなったものであり、被害を最小限に止めたものであったと言えましょう。報奨とは被害を補填する意味合いも持つものです。今回に限っては、総合的に鑑みれば妥当な待遇とも言えるのでは? 望むままに与えるばかりが慈悲でもありますまい」
「貴殿の私塾が輩出した軍師が我が国の繁栄に貢献をなさっている事は、誰もが認めるところにございましょう。ソレッド卿」
片眼鏡を身につけた知的な男性が発言する。合理的な対処を提案する内容に、初老の紳士が納得を表す肯定の言葉を重ねた。
「では……今回の山賊討伐の任に関する報奨は妥当なものであった、という結論で異論はございませんな」
穏やかな問いかけに異議を唱える者は居なかった。沈黙がその場に居る者達の総意を表している。結局、三等市民に対する報奨の内容は変えないという結論に達したようだった。
「報奨といえば……かの英雄戦争では多くの代償を払ったにも関わらず、報奨が納得のゆくものではなかったと、西方領主の貴族達の口からは未だに漏れ聞こえてくるのはご存知ですかな?」
「またそのお話ですか? ヘル卿」
以前も何度か会議で持ち上がった話なのだろうか。言葉通り「またか」と言わんばかりに顔に呆れの色を乗せながら、老婦人は眉をひそめた。
発言した当人である最年少の神官将は、そんな周りの反応を意にも介さず、背中を丸めて机を指の先で鳴らしながら更に続ける。
「いえ、あの遠征に今更異を唱える気など、わたしには露ほどにもないのですよ。ですがなんでも、本来優先しなければならない本国の民を差し置いて三等市民の蟲使いの村に自治権を与えようなどと、優遇とも取れる扱いをなされていると小耳に挟んだものでしてね……」
英雄戦争。ササライの荘園で世話になっていた時に聞きかじった単語だ。たしか遠征軍の総司令官を、ササライが務めていたのだと聞いている。10年前の休戦協定切れに端を発した戦で、ハルモニアがグラスランドに侵攻したが失敗に終わっている。そして仮面の神官将ルックが謀を巡らせ、命を落としたのも英雄戦争。どうやらササライと縁の深い一件のようだ。
それまで静かに他の神官将の声に耳を傾けていたササライが、水を向けられ初めて口を開いた。
「ルビークの民は、かつて属していたグラスランドを前にしてもハルモニアに確かな忠誠心を示しました。温情を与えるのは、ひとえに彼らの働きを評価すればこそ。そしてあの戦については、グラスランド・ゼクセン両国に潜んでいた真の紋章を炙り出せた事が大きな功績だったと、既に結論は出ています」
「左様。だからこそ不可侵条約の再締結を見送り、表面上国交を結んで監視を続けているのです。我が国がその力を存分に振るえば、地方蛮族の国のひとつやふたつ、いつでも容易く制圧できるのですから。それを事あるごとに持ち出し、まるで遠征軍司令官を務めていたササライ卿を批判するような発言を繰り返せば、貴殿の名にこそ傷がつきまするぞ」
ササライを援護するように言葉を続けたのは、またもや老婦人の神官将だ。
すでに決着を見た論争を重ねる同胞を見兼ねたのだろうか。若者の暴走をたしなめるように口を挟んだ。
「それにあの遠征が思わぬ方向へと進んだのは、当時着任したばかりの神官将の独断が原因だったはず。言わば、我が国の内部より出てしまった逆臣の凶行だったとも言えましょう。今やその名も口にする者はおりませんが……確か、仮面の神官将といいましたかな。思えば、仮面の神官将の就任をあの時いち早く歓迎されたのは貴殿でしたな。ヘルツォーク殿」
「おお、謂れなき誹謗とは正にこの事。それこそ今ならば何とでも言えるのでは」
軍師ソレッドが大元の問題に斬り込む発言を繰り出せば、細面の男が大袈裟に否定を口にする。
「ヒクサク様のお言葉とあらば、それに従うのは神官将たる我々の当然の責務……。やれ名を明かさぬのは無礼だの、顔を隠すとは臣民に背く行為だの、我々下々の者の至らぬ解釈でそれを否定するなどあってはならないのは、論ずるまでもありますまい。命を受けた者が後に暴走に至ったからとて、矛先を曲げて批判を口にするなどヒクサク様を批判すると同意義とも取れる言葉ですぞ」
ササライに変わって槍玉にあげられたヘルツォークは、焦る素振りも見せずに言葉を返した。もっともらしくこの場に居ない神官長の名を盾に批難を逸らすその姿を見ると、ヒクサクへの忠誠心の真偽は置いておくにしても、この男、面の皮の厚さは本物であるに違いない。
「そう語気を強くされるな。そのような飛躍した答えに直結してしまうのは、貴殿の忠誠心の高さゆえのものなのだろうが……滅多な事を申されるでない」
同胞たちの押し問答には飽き飽きだと顔に書いた強面の神官将の言葉は、苦々しい。無愛想な顔を崩さぬまま、不穏な空気を片手で追い払った。
「北も西も平定には期を見る必要がありましょう。やはり当面考えなければならないのは、南……ですかな」
「デュナン一帯は、長い間抱えていた〈始まりの紋章〉の闘争という火種がなくなって十分な時間が過ぎています。力を付け過ぎる前に叩くのは賛成ではありますが……」
「あのハイイースト動乱で負った痛手を忘れてはなりますまい。次こそは、同じ轍を踏むわけにはいかぬゆえ」
「デュナンは、アールスの地……今はトラン共和国、でしたかな? かつてハルモニアの一地方だった南方と同盟関係でもあります。事は慎重に進めるのが得策でしょう」
「しかし軍部内ではまた、元ハイランド貴族どもがルルノイエ奪還の嘆願書が出したとか」
「奴ら、その事しかまるで頭に無いらしいな。よく飽きぬものだ」
「彼等は威勢は良いのですが、些か行動が目に余りますね。ヒクサク様のご慈悲で我が国の二等市民になれた身でありながら、勝手な行動をさせるわけには……」
議題は発展をみせて周辺国すべての話におよびつつあった。
彼等の話を聞いていると、段々と言い様のない不安が腹の中に溜まっていく。
さっきから戦の話ばかりだ。
直接真の紋章の収集に関わるわけでもない国もあるのに、何故こんなに周りの国と争う必要があるのだろうか。それにまたデュナンで小競り合いが起きれば、ジルとピリカが巻き込まれる危険だってある。戦争なんて、無い方が良いだろうに。
「しかし、ヒクサク様のお名前を聞くとやはり思わずにはいられませんな。本日こそは、心待ちにしておりました敬愛なる神官長閣下がご来臨下さるものとばかり……」
彼らにとってみれば今日は、長らく生死も不明だった建国の英雄が自分たちに直接言葉をくれる記念すべき日となるはずだったのだろう。しかし実際に現れたのは、先日成り上がったばかりの小娘だった。拍子抜けもいいところに違いない。
「案ずる必要はありますまい。我々はただ、あのお方のご威光に忠実に従えば良いのだ」
「とはいえ、そこにおられるルディス殿が我々に明らかにされた真実に驚かなかった者は、この中には居ないはず。ササライ殿がヒクサク様のお子であらせられたとは……。なるほど、生まれながらの神官将というのも頷けますな」
「しかし水くさい。お話ししてくださっても良かったのですよ? 同じ位を拝して、国を憂う同志ではありませんか」
「いや、これでササライ殿は非公式の庶子から嫡男になられたのだ。喜ばしいことではないか」
口々に意見を浴びせる神官将たちを横目に、当のササライは肯定も否定も口にすることなく、ただ静かに目を伏せて嵐が通り過ぎるのを待っている。
祝福、嫉妬、困惑。彼らの瞳の奥に秘める色は唇から生まれる言葉とは裏腹のように見える。本心はうまく隠されているようだが、ひとりひとりの反応は異なり 、それが好意的なものばかりでは無いことも一目で分かった。
神官長ヒクサクと血の繋がりがあるというのは、もしかしてルディスが思うよりも大きな問題なのだろうか。
官位の授与式で発せされたヒクサクの冷たい物言いはルディスに憤りを抱かせた一方、彼等兄弟の特異な出生が非情に繊細な問題であることを思い知らされた言葉でもあった。
ディオスやルディスなどは出生に関わらず彼等を大切に思っているが、知れば好意的には取らない者も居るのだという現実を突きつけられた出来事だった。常人とは違う生まれを持つ彼らが人の世ではどういった扱いを受けるのかは、まだ分からない。だからこそ、真実をそのまま公表させるのは避けたかった。
皮肉な事だと思った。以前ササライに偉そうに「嘘が本当になることが悲しい」と語った自分が、今度は誰かを守るために嘘を使っている。迷いは捨てられないが、手を汚す決意なら帰属を決めた時にもう済んでいる。大切な人たちを守るためならば、多少の嘘も飲みこもう。
だが、ヒクサクの実子であると嘘をついた結果、ササライ達に思いもよらぬしわ寄せが来るのではないだろうか。
きちんと考えた末の案だったが、ネウトを侮辱されてカッとなり口をついて出た感は否定できない。あのやり方で、本当に良かったのだろうか……。
「では最後となりましたがルディス殿、何かございますか?」
終始穏やかな口調でササライを擁護していた老婦人の神官将が、優しげな顔で言葉をかけてくれた。
口を挟む隙もない言葉の応酬にただ飲み込まれていたこちらを気遣ってくれたのだろうか。もしくは、建前上神官長ヒクサクの代理として会議に出席しているので、一応声をかけてくれたのかもしれない。
「質問させて頂いてもよろしいでしょうか」
「ええもちろんですわ。如何なさいました?」
「階級とは、それほどまでに順守しなければならないものなのでしょうか?」
興味などなさそうに視線を外していた神官たちの様子が変化したのは、その時だった。卓上に並んだ青や緑の色鮮やかな16の瞳がルディスへと一斉に降り注ぐ。
「私は身分を持たずにクリスタルバレーに来ました。二等市民の家で過ごし、今は一等市民の地位を授かりここおります。ですがどれも私であることに変わりはありません。それに今まで会ったどの階級の人々にも、違いはないように見えました。数字を割り振って待遇に差をつけることが、そんなに大切なのでしょうか」
「ルディス殿……」
「面白い事を仰いますな。して、この会議にそれはどのように関係しているのですかな?」
老婦人が少し困ったような表情で何かを言おうとしたが、それをかき消すヘルツォークの声が広間に反響した。
「はい。今回の議事では戦での三等市民への待遇に触れていましたが、平時も彼等に目を向けるべきではないでしょうか」
「何か誤解をしておられるようだが、我々は何も彼等に無理強いをしているわけではありませんよ。きちんと代表を務める者の賛同を得て、待遇を決めているのです」
先程まで会議を纏め上げていた老紳士の神官将が、穏やかな声色で答えた。
「不満の声は上がっていないのですか?」
「ハルモニアの教育を受けた者ならば、この国の法の素晴らしさを理解できない者はいないでしょう」
続けて、ソレッドが知性を宿した瞳を向けてくる。
「しかし、孤児や亜人奴隷といった不遇の者たちも……」
「それはハルモニアに逆らった哀れな者たちの末路というものです。ああ、我が国では亜人に人権は認めておりません。何しろ人間ではありませんからな」
会議の間ヘルツォークのご機嫌ばかり取っていた神経質そうな男が、当然とばかりに吐き捨てた。
「まるで神殿に紛れ込んでしまった町娘のような質問でしたなぁ。まあ、今のところ何の権限もお持ちではないのですから、仕方がないのやもしれませんが。しかし次までに今少しお勉強して頂きませんとな」
嘲笑われ、片手で追い払われて、次第に顔が熱くなっていくのを自覚した。
まっくた相手にされていない。
「無理に話を理解していただく必要もあるまい。ヒクサク様が判断を下され登庸されたのだ。我々もそれに従うのみである」
神官というよりも軍人と言われた方がしっくりくるほどがっしりとした体躯の男が、こちらも見ずに告げた。
突き放すような言葉の節々から、嫌でも伝わってくる。成り上がりの卑しい血筋の者が此処に居るのは仕方がない。置き物か何かだと思えば、気も静まる。
だが口出しされるのは我慢ならない。黙って座っていろ、と。
部屋の中にはたくさんの人が居るのに、まるで急にたった一人になってしまったような心細さが襲ってくる。無意識だった。不安に駆られて、気付けば思わず縋るように真正面に座るササライを見ていた。
しかし彼は何も口にすることなく、ただ先程までと同じように静かに翠玉の瞳を伏せるだけだった。
自分は何を期待していたのだろう。もうササライは庇護者じゃない、これからは失敗も挫折も、自分の名前で受け止めなくてはならないのに。
長きに渡り貢献してきた高位の司祭たちの中には、ルディスが最高司祭に就くのを未だ納得していない者も多いと聞く。いやしい成り上がり者などより、もっと相応しい者が居るのではないのか。そんな陰口もどうしても聞こえてくる。
ある程度覚悟はしていたが、実力に見合わない官位を与えられたがために、遠慮のない値踏みと評価に晒されることになるなんて。
「あ」
「なんですかな、ヘル卿」
降って湧いた気の抜けた声に場の空気が緩んだ。
「いや、すっかり失念していたのですが……星見の結果を述べてもよろしいかな?」
「ご冗談を。忘れるようなものでもあるまいに……」
終始血なまぐさい議題が飛び交っていた会議の締めくくりに『星見』、つまり占いというおよそ国事とはかけ離れた印象の響きが表れたことに、少し驚いた。
「この冬、赤い禍星が記録されたのはご承知のことですが。今度はそれが姿を隠しました。綺麗さっぱり消えたのか、一時的に隠れているだけなのかは分かりませんが……あれは、歴史の変わり目に幾度となく観測された星。消えた理由は分かりませんが、近いうちに何か起きる……かも、しれませんね」
ササライの屋敷の温室で、ネウトと見上げた夜空を思い出す。澄んだ冬の空気の中星星が輝く夜空の海には、たしかにひとつ、赤い星が浮かんでいた。
「もしや先日の紋章狩りのお触れと関係が?」
「さて。真の紋章の収集が国是であることには変わりはせぬ」
「どうせまた他国で小競り合いでも始まるのだろう。我らが神聖国を揺るがすものなど、ありはせぬ」
進んで戦を起こす国柄のためか、はたまた450年以上続く大国としての自信からかなのか。彼等は凶報をもたらした星見の言葉も、大した懸念材料とはみなしていないようだった。
「ふむ、もう御座いませんな。さすればこれにて円卓会議を閉幕させるとしましょう。守護するものたる我らに、統べるものたる〈円の紋章〉の祝福があらんことを……」
「我らに〈円の紋章〉の祝福があらんことを」
幕切れを示す老若男女の声が、吹き抜ける天井に反響し響き渡った。
その唱和を合図に会議が終わりを迎えると、彼等は散り散りに席を立って部屋を去っていく。すぐに立ち上がる事も出来ずに、その背中を取り残された子供のようにただ何度も見送ったのだった。
*
部屋へと戻る途中にある中庭に差し掛かると、そこには金の髪をきつく結い上げた、修道女のような出で立ちをした女神官が待っていた。
「……確かに。では、部屋にお戻りなさい」
補佐官が纏めてくれた報告書を渡すと、受け取った彼女はルディスを置いてさっさと立ち去ってしまった。てっきり神官長ヒクサクに直接届けなければならないのかと思っていたが、これで良いのだろう。会ったからといって、何か言いたい訳でもないのだし。
「ねえ、その紋章、ぼくにちょうだいよ」
女神官が立ち去った直後、聞き覚えのある声が後方から投げかけられた。振り返るとそこには、先程顔を合わせたばかりの神官将のひとりが副官らしき男性を従えて佇んでいた。会議の最後に星見の結果を報告していた少年の神官将だ。
「貴殿よりも星見であり魔術師であるぼくの方がその紋章、有効活用できると思うんだよ。どうかな……?」
「ヘル卿……」
そうすれば、もう今日みたいな目にも遭わずに済むよ。彼は親しげにそう言い、右手をこちらに差し伸べた。
年の頃は少年といっていいのに、目の下につくった隈のせいで若々しさに欠けている。彼を見た人が抱く第一印象は、恐らく”不健康そう” だろう。
「本当は真の土が欲しいんだけどね。それでもいいから我慢して貰ってあげるって言ってるんだよ、この僕が。幸栄だと思わない……?」
悪びれなく吐き出される言葉は飄々としていて、本気なのかどうか判別しかねる。
「この紋章は神殿より貸与されたもの。他の方に譲渡せよとのお言葉が下れば、従いましょう」
実際、正体不明の紋章を譲っても別にかまわないと思っている。そもそもこれが無ければ、神殿から偉そうにああしろこうしろなどと言われないのだから、無い方がかえって身軽なくらいだろう。
すると目の前の神官は不機嫌な顔を隠そうともせず、子供じみた敵意を向けてくる。
「察しが悪いなあ……もう会議の前にヒクサク様に直訴して却下されちゃったから、貴殿に直接申し上げているんだよ。身の丈に合わない力は重荷だろうから、親切で言ってあげてるのにさ。理解に苦しむよね。ま、ヒクサク様のお言葉には従うけどさ……」
彼が会議に遅れてきたのは、先手を打って紋章を手に入れる為のものだったのか。他の神官将の前では害の無い少年を演じているように見えたが、若くして神官将に就くだけあるということだろうか。侮っていたら、いつか本当に痛い目を見るかもしれない。
「どうして、本当は〈真の土の紋章〉が欲しいのですか?」
「……どうしてって? おかしな事聞くね、決まってるじゃない。ヒクサク様に敵わないのは、もうしょうがないってやつですよ。建国の英雄に楯突くなんて阿呆がいたら、そいつの頭を疑うくらいにね。でもさあ……すぐ近くに居るじゃないか、目の上のタンコブってやつがさ」
同意を求めるように笑いかけた語り口から、それが誰を指した言葉なのを理解することが出来た。
「あのおじさん、何時までナンバー2の座に居座り続けるつもりだろうね? ヒクサク様の血縁だか何だか知らないけどさ、みんなあの若作りにきっと騙されてるんじゃないかな? ねえ、貴殿もそう思わない?」
誰かに助けて欲しいのに、ヘル卿の副官も侍女も、聞こえているはずなのに会話に入ってこようとはしない。目の前の少年神官は変わらず穏やかに喋り続けているが、先程とは打って変わり、目が笑っていないのが少々恐ろしい。出来るならば、この異様な状況から早く脱出したかった。
額面通りに受け取れば、これは優秀な先達であるササライを妬んだ発言なのだろう。魔術師であり神官将。たしかに彼等の置かれた立場は似通っている。若さ故か、同世代では最も優秀だったのであろう彼が、自分と比較して初めて優っていたのがササライだったのかもしれない。ひねくれてしまった自尊心が、彼への対抗心に変換されているのだろうか。
世話になったササライの事を悪く言われると少し腹が立つが、ぐっと堪えて口を結んだ。ムキになって主導権を握らせては不味い。
「いずれにしても、これ以上お話してもご返答は変わりません」
「……そ。気が変わったら真っ先にぼくのところに来てよね。約束だよ」
この場では目的が叶わないと判断したのか、少年は早々に踵を返して中庭を出て行った。
今回はこちらの反応を見るためにちょっかいを出しただけだったのかもしれない。しかし、ルディスが弱った時に彼は必ずまた来るのだろう。
国を意のままに動かし富を独占する神官たちは、腹の内では何を考えているのか分からない。
綺麗な服を着せられて膝まづかれても、伏せられた顔の下では嘲笑を浮かべているのではないのだろうか。善意を信じたいのに、裏切りを怖れて疑心暗鬼にとりつかれてしまう。
こんな場所であの人は生まれ育ち、今までも、そしてこれからも生きていくというのか。
優秀な働きを見せれば、認めさせる事も可能なのだろうか。
それとも逆らわず、余計なことなど何もしないで平穏に過ごるようにした方が良いのだろうか。
「おかえりねえさん、だいじょうぶ……?」
「ただいまネウト、姉さんは大丈夫……元気だよ。そうだ、今日はササライ兄さんに会ってきたよ」
「ほんと? いいなあ……ぼくもおけいこじゃなくて、にいさんに会いに行きたかったなあ……」
そう残念そうに話す彼の指には、擦り切れた関節を保護するための包帯がいくつも巻かれている。吟遊詩人の教育の為とはいえ、練習のし過ぎではないかと抗議もしたのだが、「使える」ようになるには必要な事だと言い分は退けられてしまった。
本人も今自分がやらなければならない事なのだと理解しているようで、弱音も吐かずに健気に毎日訓練を続けている。幼い彼が頑張っているのに、自分だけが泣き言を言うわけにはいかないだろう。
でも、どうすれば事態が好転するのかが分からない。きっと今の自分には、何もかもが足りないのだろう。しかし動かなければ何も出来ない。そして何よりも、預かった大切な少年を、この子を守らなければ。
そうしなければ……
あまり考えたくない結果が待っているような気がする。
脳裏を掠める嫌な予感を振り払うように、法衣が汚れるのも構わず不安げに見上げる少年の小さな体を抱き上げた。
光の差し込む回廊の向こうから、一人の神官が近づいて来る。
その迷いの無い足取りは対向するこちらへとゆっくりと、しかし確実に迫りつつあった。濁ったような薄い水色の瞳が目前に迫り、そして擦れ違おうとした瞬間。頭をもたげた格好のままに通り過ぎると思われた老人は、真横でぴたりと足を止めた。
「ササライ様におかれましては、ご機嫌麗しく……」
奥神殿への案内役として、そして宝物庫の一件の審問官のひとりとして。幾度と無く顔を合わせてきた老齢の神官はわざとらしく挨拶の言葉を口にした。
おそらくこの顔合わせは偶然ではない。
意図的であっても、偶然を装うことが出来る。人払いされた回廊はそういった密談に適した場所だった。彼もまた何らかの理由で、ササライと接触を図るために、この場所へと足を運んで来たのだろうか。
「……何か御用でしょうか」
ササライが足を止めて声を発すると同時に、数歩後ろを歩いていたジュニアの足音も止まった。束の間、静けさが回廊を支配した。
「貴方様は真の紋章を献上するという神殿の責務を果たされた。もう瑣末事に心を砕かれる必要はございません」
「献上したと、言うのですか…… 私が、彼女を……?」
指摘されるまで気付けなかった、否、気付きたくなかった事実を目の当たりにして、思わず声が震える。彼の言わんとするところを理解した時、駆け引きも忘れて問い返していた。
真の紋章の収集と献上。それは神官将として常に求められる、最重要の任務である。だが生まれた時から遇され〈真の土の紋章〉を持ちながらも、ササライは長らくその務めを果たす事が出来ずにいた。そして決して望んだかたちではなかったが、図らずしも、その責務が今回果たされたのだ。
すべては神殿の思惑通りだったのだろうか。臍を噛む思いで、老いた神官の横顔に目を向けた。
「左様。ヒクサク様が”あれ”をお預けになられたのは、ハルモニアの真の紋章使いとして相応しい器に誂える為。そして貴方様は、そのお役目を立派に務められた」
言葉を返せないササライを置き去りに、彼は続けて言い放つ。
「あれを手元に置いていた事はお忘れなさい。どうかお心安らかにあらせられますよう……」
そう言い残すと、視線を互い違いにするような格好で立ち止まっていた老神官は再び静かに歩き出した。足音も残さずに遠ざかる気配がやがて消え去る。衝撃のあまり、振り向く事も出来ずにただ立ち尽くした。
「ササライ様……」
後方から、気遣うようなジュニアの呼びかけが響いた。
「教えてくれジュニア。君の目には……どう見えていたんだい?」
訊いても彼を困らせるだけと分かっていた。だが、ひとりやりきれない思いを抱えたまま進むことも出来ず、耐えかねて問いかける。道具のように神殿に献上するために面倒を見ていたわけではない。しかし結果的に見れば、そうなってしまったことは否定出来なかった。
「……私に理解出来るのは、誰もが相手を思いやる選択をした結果、こうなってしまったという事だけです。どうかご自分を責めないで下さい。微力ながら、私たちもお側に居ります」
等身大のディオスジュニアの答えには戸惑いと、そしてササライを気遣ういたわりが込められていた。シンダル遺跡の調査の時から共にルディスを見ていたジュニアの言葉だからこそ、それが慰めのための偽りなどではない、不器用な本心なのだと伝わってくる。
「そうだね……その通りだ。礼を言うよ、ジュニア」
誰のせいでもないと言う彼の言葉が、落ち込み諦めるのはまだ早いのだと告げている。迷い立ち止まる時必ず側に居てくれるのは今も昔も、ササライを信じ支えてくれる部下だった。ルディスやネウトが成長しているようにジュニアもまた、日々成長しているのだと実感する。
眩しい光りを採り込む神殿の回廊の中、頼もしい未来の副官と共に、ササライは向かう先へともう一度歩き始めた。
一歩踏み出すたびに、重い空気が足にまとわりつく。
途中で階段を降りたので、ここは地下にあたるのだろう。その日の神殿の務めに向かう道すがら、ほんやりとそんな事を考えた。
似たような状況のためだろうか、何故かネウトを助け出した時の事が思い出された。同時に妙な胸騒ぎもする。要件も伝えられずにこんな場所に連れてこられれば、当然だった。
しばらく石の床が続く地下空間を侍女に案内されて進むと、その先には円卓会議の時に報告書を渡した女神官が待っていた。
やがて侍女達が辞すると、地下回廊はルディスと彼女の二人きりとなった。闇の中で照らし出される顔は透き通るほど白く、金の睫毛が縁取る青い瞳は蒼玉のように冷たく輝いている。自分は人間の顔の美醜には疎い方なのだが、氷を思わせる美貌とはおそらく彼女のような人の事を言うのだろう。
「本日は、よろしくお願いいたします……」
挨拶をしようとしたが、名前が出てこない。そういえば彼女の名前すら知らないのだと思い至った。
女神官は無表情のまま、挨拶など聞こえなかったように体を反転させて奥へと進んでいく。どうやら、女どうしの親睦を深めるため呼び出した……というわけではなさそうだった。
やがて女神官は施錠された一枚の鋼鉄の扉の前で立ち止まると、扉の向こうを指差し、眉ひとつ動かす事なく言い放った。
「この牢の中に一人の男が捕らえられています。その紋章で殺しなさい」
ヒトを殺せ。
彼女は、たしかにそう言った。
物騒な命令に驚き慄き、慌てて聞き返す。
「……牢の中に? その男は何者なのですか」
「窃盗、詐欺、殺人、国家叛逆の思想。あらゆる罪を犯した者。法の元、裁きを待つ罪人」
その男はケチな罪で捕まった盗人などではなく、許されない罪を重ねた悪党であり、ハルモニアに楯突く重罪人なのだと女神官は冷え切った声色で説明した。つまりこれより行われるのは、処刑という事だ。
「何故この紋章で行うのですか?」
「それを貴女が知る必要はありません。猊下がお望みなのです。その紋章を使用しての、この者に死を……」
取り付く島もないやり取りに息を呑む。
いまだに得体の知れない左手の紋章は、モンスター相手の戦いにすら滅多には使用しない。それなのに突然人殺しに使えと言われて、はい分かりましたと従えるはずもなかった。
「出来ません」
「では音叉の器は返上しなさい。お言葉に従えないと言うのならば」
到底受け入れられない指示に反発すると、心無い脅迫が返される。まるで、というより、強要そのものだ。
守るものが出来ると人は強くもなれるが、同時に弱くもなってしまう。守る対象を失うのが怖くなり、受身に回ってしまうからだ。この女神官は、それを知って言っているのだろう。子供を人質にとるなんてひどく汚い、そして賢いやり口だと思った。
こうなってしまっては従うほかなかった。内心は渋々ではあるが、彼女の言う通りに薄暗く湿った牢に足を踏み入れた。
目に飛び込んできたのは、膝立ちで項垂れるひとりの人間だった。その出で立ちに思わず目を覆いたくなる。尋問されたのか上半身に残る鞭の痕は生々しく、伸び放題の髪と無精ひげで人相はお世辞にも良くない。後ろ手に組まれた手には、鈍い輝きを放つ鉄で出来た枷がはめられている。畳まれた足の最も細い箇所にも同様の金属の鎖が繋がれ、男の自由を奪っていた。
罪人の男は現れたルディス達を、剣呑な表情で睨みつけている。
この手で処刑する相手ならば、情が移ればその分やりづらくなる。言葉など、交わさない方が良いのかもしれない。しかし。
「これが正当な処罰だと言うのならば、どうか彼に最後の懺悔の機会を。罪を告解する時間をください」
「……良いでしょう。ここから逃げる術など、存在しないのですから」
時間を稼ぐためのとっさの方便だったのだが、どうやらそれらしい言い訳にはなったようだ。
このハルモニアでは、神殿のルールを”しきたり”と呼んだり、特定の権力の独占を”聖域”と言うことがある。その遠まわしで大袈裟な物言いを以前は不思議に思ったものだが、今ならばなんとなく理由が分かる。それらは神殿を舞台にした政争の歴史を表す隠語の一種に違いなかった。
ハルモニアの一等市民達は、本当に神の存在を信じている訳ではないのだろう。支配する側であり、神に等しい力を持つ真の紋章すら狩り取る彼等は、神の名を恐れるそぶりをしながら、そうやって数十年間最高指導者不在の国を回し続けてきた。
しかし突如として、過去の英雄である神官長ヒクサクが長い沈黙を破り再び表舞台に戻った。見えない糸に操られるように同じ舞台に立たされたルディスもまた、この国の変わりつつある流れの中にある。
そして今正にこの目に映るのは、流れに逆らい溺れる者の姿だった。
「ふん……何が懺悔だ。言っとくがなあ、俺は何も後悔なんざしちゃいないんだ」
「どうして、こんな目に遭うまで罪を重ね続けたんですか」
「……何故? 何故、だって? 決まっているだろう、この腐った国で生きるためさ。ここには俺たち三等市民がありつけるマトモな職なんてないからな」
男は当然とばかりに言葉を吐き捨てたあと、何かに気づいたように片目を凝らして訝しる表情を作った。
「お前……。知ってるぞ、最近神殿の犬になったって奴じゃねえか。そんなヤツにこれ以上話す事なんて無い。失せろ、ハルモニアの子め!」
「……ハルモニアの子?」
突然意味の分からない罵りを浴びせられ、嫌悪感よりも先に疑問が沸き起こる。
「裏切り者のうえに世間知らずとは、救いようがないな」
友好的になれと言う方が無理な状況なのだろう。頑なに拒絶する態度を崩さない相手を前に弱り果てた。それにどうやら彼は、ルディスを三等市民の出身だと思っているようだった。
「裏切り者と呼ばれる真似をした覚えはありません」
「はっ、もっとマシな嘘をつけよ。黒い髪のお貴族様なんてハルモニアに居る訳がねえだろ」
「確かに私は貴族の出身ではありません。それどころか故郷の記憶が無い。どこで生まれたのかも知りません」
身の上を話した直後、男の態度が僅かに軟化した。その顔に驚きを浮かべて、突き刺さる敵愾心が息を潜める。目の奥に同情の色が浮かぶのが見えた。
「………そうかい。故郷の記憶がないってのは、不幸なもんだな」
話の内容から孤児の出だと判断したのかもしれない。実際は行き倒れなのだが、どちらも似たようなものだろうか。
「故郷、国、くに……か。俺の愛した故郷は変わっちまったよ……」
地下牢の中で、男は遠くの景色を見るように目を細めて語り始める。
「猫の額ほどの土地に押し込められて、自由に狩りや漁に出ることすらままならない。汗水流して育てた作物はほとんど税として吸い上げられちまう。交易だって自由に出来やしない。雀の涙ほどの配給でみんないつも腹を空かせてる。……好いた相手が居ても、本国の許しがなければ一緒にもなれやしない。なあ、これが人間様の生き方だと言えるのか?」
言葉尻が震えていた。彼自身、もう誰に問いかけているのか分からないのかもしれない。その顔には失うものを持たない人間特有の、乾いた笑いがこびりついていた。
「奴らから見れば、俺たちは管理して搾取しても構わない対象……つまり豚や山羊と一緒というわけさ。日々を生きるのに精一杯で、皆笑顔も忘れちまった。小さい国だったけど豊かだったんだぜ。決して贅沢じゃなくとも、家族と何でもない毎日が過ごせればそれで満ち足りていたんだ。……それを俺たちはあの日から永遠に失っちまった。あの戦を堺に」
「戦ったんですか、ハルモニアと」
「戦ったさ! 俺は兵士じゃなかったが、鍬を剣に替えて戦ったんだ! 家族を、国を守るために!!」
ある愛国心に燃える若き農夫が、無事を祈る妻子を村に残して志願兵として戦に参加した。侵略者である隣国は強大だが、義勇軍も士気だけは劣らず高かった。誰もが己を、そして故郷を思い、勝てると信じて剣をとった。
だが男が斥候の任務から戻った時には、既に勝敗は決していたという。
「あっという間だったよ、気付いたら負けてたんだ。後から聞いた話じゃ、一部の貴族どもが二等市民の身分欲しさに国を売ったんだとさ。負けて当然だよな……敵は前だけじゃなく、後ろにも居たんだから。宣戦布告された時には、もうとっくに勝負なんざ決まっていたんだ。あんなに誇らしかった故郷が、今じゃ憎くて仕方がないんだ……」
かける言葉が見つからなかった。彼はただ、最期に聞いて欲しいだけなのかもしれない。自分が愛したものを。そして失ったものを。
「最も恥じるべきは、今はハルモニアの尖兵として侵略に手を貸しているって事さ。笑えるだろう? 功績を上げれば二等市民になれるなんて言われて、捨て駒のように戦わせられて。戦に勝てば、敗戦国のやつらが俺たちと同じく三等市民として落とされるってのによ」
「……聞いたことは、あります」
「なぁに他人事みたいに言ってやがる。……お前さんもそうだろ」
心臓が鷲掴みにされたような衝撃が走った。
違う、と呟こうとしたが、それは音にはならなかった。
「中でも見込みのあるやつは、お貴族サマの所に送り込まれてハルモニア流の思想教育を受けるんだ。如何にこの国が素晴らしいかを刷り込まれて帰ってきたそいつは、戻ればいっぱしのハルモニア人気取りってワケさ。どうせアンタもそのクチなんだろう?」
男が皮肉めいた笑みを浮かべた瞬間、不意にラトキエ家で過ごした日々の記憶が蘇った。実の息子と分け隔てなく接してくれたユーリをはじめ、みな様々な事をルディスに教えてくれた。没落貴族と言えどもかつては有数の立派な家だったいうラトキエ家に預けられた自分は、一体どういう立場だったのだろうか。
そういえば世話になった元々の経緯は、ササライの指示だった。疑問を持ったことなどなかった。彼らは善意でルディスを受け入れてくれたに違いないのだと、そう信じていた。
今でもそうだ。彼を信じている。
「アンタみたいな奴が何て呼ばれているか知ってるか? お嬢ちゃん」
「…………ハルモニアの、子……」
先程投げかけられた言葉をなぞるように唇が動いた。
「そうさ、同化政策の賜物ってやつだ。俺たちはお貴族さまに、アンタは神官さまにハルモニアの素晴らしさを刷り込まれて、故郷の誇りも気高い心も売っちまったんだよ!」
彼の自由を奪っている鎖がぶつかり合って、不快な金属音が牢に響き渡る。興奮した男は自由のきかない体を懸命にひねり、身を乗り出して、尚言い募る。
「だが俺はそんな生き方はしない! おれたちを踏みつけて笑っているハルモニアの貴族どもと、やつらに媚びへつらって甘い汁を吸っている強欲商人ども! そいつらから俺は奪われた物を奪い返してやったんだ。死ぬのなんざ怖くないさ、やるならさっさとやれよ! ははは、はは……は……」
男は強がるように気の済むまでひとしきり笑い続けた。そして反響する乾いた笑い声が消え失せた後は、たちまち重い沈黙が薄闇に陰る部屋を支配した。
「………俺はあの戦いで、死ぬべきだったんだ。生き延びちまったのが間違いだった。俺は、俺は……本当はこんな事をしたかった……わけじゃない……」
光を失った淀んだ瞳がゆっくりと沈んでゆく。やがて見えなくなった顔の代わりに、見下ろす先にあるつむじに目掛けて声を振り絞った。
「……死んではいけない」
せっかく戦で生き残ったのに死を望むなんて、あまりにも救いがないではないか。
「減刑を頼んでみます。今の話が全部本当なら、貴方には情状酌量の余地がある」
「……憐れみか? 無駄だ、やめとけ。それに同情なんてまっぴらだ」
「そうじゃない。……私もこわいんです」
いつの間にか、手袋を外した左手が小刻みに震えていた。手の震えを抑えるために、もう一方の手できつく手首を握りしめる。
「お前……人を殺すのは初めてなのか?」
静寂の中、どこかで水滴の落ちる音がする。一定のリズムで刻まれるその音だけが、反響する牢の中を満たしていた。
返らない答えをどう理解したのか、男は一言「そうか」とそれまでの剣幕が嘘のような落ち着いた一言を発すると、それきり口を閉じた。
「……さっきの人を呼んで掛け合ってみます、ちょっと待っててください」
汗が出てきた額を抑えながら、扉へ足をむける。
「馬鹿な嬢ちゃんだ……あんたまで割を食うぞ。俺はやりすぎたんだ、もう、手遅れなんだよ……だから……」
穏やかさすら感じ取れる男の言葉を耳にしながら、身を反転させて男に背中を向けた、その瞬間。左手に鋭い痛みが走った。それとともに、信じられない力で後方へと引き倒される。
何が起こったのか分からなかった。
状況を見定めようとして無我夢中で振り向くと、そこにあったのは、両手両足の自由を失いながらもルディスの左手に噛み付く罪人の男の顔だった。腕の向こう側から覗く血走った瞳から突き刺さる敵意を浴びてその時感じたのは、人の悪意に対する本能的な恐怖だ。
手の甲から発せられた光は、ほとんど反射的なものだった。不安定な体勢で発動した攻撃魔法はコントロールする余裕もなく、男の上半身を直撃した。
衝動で離れた男の左肩は、元から何も無かったかのように欠けていた。
ほぼ即死だった。血と空気が逆流する口を僅かに開くと男はそのまま、事切れた。
傾いだまま崩れ行く顔に最期に浮かんでいたのは、憎悪でも嘲笑でもなく。生のしがらみから解放された、安らかな死に顔だった。
どれほど時間が経ったのだろうか。気付けば、薄闇の中ひとり立ち尽くしていた。
服も髪も乱れ、冷たい汗が全身から吹き出て体を冷やしていた。変わり果て床の上に転がった男をしばらく見下ろした後、まだ疼く左手を庇うようにして牢を出た。
「やっと終わったのですか。随分と手間取りましたね」
ようやく戻ったルディスを迎えたのは、そんな女神官の冷たい言葉だった。
彼女は水の高位回復魔法を発動して左手の傷を癒してくれたが、同時に紋章を無表情で観察していた。その薄い色素の唇から労りの言葉が出て来ることはない。彼女のこの場の関心の対象は、〈涙の紋章〉だけのようだった。
「もう……こんなことは、出来ません」
脳裏に焼き付いた苦い記憶が甦る。打ちのめされた心理状態のまま口を開けば、弱音ともとれる懇願をしていた。
「それを決めるのは貴女ではありません」
「では今からヒクサク様の元に、直にお願いに行きます!」
「お黙りなさい」
ヒクサクの名を口にした途端、女神官は柳眉を逆立てた。反論を許さない鋭い語気で彼女はルディスを睨み据える。
「猊下は本来ならば、お前のような者が名を呼ぶの事も出来ぬ尊いお方。礼を失した姿で謁見するなど言語道断。そのようなことすら分からぬとは」
命令することに慣れたその高圧的な物言いは、傷ついたこちらを怯ませるには十分だった。
作り物めいて美しく、心内を見せることない彼女が初めて晒した感情は、金糸のように細い眉を寄せて形作られた、汚いものでも見るような侮蔑だった。
「本日の務めは終了です。与えられた部屋へ戻りなさい」
「……お名前を教えてください、神官殿」
「知ってどうするというのです」
「忘れないためです」
今日の事を、忘れないために。
しばしの間のあと、女神官は静かに口を開いた。
「キアン。それが私の名です」
人形のような精巧な面差しに、もう表情は見えない。
キアンの指示で扉が開くと、侍女達が部屋に入ってきた。ルディスの乱れた姿を見ても動揺する事無く、いつものように無言で身支度を整えていく。抵抗する気力もないまま、用意された湯で返り血は拭き取られ、替えの法衣を着せられた。
侍女達と入れ替わるように退室したのか、女神官の姿はもう無かった。
*
部屋に戻ると、すでに夜半を過ぎていた。
キアン。今日知った女神官の名を心の中で繰り返す。
どこかで聞いた名前だとは思った。記憶がたしかならば、ネウトを助け出した時に世話係の神官たちが口にしていた名前と一致する。思い違いなどでなければ彼女は、あの神官達に命令を下してネウトを閉じ込めていた人物という事になる。あの言葉はきっと脅しではない。
侍女たちを下がらせるとランプを手に、なるべく足音をたてないようにそっと寝台へと近づいた。小さく口を開け、胸を上下させて無防備に眠る少年の顔がオレンジ色に浮かび上がる。
出会った経緯を考えても、神殿で離れ離れになるのは危険だと分かっていた。だから無理を通して同室にしてもらったのだ。だがこれからは、昼間も離れるべきではないのかもしれない。
小さな手を握り締めようと温もりに手を伸ばしかけて、思いとどまる。血で汚れてしまった手で触れるのが、こわい。
身を守るために服従を選んだ。けれど、ただ命だけを長らえる選択にどのくらいの価値があったのだろうか。誇りを持ったまま死にたかったと叫ぶ咎人の言葉が耳にこびりついて、離れなかった。
冷たい地下牢でひとり声をあげて啼いていた彼を連れ出す事を選んだのは自分だ。共に守ると誓った小さなこの手を、例え何が有ろうとも離さないと決めたのも自分。
もう守られる側だった季節は過ぎ去った。今度は己の手で、大切なものを守らなければならない。なのに。
「ごめん。ごめんね……」
自分のことさえ満足に出来ずに、膝を抱えてしまっている。
起こしてしまわぬように声を殺して呟くと、不意にぬるい雫がぽろぽろと零れては、下へ下へと落ちて絶え間なく絨毯へ吸い込まれていく。
消化できずに内に溜まった澱はいつの間にか、喉元まで積もって悲鳴を上げていた。
もうとっくに平気な顔を出来る許容量は超えていた。ショックだった。憎悪を向けられたことも、救えるかもしれなかった命を奪ってしまったことも。
「……っ………今だけは……」
言葉にならない嗚咽が、静かな夜の空気に溶けていく。もう人目もはばからずに子供のように泣けるのは、今では唯一の味方であるこの子の側だけだった。
本当に守られていたのだと今更ながらに知る。
どこの馬の骨とも分からない人間である自分を、彼らは対等に扱ってくれた。その恩恵を受けられたのは自分に魅力があったからだなどと、幸せな思い違いを抱けるほど、もう子供ではなかった。
今思えば、あれは紛れも無く監視だった。神殿から彼らに下された指示は、保護という名目のルディスの監視だったのだろう。ただ見張るのならば、逃げられない場所に閉じ込めて鍵をかけておけば、それが一番簡単だったろうに。
だが彼らはそうはしなかった。対等に話す事を許し、日々の仕事を与え、温かい食事と安らげる居場所を与えてくれた。当たり前に受け取ってしまったそれらは、本来ならば彼らにとっては何の得にもならない行為だったに違いない。ずっと一緒に居たのだから、それが憐れみでも同情でもなかったことは理解している。
その優しさが、ただ、嬉しかった。
だからこそ、その事に気付いた後も口にする事はなかった。気付いたのだと知らせるのは、気付かせぬようにと細心の注意をはらってくれていた彼らの気持ちを踏みにじる行為のような気がしたからだ。
クリスタルバレーに来たばかりの頃に持っていたのは、ササライに貰った名前ひとつだった。身分も立場もなく、守るものも持たない放浪者。
今の自分は、望まぬ処刑に手を貸す法の守護者に成り果ててしまった。
自分はこの国の見えない階段を上ったのだろうか。……それとも、より深い場所へと転がり落ちたのだろうか。
泣き疲れて、寝台に頭をもたげたまま眠りの海に落ちてゆく。
自分の為に涙を流すのは、これで終わりにしよう……。
まだ立ち上がれそうにない。しかし、今日流した涙は明日また立ち上がるためのものだったのだと、いつかそう思える日が来る時までは。
外に出れば北国にようやく遅い春が本格的に訪れようとしているというのに、外界の陽気とは裏腹に、心の中は憂鬱だった。
その反面、なんだかんだ言って環境に順応してきたのではないかと感じることもある。以前のように奥神殿への入り口を通るたびに不快感を感じるということも無くなったし、あれ以来秘密裏に処刑に手を貸すような仕事も回って来てはいない。
なんとか潰れずにいられていたのは、ネウトの存在が大きかった。守らなければと思うと同時に、一緒に居ることで彼に随分と救われてもいたのだろう。もしひとりだったら、今頃とっくに音を上げていたかもしれない。
もうひとつ、不安に押しつぶされそうなルディスを慰めてくれたものがあった。それはレナやジルがくれる手紙だ。
いつもスフィーナ家から送られてくる封筒の中身の大半を占めるのは、同封されたユーリの手紙で、ラトキエ家の日々の小さな出来事が記されていた。文面のいたる所にはこちらを心配する言葉が散りばめられており、変りなく過ごしていることが伝わってくる。
ジルからは、流石に神殿に知られると不味い〈始まりの紋章〉については何も書かれてはいないが、手ずから世話をしている庭の花が蕾をつけた事や、ピリカが作ってくれるデュナン地方の郷土料理がとても美味しいので次は是非振舞いたい旨などが綴られていた。
文面で交わす彼女達との交流は、神殿に閉じ込められた窮屈な日々の中でのささやかな楽しみとなっていた。
そんな中、届けられたばかりの手紙に違和感を感じたのは偶然だったのかもしれない。ある日未開封のはずの手紙の封蝋の跡に、僅かなズレを見留めてしまったのだ。
それまで受け取った手紙をすべて確認してみると、それらは一見分からないほど巧妙に細工された、一度開封したものであったものであったことを知ったのだった。
いつもはペーパーナイフを使って開けていたから、気付けなかった。今までやり取りしたすべての手紙がそうやって事前に中身をあらためられていたと、その時にようやく知ったのだった。
当然、返信には神殿の内情を詳しく書いたりはしなかったし、彼女達がくれた手紙の内容は本当に当たり障りの無い内容ばかりだった。しかし、私的な交友すらも絶えず監視されているという事実に、少なからず衝撃を受ける結果になった。
密偵行為を行っていた可能性が最も高いのはおそらく、手紙を受け渡していた侍女だろう。神殿に雇われた彼女達は、絶えず監視の目を光らせてルディスを見張っているのだろうか。芽生えた猜疑心はゆっくりと、しかし確実に、体の芯が冷えていくように染みこんでゆく。 一番近くに居る彼女達にさえもう気を許すことは出来ないのだと、その時に知ったのだった。
*
うららかな朝の日差しが、宮殿の一角に造られた庭園を燦燦と照らしている。
小道の両脇に生えた低木は形良く刈り込まれており、遊歩道にかかる蔓の絡まったアーチを抜ければ、天使の彫像から止めどなく水が流れる噴水へと辿り着く。
訪れるものに憩いを提供するこの庭園は、かつては色とりどりの薔薇が咲き乱れていた。しかし今はそのすべてが一色に塗り替えられている。自生する薔薇には決して有り得ないその色の名は、青。ハルモニアで最も尊いとされる色である。
本来青の色素を持たないがために、自然界には存在するはずのない青い薔薇。それがここにある理由は何のことはなく、品種改良によるものだった。
作り方は意外と単純だ。紫の薔薇の中でも青に近い色みの品種を選んで育て、世代交代を繰り返す中で生まれる特に青味の強いもの、美しい色や形のものを選んで繁殖させる。その繰り返しだ。
本来長い年月をかけて行われる栽培植物の世代交代を短期間で実現したもの。それは他ならぬルディスの持つ〈涙の紋章〉だった。盾の紋章と同じような効果を持つ回復魔法を何度もかけ続けて植物を急速に成長させれば、世の園芸家が気の遠くなるような時間を費やして行う品種改良がぐっと短い期間で済んだ。
その代わり、色味ばかりを追い求めた代償に香りは薄まり、環境の変化には弱くなってしまった。普通に育てる場合は繊細な気質に苦労することだろう。
今は神殿が外部への流出を認めていないためここでしか見られないが、もし流通が解禁されれば、胸飾りなどの加工品として出回る日も来るのかもしれない。
古来より人々が探し求め、不可能と奇跡の象徴とも言われた幻の花。これを作るに至った理由は、神殿に入る際にササライの元で学んだ紋章魔法の成果を、目に見える形として示すための手段だった。
思い返せば、品種改良の仕方や植物の知識を教えてくれたのは、ササライの屋敷で世話になった庭師だった。花に罪は無いが、この薔薇を見る度によみがえる思い出には苦いものがある。
今やササライの屋敷で生み出し神殿に持ち込んだこの薔薇を、改良を重ねて都度献上するのも、神殿から課せられた彼らの言うところの責務のひとつになっていた。
今は噴水横の低木に向き合い、枝の先についた蕾に鋏を入れる作業をしている。隣に立つネウトは侍女が差し出す日傘の陰の中で白いフードを目深に被り、手首まで隠れる手袋をはめている。手にはルディス同様、庭仕事用の鋏を握っていた。
神殿付きの庭師が見守る中、ふたりで密集した蕾を見つけては、鋏を入れて小さな蕾を切り落としていく。個々の花を見目良くする為の必要な作業だ。これをやらなければ花のサイズは一回り小さく、花弁も乱れて、色も本来のものよりも褪せてしまう。そういった不揃いの薔薇は献上品には適さない。
摘蕾の次に水やりも終わると、最後に再度成長を促すために左手を上げた。外した長手袋の下から現れた紋章の姿に、否が応にも先日の出来事が思い出される。そうしてほんの少し躊躇した後、癒しの紋章魔法を発動させた。
何度も使ううちに分かった事だが、どうやらこの回復魔法は全体に無作為に作用するもののようだった。
幸運にも恩恵を受けたおよそ半数の蕾が、光陽を一身に浴びて次々と大輪の花を咲かせた。誇らしげに一斉に広げた花弁を太陽の元で競うように主張し合っている。
次は収穫だ。今回は献上用の切花をいくつか持ち帰って、残りは神殿の庭師たちに任せる予定だった。
一旦侍女に預けていた鋏を受け取るために目を離した直後、後ろからぶちぶちと奇妙な音が聞こえてきた。振り返ると、ネウトが花の首を無造作に掴んでは引きちぎっていた。軸を失って解けた青い花弁の雨が、絶え間なく彼の足元へと降り注いでゆく。
手袋をしているので刺で怪我をする心配はないが、潰れた花の水分で青く濡れた手を取って制止する。
「どうしたの? せっかく咲いた花が可哀想だよ」
突然の行動に驚きつつも訳を訊くと、顔色ひとつ変えずに花を手折っていた彼はきょとんとした顔で不思議そうに見返してくる。
「……? さっきもこうしたよ?」
「あれは要らない蕾を捨てたんだ。咲いてる花は無闇に摘んじゃいけない」
「でも……、同じだよ………」
時に子供の純粋さは、残酷で不可解だ。もしかして無機物と命ある生き物の境がいまだ曖昧なのかもしれない。
余分な蕾は商品として価値がないから排除したのだと説明しても、彼はまだ納得がいかないという顔で肩を落としていた。見上げてくる瞳の中には悲しげな色が見える。不要だと切り捨てられた蕾と、かつて失敗作として扱われていた自分が重って思えるのだろうか。
「その気持ち、なんとなく分かるよ。本当は全部の蕾が花を咲かせてもいいのにって私も思う」
せっかく花を咲かせようとついた蕾を選別する摘蕾は、本当はルディスだって好きでやっている訳ではない。同意の言葉を掛けると、気落ちしたように視線を落としていた少年は顔を上げてくれた。
「でもここではそれは出来ないんだ。約束して、もう無意味にちぎったりしないって。草も花も生きているんだよ」
諭すと、彼は戸惑いながらも頷く。
冷静に考えれば、彼は優劣の別なくどれも分け隔てなく扱っているだけにも見える。正しい力の振るい方も知らない一方、人よりも痛みを知っている分優しすぎる子になってしまった。これは彼のせいじゃなく、周りの大人の責任だろう。
「ねえさん」
「なに?」
視線を合わせるために身を屈めると、うつむき加減で思い悩む瞳が見返してくる。
「いまぼくは、『じゆう』なの?」
突然の一言に胸を突つかれた。ササライの屋敷に居た時は、こんな疑問を口にしたりはしなかったのに。聡い彼は取り巻く環境やルディスの表情の変化に、今の状況は何かが違うのだと敏感に感じ取っている。
かつて、目の前の少年と交わした約束を思い出す。地下牢に閉じ込められていた頃よりはずっとマシなのかもしれない。しかし今度は、ルディスともども命と行動を掌握されている。手を取って連れ出したあの時確かに、自由をあげると約束したはずだったのに。
傍らに立つ彼は、見るからに疲れきっていた。ササライの屋敷で好奇心のおもむくままに楽器を手にしていた頃とは違い、神殿の教育では完璧に出来るまで何度も同じ練習を繰り返させられる。声音の勉強では、声質はとても良いのだが声量が足らないのだと叱咤を受けていた。
神殿の教育係も必死なのだろう。成果が振るわなければ、それは彼らの責任になる。
どんなに吟遊詩人としてのスキルが上がっても、音楽を好きな気持ちを奪ってしまっては元も子もないというのに。
「今からでも兄さんのところに行きたい? ネウトがそうしたいなら私は……」
自分と共に神殿に居るよりも、ササライの元に戻る方が彼にとっては良いのかもしれない。そう感じて侍女たちに聞こえないように囁くと、少年はハッとした様子で首を横に振った。
「ううん、ねえさんと一緒にいる……!」
早口で言い切ると、何か下手を打ってしまったかのようにバツ悪く、彼は再び薔薇へと向き合う。そして今度は、鋏で切り取った数本の薔薇を差し出した。どれも茎の長さはバラバラで、折れや傷もある不揃いのものだ。神殿に献上するには適さないだろう。
「大きくて元気なのを選んだね、部屋に飾ろうか」
それならと、初めて薔薇を摘んだ記念として彼にあげるのが一番良いと思えた。
労働のためか、少年の白い額には汗が浮かんでいる。太陽の元では疲弊してしまう体質の彼は、外に出る度にローブと手袋で素肌を守っているが、そこまで防備しても完全に日差しを断つことは難しい。
花の収穫のために朝の時間帯を選んだとはいえ、これ以上の長居は禁物だろう。日差しを遮る宮殿の回廊へと移動すると、フードを外した彼に合わせて帽子を取った。
天気も良いし、出来れば今日はこのままネウトを連れて気晴らしにでも行きたいところなのだが、監視の目があるのでそうはいかない。後ろをついて回る侍女たちが、収穫を終えた薔薇を手に目を光らせている。勝手な行動をすれば、すかさず彼女たちに咎められしまうことだろう。
大人しく部屋に戻るために薄暗い回廊をしばらく歩いていると、前方から近づいて来る人影に気が付いた。神官と侍従の二人組だ。神官の纏っている法衣は神官将のものだと分かるが、肝心の顔は帽子の鍔の影の中で、遠くからではよく見えない。
―――神殿派の誰かだろうか。
先日の会議の席での出来事を思い出して、緊張と不安が脳裏を掠めた。
互いの顔が見えるほど距離が詰まると、そこでようやく相手が誰なのかが分かり自然と笑みが零れた。
ほんの少し前までは毎日顔を見ていたというのに、懐かしさすら覚えるのは何故なのだろう。正面に向き合うかたちで同時に立ち止まると、はやる気持ちを抑えて声をかけた。
「ご無沙汰しております、ササライ様……」
ササライが立ち止まると、その後ろに付き従うジュニアがこちらに向かって頭を垂れた。今ではルディスの方がジュニアよりも地位が上になってしまったがゆえの振舞いだが、とてもではないが優越感の類は湧いては来なかった。普通にしてくれればいいのにと、心の中で独り言ちる。
「最高司祭殿におかれましては、お変わりなく。お元気そうでなによりです」
目をふせたままのササライが他人行儀な挨拶を口にする。お互いの立場上、どうしても堅苦しい言葉使いになってしまう。それでも親しい相手と偶然会話する機会を得たのは幸運といえるだろう。
「先ほど、見事に咲いた青薔薇を摘んで参ったばかりなのです。宜しければササライ様にもお裾分けしたいのですが、受け取って下さいますか?」
もちろん快諾してくれるものとばかり思い、出た言葉だった。しかしササライから返ってきたのは予想だにしなかった答えだった。
「有り難い申し出ではありますが……、遠慮しておきましょう」
「何故ですか?」
まさかお互いの関係が変わった事で、ササライの心までもが変わってしまったのだろうか。不安に駆られて問い正すと、彼は目線を上げて、至極落ち着いた声色で続ける。
「今やその薔薇は神殿……ひいてはヒクサク様の象徴とも言えるものです。それを司祭殿御自ら私に譲渡なされば、問題にもなりかねません。遠慮すると申し上げたのはそういうことです」
思いもよらない理由に意表を突かれたが、同時に納得も出来た。なんだか今日は驚いてばかりいる。それだけ、ここのところ周りを見る余裕もなかったという事だろうか。
立場ある者の振る舞いひとつによって、思いもよらぬ結果を招くこともある。そのことに思い至らなかった未熟さを、ササライは指摘してくれたのだ。
「……卿の仰る通りです。どうか失礼をお許し下さい」
どうやらルディスから渡すことは叶わないと知り、大人しく引き下がった。代わりに、さっきから兄と話したくて隣でうずうずしていたネウトを振り返る。
「この子は今日初めて薔薇を積んだんですよ。ネウト、お兄様に見せて差し上げなさい」
小さな背中を押すと、少年はようやく自分の番が来たのだと喜び勇んで兄に駆け寄った。
「にいさん。これ、これ……、ぼくがつんだんだよ」
「ああ、初めてにしてはとても上手に出来たね。楽しかったかい?」
「うん、ぼく、じょうずにおてつだいできたよ」
数本の摘み取った薔薇を手に持って背伸びする少年の姿に、ササライも笑顔をのぞかせる。久しぶりに会う大好きな兄に褒められて得意げのネウトは、思わずササライに自分が採った薔薇を一輪差し出すが、すぐに先程のやりとりを思い出したのか腕を引っ込めた。これはいけないことなのかと問いかける無垢な瞳が、ルディスを振り返る。
「その薔薇は貴方にあげた物だから、好きにしてかまいませんよ」
それを聞いた少年は嬉しそうに兄へと向き直る。
「にいさん、このぼくのばら、にいさんにあげる」
弟から差し出された薔薇を、神官将ササライは今度は拒むことなく手にとった。
ルディスから献上品を譲ることが出来なくとも、弟からのプレゼントという形ならば、彼も体裁を気にすることはなく受け取ることが出来る。
思えば先日の円卓会議でも、きちんと自分の立場を理解して発言できたとはとても言えなかった。
ルールの中で上手く立ちまわる。 それが出来なければ、今の状況からは脱出できない。今回の事に限らず、正攻法では駄目な時はどうすれば目的を達成できるかを、誰の手も借りずに自分で考えなくてはならない場面もあることだろう。
強かになれとササライに言われたような気がした。
ほほえましい兄弟の光景に場の空気も和んだが、侍女のひとりがそれを断ち切るかのように咳払いを挟んだ。「こんなところで時間を取り過ぎるな」という催促だろう。
「今日はお会いできて良かった。では……これにて失礼いたします」
別れ惜しむように挨拶を交わすと、ササライとジュニアの横を通って再び歩きだす。ネウトはまだ話し足りなそうにササライとルディスを見比べていたが、ササライに手を振ってルディスに続いた。
ジュニアが振り向くとすでに黒髪を揺らす背中は小さく、また手の届かない遠くへと立ち去ったあとだった。僅かな邂逅を惜しむようにそれを見送りながら、大振りな鼻をかいてぽつりと呟く。
「わざわざここを通る時間を調べて会いに来た割には、あまり話せませんでしたね」
「いいんだ。どうやら収穫もあったようだしね」
一輪の青薔薇を手に、その香りを確かめるようにまだ瑞々しい青の花弁に鼻先を埋めていた彼は、副官の問いに満足そうに答えた。
2015年06月14日初稿作成
2020年07月01日サイト移転