Ⅹ 持たざる者
「こうして顔を見せに来て下さって嬉しいですわ。事前に教えてくだされば、貴方好みのお茶も取り寄せましたのに」
「急な訪問になってしまい、すみません」
「良いのですよ。ただ、貴方がわたくしの部屋に居ると、まるで昔に戻ったような心持ちです。常日頃は会議の場でしかお会いできませんもの」
「ええ。もっとも、残念ながら実の所、そうのんびりともしてはいられないのですが……」
「ヒクサク様が長い空白から戻られ、どの時代よりも神殿派と民衆派が拮抗している今は、確かに大切な時期ですわ。どうか周囲の雑音に惑わされませんよう……」
「……ご心配は無用です。いつかは向き合わなければならないと、分かっていた問題ですから」
「せめて、もしこの老婆に出来ることがあれば何なりと仰って」
「では、昔の誼みでひとつ聞いていただきたい事が」
「………ルディス殿の事ですね?」
「流石ですね、話が早くて助かります。過保護だとお笑いになるかもしれませんが、早速迷える子羊の顔をしていたものですから」
「神殿の中は静かなる駆け引きの場ですわ。私も娘の頃は、随分と不慣れな真似をしたものですよ」
「宜しければ、これからも彼女の良き話し相手となって頂けますか? 僕が手を貸せる範囲にも限界がありますので」
「心を砕いてらっしゃるのですね」
「いまはその地位同様神殿の飾りでしかありませんが、不肖の弟子なりに期待している……、といったところでしょうか」
「そういえば、あの方の後見人でらしたものね。他でもないササライ殿の頼みとあらば……」
「感謝いたします。フュルスト卿」
「ふふ、昔のように先生と呼んでくださってもいいのですよ」
「敵いませんね。貴女にかかれば、僕はいくつになっても教え子のままのようだ」
「ええ、それに」
「……それに?」
「老いた身には嬉しいものですよ。かつての教え子が頼ってくれるというのは」
「口添えをして頂き感謝しております、フュルスト卿」
「わたくしは大した事をしてはいませんよ。お若い人のお力になれたのならば、それが何よりの喜びですもの」
席に着くなり感謝を伝えると、目の前の老女は微笑みでそれを受け止めた。
一口に神官将といっても、やはり考え方も好みも十人十色ということだろうか。以前雑用係として居たササライの執務室は、ディオス達側近の手によって常に整理され、無駄な物の無い洗練された部屋だった。
今日初めて足を踏み入れた神官将フュルストの執務室もまた美しく整えられた部屋ではあるが、雰囲気はまた少し異なる。執務机と応接テーブルの上には季節の花が飾られ、そこに曲線を描くアンティークな風合いの調度品が合わさり、上品かつ華やかな印象を醸し出している。部屋の主の好みを映した、女性らしい気遣いが行き届いた部屋と言って良いだろう。
その部屋の応接テーブルで、ルディスとネウトは神官将フュルストと向き合って座っていた。
「でも、どうして私達にお力を貸して下さったのですか?」
これまで神殿はルディスひとりが声を上げても、積極的に便宜を図ってくれることはなかった。あちらから見れば、権限も結果も、財力すらも持たない者が喚いているだけなのだから、当然かもしれない。
もう自力だけでは物事が立ち行かない事を十分すぎるほど理解していたところに、見計らったように彼女が、つまり神官将フュルストが突然現れて味方をしてくれたのだ。
神殿内に一定の影響力を持つ彼女が表立って肩を持ってくれたことで、神殿側もルディスの声すべてを握り潰す事が出来なくなりつつある。はるばる彼女の執務室までお礼を言い来たのは、そういった事情の末のことだった。
助けてくれたのは素直に有り難かった。しかし、感謝の次に湧いたのは疑問だ。思い違いでなければ、これまで彼女と顔を合わせたのは円卓会議の時の一度だけである。急にルディスを助けてくれる気になったのは、何故なのだろうか。
「先日の会議でお会いしてからというもの、貴女のことはずっと気に掛かっていましたの。わたくしは、これからを担う新しい時代の方には視野を広く持って欲しいと願っています」
率直な疑問をぶつけられても、神官将フュルストは動じることもなく優雅な笑みを浮かべている。ササライを思い出させる優しげな笑みは安心感を抱かせるが、自分はまだこの人の事をよく知らない。信用しても良い人物なのだろうか。
気品と懐の深さを感じさせるこの細身の女性が、男性ばかりの円卓会議の中で臆することなく、声高に三等市民の声を代弁していた光景を思い返す。
以前ササライが教えてくれた神官将たちの派閥の話では、フュルスト卿は民衆派の筆頭にあたる重要な人物という説明だった。自然に考えれば、手を貸してくれたのはルディスを民衆派に引き入れたいと思ってのことだろうか。
「毎日宮殿の中に居ては、見えるものも限られてしまいましょう。外に目を向けて欲しいのです。特に、この国に暮らす民の姿を」
神殿に入ってからは決められた場所を移動するか、指図されたところに赴くといったことしか出来なかった。今はたしかに彼女のお陰で、監視の手は緩められている。どこへでも自由に、とまではいかないだろうが、今ならば願い出れば外出の許可も下りるのかもしれない。
「外に足を運び、ご自分の目で、耳で、街の様子をご覧になっては如何かしら? そして感じたままを、このわたくしに教えて欲しいのです。相談役ぐらいでしたらこの老体にも務まりましょう」
何か見返りを要求されるのも覚悟していたが、話を聞く限りでは違うようだ、振舞いも隙がない。為政者として相応しい、立派な人に見える。
「さあ、難しいお話はこれくらいにいたしましょう。すっかりお茶が冷めてしまったわね」
話が一段落すると、フュルスト卿の部下が現れて卓上のお茶を淹れなおした。応接テーブルの上にある茶菓子とともに薦められたので、ずっと大人しく待っていたネウトに頷いて、用意されたお茶に一緒に手を付けた。
「このお菓子は気に入ったかしら?」
夢中で菓子を食べていた最中に声をかけられ、少年の動きが一瞬が止まる。
「怒っているわけではありませんよ。あまりに美味しそうに食べるから、つい。ふふ」
ネウトが頬張ったままコクコクと頷くと、フュルスト卿は目元の皺とともに笑みを深めた。
「では好きなだけ包ませましょう。お話の間、我慢して待っていたご褒美ですよ」
「すみません、なにからなにまで……」
手土産まで持たせられて恐縮すると、老女は慈しむように目を細めた。
「構いませんのよ。わたくしもササライ殿の教育係を務めていた時分には、よくお茶や息抜きの散歩をご一緒したものです。貴方も不自由があればいつでも、わたくしのところにいらっしゃいね」
後半の言葉はネウトに向けられたものだ。隣に座る少年は一度だけルディスの方をチラリと見たあと、返事代わりにおずおずと頷く。
こうして色んな人に会うようになって、彼が相当な人見知りである事も分かってきた。その姿は怯えるというよりも、進んで人に関わることを恐がっているようにも見える。
もし本当に何でも頼ってもいいならそうしたいぐらいだが、必要以上に厚意に甘えるというのもなんだか気が引けるし、彼女の真意も不明のままだ。もう少し様子を見ながら付き合っていくのが良さそうではある。今は、子供に優しい人であると知れただけで十分だった。
「ご助言に従ってみようと思います」
「近頃は随分暖かくなってきましたからね、散歩には良い気候ですよ」
感謝を示すためにも、今回は意見に従って外出しよう。そう思ったのは、春の日差し恋しさに背中を押されたからかもしれなかった。
*
読み終わった手紙は今までどおり決まった戸棚に仕舞う。だから自由に目を通してくれて構わない。そう外出の支度の際に侍女たちに伝えた。
やましいやり取りなど何ひとつしていないのだから、手紙を見られても構わない。それが手紙を盗み見されていると知った時から考えていた、自分なりの解決方法だった。
「な……なんのお話やら、私どもにはさっぱり………」
最も年若い侍女が狼狽を隠しきれないまま、否定を口にする。彼女たちにしてみれば密偵行使など認める訳にはいかないのだろう、取り繕うのは当然だ。だが言葉以外の彼女の示す反応すべてが、それは嘘なのだと告げている。
「……仕えるべき貴女様に背いた私たちを、処分なさらないのですか?」
次に口を開いたのは最も年嵩の侍女だった。こちらは腹を決めた様子で、動揺も悪びれも浮かべてはいない。自分が背徳の行いを重ねてきたことは十分理解しているし、露見すれば結果を受け入れる。そういう覚悟が見て取れた。
神殿から命令されたとはいえ、彼女たちの建前上の主はルディスである。主人に背いた使用人は解雇されるのが、世間一般の妥当な認識だ。ハルモニアには裁判制度もあるのだから、悪質な場合は訴えられる事もあるのだろう。
だが、それをするつもりはなかった。
「貴女方はただ、神殿の命令に従っただけ。もしも責めるなら指示を出した者に向けるべきだし、それにたとえ貴女方を解雇しても、また同じように密命を受けた新しい侍女が来るだけだと思います。だからそんな無意味な事はしない。私としてはこれからもお願いしたい」
そしてこれがきっかけとなって、この歪な関係を正せるのならば。
双方が納得すれば、任務の失敗という彼女たちにとって不都合な事実は無かった事に出来る。そう踏んだのか、裏があるのではないかと身構えていた彼女らはお互いに視線を交わしたのち、合意した。
「ずいぶんと甘いんですね。ラトキエ家の人って、皆そうなんでしょうか?」
年嵩の侍女が低く囁いた。思いがけず出たラトキエの名に、一瞬何を言われたのか分からず反応が遅れる。金の髪が揺れる顔を見返すと含みのある微笑が返された。
「ラトキエ家に知り合いが?」
だいぶ昔に取り潰しになったラトキエ家の名を持ち出す人間は限られている。もしかして、昔縁があった人なのだろうか。
「さあ……どうでしょうか」
貼り付けたような笑みのまま、はぐらかされる。相手は密偵などという行為を平気な顔でこなしていた人間だ。訊いても素直に答えてくれるとは思わない方が良いのだろう。
驚きはしたが、彼女の物言いは決して嫌な感じのものでもなかった。思えば、今まで侍女とは会話らしい会話すらなかった。問い質したい気持ちもあったが、多少は信頼関係が生まれれたからこその言葉かもしれないと、その場は前向きに受け止めるに留めることにした。
指定された門に到着すると、4頭立ての馬車が用意されていた。待っていた御者によれば、「今日はこれに乗って大通りを一周してお終いにしろ」ということであるらしい。もちろん、侍女たちも後続の馬車で一緒に来るという。
街に出たいという要求をどう受け取ったのか。こんな大層な出で立ちで練り歩くつもりは毛頭なかったのに。目立つ分、逃亡防止になると踏んだのだろうか。想像と違っていた外出に少々鼻白む。
しかしひとたび馬車が宮殿の外へと走りだすと、そんな不満はどこかへと吹き飛んでしまった。
街が、以前歩いた時とは比べ物にならないほど活気に満ちあふれている。
冬の間はそのほとんどが雪で閉ざされていた街道は、今は太陽の光により再び切り開かれ、この大都市に人が、物が、様々なものが、止めどなく流れ込んできたのが一目で分かった。馬車が行き交う大通りは今まで見た事のないほどの人が歩いていて、みな厚手の春物を着て幸せそうに歩いている。
雪はまだ完璧に溶けきってはいないようだが、建物の影になった路肩をよく見れば残っている程度だった。
久しぶりの外の世界の空気を胸いっぱい吸い込むと、一緒の馬車に乗り込んだネウトと目が合い、笑顔を交わし合った。そういえば彼は、クリスタルバレーの街を歩いたことも、見たことすら無いのだ。街に溢れる途方もない数の人々を、おっかなびっくりといった様子で眺めている。
春の陽気に浮かれているのは、どうやらルディス達だけではないようだ。
拍手喝采が沸き起こる噴水の前に目を向ければ、旅芸人の一座が興行を開いていた。鮮やかな衣装に身を包んだ大道芸人が、歌や出し物を次々と繰り出しては街の人々を楽しませている。リュートの音とともに吟遊詩人の歌が聞こえてくると、隣に座っていたネウトは一層背伸びをして、目を輝かせて見入っていた。
北国にようやく訪れた春である。ハルモニア神聖国の首都クリスタルバレーは、いま正に春を謳歌していた。
「この泥棒犬が!」
突如、穏やかな陽気を切り裂くように商店街の一角から怒声が上がった。
声の上がった店の周りを取り囲むように、騒ぎを聞きつけた人々が集まり始める。そしてあっという間に、現場は人混みと騒然とした雰囲気に包まれた。
元々人通りが多かったがために、すぐに大通りは人が溢れ返ってしまった。こうなってしまうと人はともかく、幅を取る馬車はしばらく通り抜けは出来ない。ルディス達が乗る馬車も止む無く足を止めざるを得なかった。
御者が街人に何事かと尋ねるが、周囲の人々も何が起こったのかよく分かっていないようで、返答はどれも要領を得ない。立ち往生する馬車の中から、窓にかかるカーテンをめくって外を窺う。人だかりの間から垣間見える問題の店先に、怯えて涙ぐむ小さなコボルトの少女の姿が見えた。
「ちがうもん……ぬすんでないもん……! きれいなお花だからおかあちゃんにも見せたいなって、そう思って、見てただけなのに……」
少女は瞳から大粒の涙をこぼしながら、震える声色で釈明を試みている。だが仁王立ちで少女を睨む商人の男は、鞭を手に怒り心頭といった様子で聞く耳を持とうとはしない。
「ウルリケ!!!」
コボルトの少女の名を叫びながら現れたのは、大柄な男のコボルトだ。元々は北方の集落の出身なのか、銀の長い毛足を持つ狼のような姿は風格すら感じる。よく似た毛並みを持つ彼らは、おそらく血縁なのだろう。
野生の獣を思わせる雄々しい頭部をのせた体には、しなやかな筋肉がついている。日々の過酷な労働の中で出来たのか、麻の服から覗く手足にはところどころ痛ましい傷痕もあった。
等身は周りの人間たちと比べても頭ひとつ抜けており、人の輪の外から様子を見ているルディス達からも、顔を見ることが出来た。
彼は体格が上回るにも関わらず、小柄な商人の前で膝を折るとひれ伏すように額を地面につけて許しを乞い始める。
「どうかお許しを。子の不始末は親の不始末、罰は私がお受けします。ですからどうか、どうか娘の命だけは……!」
「ああ? 何を勝手なことを言っている、お前はこれからも買った値段分以上、働いてもらわなにゃらんというのに。処分するなら、まずは体力のない子供からというのは常識だろうが」
贅沢の負債として腹に蓄えた贅肉を揺らして、商人はせせら笑う。
「ふん。貴様が二人分働いていたから役立たずのガキも置いてやっていたが、もう我慢ならん。店の商品に手をつける奴隷なんぞ危なっかしくて使い続けられるものか! この場で処分してやる!!」
何事かと店先に足を止めた人々も、物々しいやり取りに眉を寄せてヒソヒソとざわめいている。
「可哀想に……」
「盗みを働いたって聞いたぞ?」
「コボルトだろう? 人間じゃないのに街中に置いておくのが間違いなんだ。鉱山にでも送ってやればいいさ」
店を取り巻く群衆が、口々に無責任な声を漏らしている。同情的に視線を送る者も居るが、そのほとんどはコボルトを奇異なものとして認識しているようだった。
この国では、人間同士でも待遇に差が生まれるのが普通だ。そんな中、人間ではない種族まで対等に見れる余裕がある方が珍しいのかもしれない。
「旦那さま、人も集まってきましたので、どうかその辺で……」
「うるさい! 貴様分からんのか!! 人前だからこそ、飼い犬の躾を徹底せにゃお客様に申し訳が立たんだろうが!」
商会の使用人らしき者が見かねて止めに入るが、商人は横暴な態度を変えようとはしない。
「…………今の言葉、訂正して頂きたい」
「なんだと?」
「我々は誇り高きコボルト族、犬ではありません」
「どちらも同じ顔をしているではないか。すまんが、人間様には見分けがつかんわい」
商人の言葉を受けて、群衆から心無い嘲笑が沸き起こった。
「くっ……一時の屈辱なら耐えよう、しかしこれはあまりにも……」
「分かるまで何度でも言ってやるよ、お前らは犬と一緒なんだ。扱いも生き死にも、どうするかは人間様が決めてやるさ!」
馬車の中から一緒に動向を見守っていたネウトが息を呑んだ。それは、事態が最悪の形に進みつつあることを、ルディスに教えるものだった。
「犬と……獣人と……蔑まれて生きる事が……」
それまで許しを乞う為に土下座の姿勢だったコボルトの男が、不気味なほど静かに、ゆらりと立ち上がった。
「誇り高きコボルトの血を受け継ぐ子供たちが、希望も持てずに家畜のように生きてゆくのが……!」
そのただならぬ剣幕に自分の置かれた状況を理解し始めた商人の男は、今ははるか上方に移動したコボルトの顔を身を反らして見上げている。
「それがどんなに苦しいことなのか、お前たちには分かるまい!!!」
唸るように牙をむき出しにして吠えたそれは、男の魂の叫びだった。
身の危険を感じ取って慄く商人の男は、完全に腰が引けている。恐怖のあまり、逃げるという行動すら頭の中から抜け落ちているのかもしれない。
「な、なんだ……? 飼い主に、も、も、文句があるってのか?!」
鍛え抜かれたコボルトの体は無駄のない屈強な筋肉で覆われている。対峙する肥え太った商人など、彼がその気になれば一捻りで終わるだろう。
この状況は、大人と子供ほどの力量がある相手を挑発した商人の自業自得とも言える。
しかし、たとえ憎しみのままに目の前の憎い商人ひとりを殺したしても、コボルト達に待ち受けるのは破滅の未来だ。
主人を殺して罪人になった奴隷が裁判を受けられる保証など有りはしない。強固な城壁の中で幼い子供を抱えて逃亡できる可能性は限りなく低く、引き取り手の居ない凶暴な奴隷は丁重に捕縛する価値もない。憲兵に取り囲まれた時点で彼等親子は打つ手なく、槍に滅多刺しにされる最期を迎えるしかない。
冷静にこの後起こりうる惨劇を思い浮かべながら、体は既に動き出していた。馬車の扉を力任せに開けて飛び降りると、御者の引き止める声も振り払い裾を掴みあげて走りだす。無我夢中だった。
4頭立ての目立つ馬車から降り立った法衣姿の女に、群衆は呆気にとられながらも反射的に道を開ける。そのまま人垣が割れて出来た道を進むと、店先へと土足で割って入った。
店の主もコボルトの親子も、奴隷の暴動を察知して逃げ出そうとすらしていた野次馬も、突然の第三者の登場に、束の間静まりかえっている。
店内にはブリキの花桶に入った春を代表する花々が所狭しと並び、ショーケースには美しく束ねられた花束が飾られていた。人だかりのせいで馬車の中からは見えなかったが、どうやらここは生花を扱う店のようだ。
商人の男は、修羅場に突如降り立った闖入者にしばらく目を白黒させていたが、野次馬から憲兵を呼ぶ声に混じって聞こえてくるルディスの名前を耳にすると、我に返った様子で声を上げた。
「こ、これは……司祭様」
流石は年季の入った商人。次から次へと起こる予想外の出来事に呑まれながらも、上客が来たのだと計算が得意な頭で事態を正しく認識した彼は、汗を浮かべながら商売用の薄笑いを向けてきた。
「当店にご入用でございましょうか? 日用使いからご贈答用まで、当商店でご用意できない花は……」
「これは何の騒ぎですか? 通りが塞がってしまったので、私も立ち往生しているのですが」
「いえっ、ウチの下働きのコボルトが盗みをしようとしたもので、再教育をですね……! 神殿のお手を煩わせるような事は何も……はい!」
後ろでコボルトの男が何か言いたそうに身じろいだが、低い呻きを漏らすに留まった。おそらく盗みを否定したかったのだろう。しかし怒気を削がれた彼は幾分落ち着きを取り戻したのか、今はそれ以上商人に詰め寄ろうとはしなかった。
気付けば泣いているコボルトの少女の隣にはネウトが立っている。ルディスの後を追って来たのだろうか。
「確かに良い品揃えですね、手に取って見たくなる気持ちも理解できます」
「は、はあ。左様でございますか」
絶えず冷や汗を拭いながら、チラチラとコボルトの男とルディスを見比べて商人は視線を泳がせる。いま彼の頭の中は、なんとか両方のトラブルをのり切ろうと、めぐるましく回転しているに違いない。
「あの……司祭様? 大変申し上げにくいのですが、只今取り込み中でして……できれば、ご商談は後日というわけには……」
「ええ、見ておりました」
近くにあったチューリップに手を添えて揺らすと、細く開いた花弁からは、春を告げる芳しい香りが立ち上った。
「な、な、なんでしょうか? 相応の金を払って買った奴隷をどうしようと、持ち主の勝手なのでございますよ?」
「ご安心ください、立ち入るつもりはありません。ただ……」
「……ただ?」
「こうして見てみると、段々この店の品が欲しくなってきました」
安心させるために笑みを乗せてそう語りかけると、商人の男の顔には目に見えて安堵の表情が広がった。早く売りつけて、この妙な客にお帰り頂こう。内心はそういった思惑があるのか、忙しなく指輪のはまった太い指を使って揉み手をしながら、今度は機嫌を伺うように欲に染まった品の無い笑みを向けてくる。
「お流石、お目が高くていらっしゃる。それでしたらもう、是非とも我が商会にお任せくださいませ。して……どのような品をご所望でございますか?」
「そうですね………では新しいご縁を祝して、この場に有る貴商会の物すべてを買い取りましょう」
「ま、誠でございますか?! 有難う御座います!!!」
思わぬ提案に喜びを隠しきれないのか、間を置かず出た返答は、美味い話に喜色満面で話に飛びつくものだった。
しかし、そこは流石商人。抜け目なく即興で作った契約の証書を差し出してきた。広げられた文面に文言通り『この場にある商会のすべての品』を譲渡する、という一文が書かれていることを確認すると、契約の締結を表すサインを記し入れた。これで、双方の納得の上で商談は交わされた事になる。
「とは言え、全部持って帰ることは流石に出来ませんね。すでに咲いている花は、この場に居る皆さんにおすそ分けいたしましょう」
それまで戦々恐々と事態を遠巻きに見ていた群衆は、降って湧いたささやかな恩恵に歓声を上げた。店の使用人たちが懸命に対応するが、ほどなくして店頭はごった返すかたちにになった。
そこで初めて、後方に立ち尽くしていたコボルト親子に話しかけた。
「これで貴方達親子の主は彼ではなく、私です。娘さんの安全は保証しましょう。その代わり、どうか彼を許して上げて下さい」
その言葉を聞いた父親は再び腰を落とすと、もう泣き止んでいた娘を愛おしげにきつく抱きしめる。娘の方はまだ何が起こったのか理解出来ないらしく、父親の腕の中で吃驚した顔をしている。
「な、何を……? お人が悪いですね、そんなお約束は交わしてなど……」
顔を引きつらせながらの商人の抗議を、さっき交わしたばかりの契約書を広げて跳ね除けた。
「私はこの場に有る”すべて”の物が欲しいと言いました。この契約書に描かれた『この場にある商会の品』、つまり財産には、土地と建物と備品、もちろん所属する奴隷も含まれていると解釈いたします」
つまり、文言の解釈のゆらぎに付け込んだごり押しである。
クリスタルバレーの大通りに店をかまえるほどの商人ならば、平素ならこんな基本的な失態は絶対にしないことだろう。だが命の危機に晒された状況下で急いで結んだ契約は、じっくりと腰を据えて交わした商談とはまったく違う。平穏な日々を過ごしていた者が急に戦場に放り込まれれば、どんなにいつも通り振る舞おうとしても、そこには必ず隙が生まれる。それが人間というものだ。
人の不幸につけ込んだ詐欺まがいの手口だが、相手が相手だけに、良心の呵責は湧いてこない。
たとえ後々訴えられたとしても構わなかった。今消えようとしている、ふたつの命さえ助かるならば。
「そ、それは……で、ですが!」
「……では、商談は無かったことにして先程の続きをなさると言うのですか?」
ルディスが引き下がれば、商人の男とコボルトの間には遮るものは無くなる。再度大柄なコボルトと対峙することになった商人は、蛇に睨まれた蛙のように止めどなく脂汗を流して立ちすくんだ。
大きな商談を持ちかけられてもルディスを一貫して追い払い、コボルト達を罪に問わず失言も撤回すれば、金は入ってこないが命は助かった。あるいは、恥を覚悟で一緒にコボルトを捕らえて欲しいと縋る方法もあったのかもしれない。
だが悲しい商人の性なのか、彼はどうあっても金を手に入れる道を捨てられなかった。男の提示した取引金額は店頭に並んだ商品の合計であるから、建物や土地、そして奴隷まで含めるとなれば大損だろう。
商売において、契約は絶対。そして主導権は今やこちらの手中にある。交渉事において主導権というものがどれほど重要であるかを、それを持たないがために辛酸を嘗めてきたルディスは身を持って知っていた。
命と、金。そのどちらも手に入れようと欲をかいた結果、彼はどちらかを失う究極の選択しなければならなくなってしまった。
「…………分かりました。今日からこの店は貴女のものです、司祭様……」
金も商いも、命あっての物種。傲慢な商人にも、そのくらいの分別は残っていたようだ。追い詰められた哀れな商人は降参を示すように力なく膝を落とした。
人混みを掻き分けてようやく現れた憲兵が、花を持ち帰える野次馬達を散らしていく。人の波が過ぎ去ると、店頭にはもうほとんど商品は残ってはいなかった。
隊長らしき人物に騒ぎの経緯を簡単に説明したあと、まだその場に座り込んでいた元店主の男を差して後を任せた。
「これは貴女の分」
「受け取っては駄目だ!!」
店の奥に飾ってあって立派な花束をコボルトの少女へと渡そうとするが、喜んで受け取ろうとした少女の動きを制止したのは彼女の父親の声だった。
「すまないウルリケ……我慢するんだ。娘の命を助けていただいたことは感謝しております。ですが我々はたとえこの国で奴隷と呼ばれても、物乞いではないのです。施しは受けません」
静かな怒りと誇りの宿った燃えるような瞳が見返していた。
「……貴方の言う通りです、非礼をお侘びします。ではせめて、送らせてください。奥様はどちらに?」
「妻は数年前に流行病で死にました。娘が言っているのは墓前に添える花の事です」
「奥様が亡くなってからは貴方ひとりであの子を?」
「はい、司祭様」
警戒心の残る固い声色で彼は答え続ける。人を決して信用しようとはしないその姿は、まるで、奴隷に善意で優しくしてくれる者など居はしないのだと語っているようでもある。
「あなた方を売買するかたちになった事も謝りたい。本当はお金なんかじゃなくて、もっと良い方法があれば良かったんだけど……」
この言葉すらも、彼等には言い訳がましく聞こえているのだろうか。あの場を丸く治める知恵が、今の自分には他に無かった。ただそれだけの事ではあるが、もし自分が彼等と同じ立場だったなら、鎖に繋がれ奴隷として売買されるなんて、耐えられるだろうか。
お互いだけを大切そうに肩を寄せあう姿を見ると、まるで彼等の見えない心の傷さえも見えてくるようだった。
*
立派な石の墓が立ち並ぶ墓地の奥に、雑草が伸び放題の荒れた丘が見えてきた。 丘の上は遠目には枯れ木が生えているように見えていたが、近づいて見るとそれは、不規則に立ち並んだ木の十字架だった。どうやら手前の敷地は人間用の墓地で、奥の荒れ地は奴隷として死んだ亜人達が埋葬される場所のようだ。
折った平板を組み合わせただけの粗末な墓標の根本には、よく見ると所々木彫りの人形が供えられている。
「かわいい人形だね」
「これ? おまもりなんだよ、おねえちゃんにあげる!」
コボルトの少女が、携えていた人形をルディスの手の上に乗せた。
手を合わせて笑っているようなコボルトの人形は、よく見るとこまやかな細工が施されていて、手で包むと暖かな木肌の感触が心地良い。コボルトたちの素朴で優しい祈りが込められているからだろうか。
「貰ってもいいの? 大切なものなんでしょう」
「うん、おかあちゃんにはまた作ってあげるんだ」
「……ありがとう」
辛い立場にあっても他人を労れるのは、紛れも無く強さだ。コボルトの少女の優しさに、そう素直に思えた。
「私もお返ししないといけないね」
買い上げて持ってきた花の種。その中から目当ての物を見つけると、足元の土を一握り拾い上げて呪文を紡いだ。左手の〈涙の紋章〉から注がれた回復魔法によって芽吹いた種子がやがて花に変わる頃には、コボルトの親子は驚いたように目を釘付けにして見入っていた。
「今度は受け取ってくれたら嬉しいんだけど……」
目の前で咲かせたばかりの一輪の花を差し出すと、コボルトの少女は許しを得るように父親をに見上げた。花束を差し出された時は拒絶していた父親も、今度は優しく頷き返す。
「ありがとうおねえちゃん、おかあちゃんにあげてくる! 行こう!」
そして少女はいつの間にかちょっと仲良くなっていたネウトと一緒に、墓地の中を駆けて行った。
「何のご病気だったんですか?」
「分かりません」
「分からない?」
「医者にはかかっておりませんでした」
「薬は? 薬も効かなかったの?」
「我らに手に入る薬では間に合わない重い病でした。しかし高価な特効薬を我らコボルトにくださる奇特なハルモニア人などおりません。出来たのは、手を握ることだけでした」
初めて、篭っていないで外に出ろというフュルスト卿のすすめを、心の底からその通りだと感じた。
自分は彼等の存在を知りはしても、彼等の現状をあまりにも知らなかった。そしてそれは、外に出なければずっと知らないままだったことだろう。
「……ごめんなさい。きっとおかしな事ばかり聞く、世間知らずな女だと思われているんでしょうね」
「たしかに貴女様はおかしな方だ。何の特にもならない奴隷を、一時の酔狂で助けるとは」
「酔狂で助けたつもりはない。死んだように生きるくらいなら戦って死にたいと願っている人なんだと、あの時そう思ったんだ」
そしてそんな人だからこそ、今度こそは助けたかった。
「でも、死んではいけない。貴方が居なくなれば、悲しむ人がいる」
「娘が殺されるならば、共に死ぬつもりでした。あの子以外に私の死を悲しむ者はもうこの世には存在しません」
「私はあの人のように上手くは言えないけど……今はあの子と私のために生きて欲しい。今日またひとり、貴方の死を悲しむ者が生まれたんだから」
「………ようやく分かったような気がします。きっと貴女は、まだハルモニアに染まってはいない方なのですね」
「どうか私に力を貸して下さい」
向き合って右手を差し出すと、彼は巨躯を静かにかがめて片膝を、そして拳を大地に付けて跪いた。
「我ら親子を、娘を助けて頂き感謝の言葉もありません。我が名はヴォルフ。気高きコボルトの血を引く者として貴女にお仕えいたしましょう」
それは気高き戦士の宣誓だった。もう地面に平伏す必要はないのだと、少し強引に手を取って立ち上がらせる。遠くから、墓前に花を添え終えたネウトとウルリケが手を振っていた。
「我らが子孫の行く末を、どうかお頼み申し上げる」
「何やら少しばかり、騒ぎがあったようですね」
コボルト親子を助けた翌日。再びフュルスト卿の執務室へと顔を出すと、予想はしていたが、少しばかり固くなった声色に迎え入れられる事となった。
今回は前回とは違って厳しい顔をされることは分かり切っていたので、ネウトは同席させていない。人一倍他人の感情に聡い彼に、優しいはずのフュルスト卿の説教など聞かせたくはなかったからだ。
付いて来たがったのに部屋に置きて来たのは罪悪感が残るが、侍女のステラが責任を持って面倒を見ると言ってくれたので、そちらはそれほど心配はしていなかった。ステラもどこか笑顔の裏に謎を秘める人物だが、つまらない嘘を吐くような相手でもない。信頼関係を構築すると決めた以上、彼女を信頼して任せる事にした。
戻ったその日のうちに神殿へ上げた報告書には「街中での暴動を抑える為に、憲兵が来るまで時間稼ぎを行った」と答えてある。
しかし目の前の老婦人の面からは、柔和な笑みは消えており、今は穏やかさの中に厳しさを帯びたものへと変化している。元より隠すつもりもなかったが、本当は何が起こったのか、既に彼女の耳には届いていると考えた方が良さそうだった。
「申し訳ありません。成り行きで少し無茶をしました」
外に出る事を勧めた以上、彼女も責任を感じているのかもしれない。そう思って素直に謝罪の言葉を伝えると、返って来たのは、労りすら感じ取れる優しげな声色だった。
「まあ……どうか顔をお上げになって。わたくしも、頭ごなしに責めようという訳ではありませんのよ。どうやら、目に写ったこの国の現状が貴女を突き動かした、という事かしら?」
己の目と耳で感じた事を教えて欲しい。あの時、彼女はそう言っていた。それを思い出しながら、やや間を置いて答える。
「そのような立派な理由で動いた訳ではありません。自分の目の前で起こった事を、ただ見ていることが出来なかっただけです」
「罪も無い者達が不当に苦しむ光景を見過ごせなかった。そうですね?」
2度目の問いには、躊躇なく首肯を返した。
「買い上げた店はどうなさるおつもりかしら?」
「近いうちに手放そうと思っております。私が持っていても仕方がありませんので……」
何しろ、コボルト親子を助けた引き換えに、多額の代金を支払っている。ササライの元で下働きをしていた時の報酬やら、神殿に属してから得た金品などを合わせても、手元の資金は底をついてしまった。
何をするにしてもお金は必要なのだろうし、多少なりとも現金が入ってくれば良いと思っての判断だった。
元より商売をするために手に入れたわけではない。大通りに面した一等地と立地は良いので、売りに出せば買い手はつくことだろう。
「あら、それは少々惜しいですわね。……では、こういうのは如何がかしら?」
彼女の提案はこうだった。まずフュルスト卿の紹介した商人に、持て余している店舗で商売をする権利”だけ”を売る。商人は実質的な経営をするが、店舗や土地の所有権は引き続きルディスが持つ。つまり、第三者が営む店のオーナーになるわけだ。
その店が軌道に乗って継続した利益を上げるようになれば、こちらも安定した収入が得ることが出来るという趣旨だ。
理屈は分かったが、勝手にそんなことをしても大丈夫なのだろうか。もし問題有りと見做されて神殿からストップがかかれば、せっかくのアドバイスも無駄になってしまう。
「そんなことをしても、問題ないのでしょうか?」
「心配はありませんよ。この国では、力ある者が後ろ盾として支援者になるのは、ごく自然な行為なのですから。そして神殿内に限らず神殿派と民衆派は、常に優位に立つための方策を巡らせています。それはクリスタルバレーにおける経済の流れにおいても例外ではありません」
一等市民が利権を独占する、ハルモニアならではの構造なのだろうか。
なんとなく、2色の石が卓上で陣取りをしているボードゲームを思い浮かべた。実際はもっと複雑なのだろうが、この場合は、商業という分野のボードに民衆派の勢力の石をひとつ増やすということになるのだろう。
「どのような分野であれ、権利の独占が起きれば正常な機能が失われます。神殿派に”聖域”を作らせないことこそが重要なのですよ」
表からは見えなくとも、成功している商人はみな誰かしらの大物と繋がっており、後ろ盾を得る代わりに見返りを献上している、という図になるのだろう。
その情報を踏まえると、今まで普段何気なく買い物をしていた店も、もしかしたら一見分からないように繋がっている貴族や将軍の資金源のひとつだったのかもしれない、などと、ぼんやりと考えた。
そして、気が付いた。
「私が結果的に無理やり潰してしまったあの店にも、後ろ盾が居たかもしれないのですね」
「その通りです。念のため調べさせたのですが、誰が後ろに居たのかは掴むには至りませんでした。出来れば禍根を残さぬよう処理したかったのですが……」
コボルト親子の主人であった商人は、既に姿を消したという。どこに行ったのかも分からないのでは、見つけ出すのは困難だろう。
その気になれば、足取りを探ることも可能なのかもしれない。しかしクリスタルバレーから出たのならば、広大なハルモニア中を探さなければならない。他国へ渡ったのなら、それこそ追跡に長けた傭兵や暗殺ギルドの者を雇い、数年がかりで追う事になるだろう。
ただの商人相手にそこまでするのは、ちょっとやり過ぎになってしまう。
いずれにせよ、今回の一件で意図せずに、その人物の資金源をひとつ潰してしまった事になる。今のところ表立って抗議は来ていないが、だからといって恨みを買っていないとは限らない。
相手が大商人か貴族か、はたまた神殿関係者なのかは分からない。これが結果的に、後ろ盾だった謎の人物との間に、確執を生む原因とならなければ良いのだが。
「過ぎた物事ばかりにとらわれていても仕方がありません、これからの事を考えましょう。貴女はこれから、どうなさりたいの? 今まで通り神殿の中でだけ過ごしたいのですか? それとも……」
歳月を経て色素の薄まった青が、向かい合うこちらをひたと見据えた。いっそう強い眼差に射抜かれ、理解する。彼女は、ルディスがどのような人間なのかを問いかけているのだ。
地位を持つ者としての責任を果たせるのか。それとも、現実を目の当たりにして尚、安全な場所で膝を抱えて震えている臆病者なのかを。
答えならば、もう決まっている。
知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れない。知らないふりをするつもりもなかった。
「現状私に出来ることは少ないですが、この街で苦しんでいる人たちを助けていきたいと思っております」
ハルモニアに数えきれないほど居ると言う弱者を救う術など持ってはいないが、この街の中で困っている人達を少し助けるぐらいなら、自分にも出来るかもしれない。
「良いお返事ですね。貴女ならきっとそう言ってくださると、わたくしは信じていましたよ」
フュルスト卿は生徒を褒める教師のように晴れやかに告げると、本日初めて見せる気持ちの良い笑顔を浮かべた。
そんな風に持ち上げられれば、悪い気はしなかった。その辺りは年の功と言うべきか、ササライよりも人を褒めるのが上手な印象だ。
「ですが、今の私に出来る事は何かあるのでしょうか? 店舗を運営する事でいずれ資金を得られるのは理解できましたが、それはもう少し先の話になりそうですし……」
先ほどの、商売できる権利を売るという話は、出店の権利を付けた賃貸契約のようなものだ。だとすれば、最初から大金が舞い込むなんて期待はしない方が賢明だろう。
それに新しい物事を始める時には、どうしても人手が必要になってくる。新しい仲間も探さなくてはならないだろう。まずはコボルト親子をはじめとした仲間達を食べさせる事に、当面の収入を当てるべきだ。
今すぐ何かしらの行動を起こしたいのならば、誰かの助けを借りるしか道はなさそうだった。
助けと言えば聞こえは良いが、露骨な言い方をすれば金を借りるということだ。そうなると、そんな情けない頼みを言えそうな人は限られてくる。
そう考えてすぐに浮かんだのは、ササライの顔だった。だがつまらない意地かもしれないが、早速泣きついたと思われるのも抵抗があった。それに、いつまでも頼り切りだとは思われたくはない。
となると、まさか彼の下で働くディオスやレナに頼むわけにもいかないだろう。
質素な生活を送るラトキエ家やジルに、我儘同然の借金の申し入れをするなんて言語道断だ。
そうすると必然的に、残るはフュルスト卿になってしまう。
「これは老婆心ですが……予め申し上げておきますと、私から貴女への金銭的な援助は出来かねますの。もちろん、他の誰かに軽率にそのような頼みごとをするのも、お止めになった方がよろしくてよ」
「難しいでしょうか?」
「相談役ならと、最初に申し上げましたでしょう? 時に煩わしくもなりますが、神官将ともなると、私的な金銭の動きすら気を配る必要が出てくるものなのですよ」
心を読まれたように釘を刺されてしまった。
ササライに頼んでも、結局断られていた可能性が高いと言うことだろうか。
「そうなると、しばらくは出来る事は無いのでしょうか……」
「あら、お忘れかしら? 貴女は司祭なのですよ」
落胆をおぼえて俯くと、少しばかりいたずらっぽい声が降ってきた。
「もし三等市民の救済に本気で取り組むおつもりがあるのならば……。西地区のはずれにある、クロッツェオという名の教会に行ってごらんなさい。今は管理する者も居ない、スラムの中に建つ朽ち果てた小さな教会です。その教会を立て直す名目ならば、神殿の許可と多少の支度金も下りましょう」
そういえば、以前ジュニアは教えてくれたではないか。内政を行うのが神官ならば、現場仕事は司祭の領分なのだと。
今は円の宮殿の大聖堂付きという事になっているルディスが、街の中の教会へ出向するという形ならば、確かに筋は通る。
「でも、そう上手くいくでしょうか? 今までは外に出ることすら難しかったのに」
「貴女が外に出ることは、見方を変えれば神殿にとっても有益に繋がるのですよ。私の方からそのように口添えをしておきましょう」
彼女の言う「神殿にとっての有益」が何なのかは、いまいち分からなかったが、この方法を取るのであれば彼女に任せてみるしか無さそうだ。何しろ自分はこの国のやり方など知らないのだから。
なんだか一人で思い悩んでいた事が、この数分でトントン拍子に決まってしまった感がある。もしかしてこの老婦人は、本当に親身になって、色々な手段を用意してくれていたのかもしれない。
「どうか、困難に突き当たっても貴女が挫けることなきよう、祈っておりますわ。思えばわたくしの原点も、今の貴女と同じように民を憂う気持ちが生まれた瞬間でしたもの」
「卿は民衆派貴族のご出身だと伺いました」
「ええ。その通りです」
「何故、三等市民の地位の向上に尽力されるようになられたのですか?」
貴族の令嬢ならば、社交界で着飾り良縁を得て嫁ぐのが普通だ。そうすれば、何不自由ない生活を約束される。にも関わらず、彼女は政治の世界に飛び込んで神官になっている。
「わたくしは元々、修道女でしたの」
跡継ぎではない良家の子が修道士の道を選ぶことは珍しくはない。しかしその多くは、高貴な血筋でありながら出生を明らかに出来ない者達、いわゆる私生児や不義の子といった、そこ以外には居所のない者たちだ。
彼女はそういった事情ではなく、自らの意思で聖職者の道を進んだというのだから、覚悟の程が伺える。
若いころに偶然知った三等市民の窮状を疑問に感じて教会に身を置き、不遇の者たちに接することで、この国の現実を目の当たりにしたのだという。
「誰かが変えなければならないと思ったの」
「その志を叶えるために、貴女は神官になったんですね」
そして神官将にまで昇りつめた。女性が高位の神官になることも珍しいそうだが、一介の修道女が神官将の座に座るのは異例の事だったという。
「ええ。その代わり、自分の家庭を持つことは叶いませんでしたが……。此処は生半可な気持ちで立ち続けられるほど、優しい場所ではなかったから」
憂いを帯びた淋しげな表情に胸が締め付けられた。高い理想の実現の為に、この女性は自分の人生までをも犠牲にしてきたのだ。
もしそこまでの覚悟のあるのかと問われれば、まだ分からないとしか答えられない。
「そんな顔なさらないで。今は民がわたくしの子なのですよ。それに、ササライ殿のような教え子を得られたのですもの。そして貴女達にも出会えた。わたくしは幸せ者ですよ」
*
壁数枚を挟んで面する賑やかな大通りの喧騒とは裏腹に、ほとんど荷物が置かれていない広々とした空の倉庫は、どこか寂しげにガランとしていた。
一連の出来事から数日が経過した今、少し前まで生花店の倉庫として使われていた空間に有るのは、片隅に置かれた少々の資材と、残しておいた花の種くらいのものだからだろう。
フュルスト卿と取り決めた話は動き出してはいるものの、先方にも予定があるらしく、まだ搬入などは始まっていない。ここがたくさんの人が賑わう店舗として再び息を吹き込まれるのは、まだ先の予定になる。
結局この建物は今は、元々ここで働いていたヴォルフとウルリケのコボルト親子に管理を任せている。
それ以外で特段変わったところと言えば、何と言っても、上の階の部屋を間借りして住んでいる人間が加わったことだろう。
目の前に立つ、その二人の新たな仲間を仰ぎ見た。二人ともルディスより背が高いので、自然と目線は上になってしまう。
ひとりは背中に大剣を背負った、金の髪と空色の瞳を持つ剣士。眼鏡をかけた知的な印象の彼の名は、ランスロット・マリィ。クリスタルバレーにある貴族の子弟が通う騎士学校で剣術指南役を務めていた青年だ。
もうひとりは白く丈の長いフード付きマントを羽織り、その下にガンと呼ばれる武器を忍ばせた女性。名はエルザと言い、ほえ猛る声の組合の従者級ガンナーなのだと言うが、今のところ彼女については、それ以上の事はまだよく分からない。
彼女との出会いもまた奇妙で、例の教会までの道を下見に行った際に、道端に瀕死の状態で倒れていたところを発見して保護をしたのだ。その後目を覚ました彼女は、介抱を受けた礼だと言って破格の要人警護の契約に同意してくれたが、名前以外の一切の自分についての情報は語ろうとはしなかった。
かつてササライの元で過ごしていた間に傍に居てくれた青年は言っていた。騎士学校で剣の腕を、そして暗殺と護衛を担うギルド『ほえ猛る声の組合』で工作員の技術を学んだのだと。
だからそのふたつの機関に足を運べば、もしかしたら彼のように頼もしく、尚且つ力になってくれる者に出会えるかもしれないと考えた。
そしてそれは正解だった。この短い期間で、信頼できそうな頼もしい仲間を二人も勧誘する事に成功したのだから。
どちらもルディスよりもずっと腕に覚えのある頼れる戦士だ。これからきっと、力になってくれるだろう。そう、思ったのだが……。
「貴族の坊ちゃんに、要人警護が務まるのかね……」
「それはこちらの台詞だな。悪名高い”ほえ猛る声の組合”の者ならば、守るよりも殺しの方が得意なのでは?」
手を取り合って支えてくれるはずの仲間達は、顔を突き合わせるなり距離を取って、互いに疑いの視線を送り合っている。漂う険悪な雰囲気の中、二人の顔を交互に見た。どうやら、ウマが合わないというやつらしい。
騎士の教育を受けてきた潔癖な一面もあるランスロットと、裏の世界で暗躍するギルドで戦ってきたエルザでは、生きてきた場所が正反対ならば考え方も真逆のようだ。
世の中には息の合う仲間同士が繰り出す協力攻撃というものもあるそうだが、この様子では期待出来そうにもない。
これからずっと一緒に行動してもらうのに大丈夫だろうかと思ったが、考えてみればまだ出会って間もないのだから、仕方のない部分もあるのかもしれない。時間とともに打ち解けてくれるのを期待するしかない。
「お兄ちゃんたちまたケンカしてるの? ケンカしちゃ、ダメなんだよ!」
奥の部屋から出てきたコボルトの少女ウルリケが、エルザとランスロットを大人ぶってたしなめた。大人気なくいがみ合っていた大人達は純真な少女の正論に、反論も出来ずに首を揃えて恥ずかしそうに閉口した。
彼女は最初に会った時のはボロボロの粗末な服ではなく、街を歩いている人間の少女と同じような格好をしている。おそらく彼女を溺愛している父親が買い与えたのだろう。心無しか毛並みも良く見えるし、明るい表情からは前のような陰は微塵も見当たらない。酷い環境から解放されたからこその変化だろう。
一方、一緒に出てきたネウトの方は、臆病な野生動物の如く、まだ見慣れない顔を不思議そうに見上げるばかりだった。
歳はそれほど離れていないように見えるのに、どちらかと言うとウルリケの方がお姉さんっぽく振舞っている。女の子の方が精神が早く大人に近付くとは聞いたことがあるが、大人しいネウトと比べると、元々快活な子なのかもしれない。
「準備が整いました」
最後に巨躯を扉に潜らせながら姿を表したヴォルフが、出発の時を告げた。
これから向かうのは、西の城壁の外に広がるスラム。その只中に建つ、クロッツェオ教会だ。神殿の許可が出るまで待っていたので、ようやくこれから足を踏み入れることになる。
「じゃあ、行ってきます」
表に待たせていた馬車に4人で乗り込むと、見送りに出てきたコボルトの親子を振り返る。
「留守はお任せ下さい。どうか、お気をつけて」 「いってらっしゃあい!」
流れ出した景色のなか後方を見遣ると、コボルトの少女がフサフサとした蒲公英の綿毛のような体毛を揺らしながら、やがて姿が見えなくなるまで元気良く手を振っていた。
2015年11月11日初稿作成
2020年07月01日サイト移転