Ⅺ クロッツェオ教会
光が強いほど、影もまた濃くその色を落とす。
影は見る者に、ただ静かに語りかける。
どんな物事にも表と裏が存在するのだと。そして輝かしい英華とは、数多の犠牲の上に成り立つものだということを。
中心街をぐるりと取り囲む城壁を抜けて、西部郊外のスラム化した地域に一歩足を踏み入れると、目に入って来たのは、困窮する人々が建てたと思われる板を継ぎ接ぎした掛小屋のような粗末な家屋が、無秩序に広がっている光景だった。
大通りの脇に目を転じると、川と呼ぶには水量の足りない沢を濁った泥水が、申し訳程度に窪みをつたってゆるゆると流れている。
人気の少ない道の奥では、痩せ細り肋の浮き出た一匹の犬が立ち止まって、振り返る格好でこちらを見ていた。首輪を付けていないので野良なのか飼われているのかも分からないが、その瞳に浮かぶのは哀れみを誘うような悲しげな色だ。
中心街のどこもかしこも清潔で洗練された町並みと比べてみても、とても同じ街とは思えない。首都クリスタルバレーの中心部と郊外では、豊かさに雲泥の差があるのは一目瞭然だった。
まるで、この国の有り様そのものを象徴するような光景だ。これがその名を大陸に轟かせ、歴史に栄光を刻んで来たハルモニア神聖国の本当の姿なのだろうか。
豪奢な宮殿や繁栄の象徴たる中心街が日向ならば、人々の間に横たわる貧富の差が浮き彫りになったこのスラム街はまさに、首都クリスタルバレーの陰になるのだろう。
初めて見るスラム街が物珍しくて眺めていると、突如、背後から体当りするような形で二人の子供が飛び出てきた。
「な、なんだ!?」
最初にランスロットに、そして次にエルザに。無言のまま少々派手にぶつかった少年たちは、こちらには目線もくれずに逃げるように走り去って行っていく。
「あっ、君たち……って、行っちゃった……」
呼び止めようと声を投げかけた二つの背中は、入り組んだ路地へと飛び込んで、たちまち見えなくなった。
「人にぶつかっておいて謝りもしないとは、感心しませんね」
子供たちの不作法に立腹しているランスロットの眼前に、エルザが呆れたように手を突き出した。
「ほら、あんたの財布だよ」
「なにを言っている。私の財布ならちゃんとここに………あれ?」
彼女の指先にぶら下がっているのは、硬貨の擦れる音が鳴る小さな袋だ。半信半疑で懐を確認したランスロットの顔色が、見る間に青ざめていく。どうやら彼女が持っているのは、本当に彼の財布で間違いないようだ。
「まさか……今の子供たちが?」
「そのまさかさ。次からは用心する事だね、貴族のおぼっちゃん」
さっきの少年たちが、この辺りで見かけないルディス達をスリのカモに狙ったのだろう事。そしてランスロットがそれにまんまと引っ掛かり、みかねたエルザが盗み返した事。こういった裏路地での荒事にも慣れている様子のガンナーの女は、懇切丁寧に説明してくれた。
「どうしてぬすむの?」
「それが彼らにとって、もっとも簡単に金を手に入れられる手段だからです」
「でもそれで捕まったりでもしたら、大変だよ……」
けして裕福とは言えない身なりの少年達の姿が、クリスタルバレーに来たばかりの頃に飴玉を分けてあげた孤児の姉弟と重なった。城壁の中に忍び込むことも出来ない子供たちにとっては、物乞いよりも窃盗の方がはるかに現時的な方法なのかもしれない。
しかしたとえ相手が幼い子供であったとしても、ハルモニアは法を冒す者を決して許しはしないだろう。捕まれば裁きに晒され、容赦なく厳しい処罰を課される事になる。
とてもではないが、割に合う行為だとは思えなかった。
「真っ当な方法では生きられない者たちが、この国には掃いて捨てるほど居る……それだけの事です。さあ、教会はこの先です。行きましょう」
ネウトとルディスの疑問に順に答えてから何事も無かったかのように歩きだしたエルザを、今度はランスロットが引き止めた。
「ちょっと待て、ガンナー。あのスリの子供たちを放っておくのか?」
「……追いかけてどうしようって? まさか捕まえようって言うのかい、この入り組んだスラム街の中を」
小さな盗人たちは、とっくに取り逃がしてしまっている。今更土地勘もない者が闇雲に追い掛け回しても、たしかに捕らえられる見込みは限りなく低いだろう。エルザならもしかしたら可能なのかもしれないが、彼女にその気が無いのは火を見るより明らかだった。それを理解した青年が答えに窮すると、彼女は続けて冷ややかに言い放つ。
「それにひとりやふたり懲らしめたって、きりが無いのさ。自分一人の身を守る方法を覚えた方が早いんだよ」
その言葉は今さっき遭遇した些細な事件が、考えているよりもずっと根の深い問題である事を示しているようでならなかった。この場は、彼女のお陰で仲間の財布が戻って来ただけでも、良しとするべきなのだろうか。
心にわだかまりを抱えたままスラムを通り過ぎて街外れへ出ると、すぐに目的地へと辿り着いた。
「……ここって、おばけやしき?」
崩れかけた教会を見上げた少年の言葉は、その場に居た者の総意だろう。
今まで管理する者も居なかった小さな教会は、すっかり寂れた廃墟と化していた。長年放置された敷地には下草が生い茂り、そこに斜めに傾いだ十字架が不規則に立ち並んでいる様は、たしかにそのまま怪談話の舞台に出てきてもおかしくなさそうだ。
前庭は瓦礫の山で埋め尽くされて、通り抜けるのも一苦労だった。礼拝堂に通じる階段も、そこかしこに砕けた石材が転がっている。
ようやく壊れた長椅子が散乱する礼拝堂に足を踏み入れると、半数の窓はただの風穴と化しているし、天上はほとんどが抜け落ちてしまっていた。
雨風に晒されて荒れ果て、朽ちるにまかせるその姿からは、時の流れの無常さまでもが伝わってくる。
しかもよく見ると壁や長椅子には、何故か小さな穴がいくつも空いていた。床の中心には放射状の爆発の爪痕が広がっているし、礼拝堂の正面には倒れた石像が転がっている。明らかに人の手によって破壊された形跡だ。
「ここで一体何があったんでしょうか?」
「これは銃痕だね。昔ここで小競り合いでもあったんだろうさ」
「銃痕ってことは、ガンナーが出入りしてるって事?」
「たしかに邪魔が入らない頃合いの場所ですが……ここが神殿の管轄に戻れば、組合も不用意な手出しはして来ないでしょう」
あまりの惨状に青年とルディスが疑問を呈すると、エルザがそれに簡潔に答えた。
一通り敷地内を見て回ったが、クロッツェオ教会は聞きしに勝る悲惨な現状……もとい、ボロ教会だった。元は小さいながらもそれなりに立派だった名残も伺えるが、少なくとも三十年はたっぷり放置されていたとの前情報通りの、荒れ果てた廃教会である。
この場所をもう一度人の集まる施設に立て直すには、まずは掃除から始めなければならないだろう。
「よし、まずはこのあたりの住民と話をしよう。挨拶もしたいし」
「そうですね。周辺住民の協力を得られれば、このおんぼろ教会の修復作業も少しは捗るでしょう」
何から手を付ければ良いのか途方に暮れていた仲間も、その提案に概ね賛同してくれた。
「協力………ね」
ただひとり、浮かない顔のままのエルザを除いては。
段取りの交渉役はエルザにお願いすることになった。どう考えても、彼女がこの中で一番適役だったからだ。彼女は一人で教会から出て行ったかと思うと、すぐに数人の住人を連れて戻って来た。どうやらスラム街の顔役のところに話を通しに行ってくれたようだ。
その後は人伝に話を聞きつけた住人がぞくぞくと集まって、寂れた教会の礼拝堂は最終的に数十人が詰め掛ける満員御礼となった。入りきれずに外で待っている者まで出て居る。
潰れてからのクロッツェオ教会にこんなに人が来たのは、多分初めての事じゃないだろうか。
一段高くなった説教台に立つと、集まった顔ぶれがよく見えた。肌の色も髪の色も顔形も様々で、雑多な人種が住んでいる事が伺える。半壊した教会に集められたスラムの住人達は、一様に期待と不安が入り混じった表情を浮かべていた。
「……あんた、ここいらじゃ見ない顔だね」
「はじめまして、私はこの教会を立て直しに来た司祭です。今日は着任のご挨拶と、皆さんに今後の活動のご協力をお願いしたく参りました」
幼い子供を抱えた女性の疑り深い誰何に答えると、何故か困惑を含んだ低いざわめきが広がった。
「何の話だ?」
「この教会を立て直すだって……?」
その様子を見てとった傍らの少年が、怯えるように一歩後退りをした。
「みんな、おこってる……」
「えっ……?」
その言葉の意味を問いかける暇もなく、スラム街の住人達から再び、質問が投げつけられた。
「そんな事よりも、早く税を軽くしてくれないかね。そうしたらお祈りでも何でも喜んでやってやるからさ」
「あの……申し訳ないのですが、そういった事は、私には勝手には決められないんです」
「どういう事だ? あんた、陳情書を見て来た新しい役人じゃないのか?」
「いいえ、そのような話は聞いていませんが……」
どうにも話が噛み合わない。だがどうやらルディスが、彼等が待ち望んでいた人物ではないことだけは確かなようだ。
彼等からの一方的な要求の内容から察すると、おそらく事前に望んでいた税の取り決めの話し合いに来たと思われてしまったらしい。こんなに人が集まったのも、直談判が出来ると思い込んで大挙して押し寄せて来たとすれば納得が出来た。
「私たちは、皆さんの手助けが出来ないかと思ってここに来ました。今は無理ですが、ゆくゆくは税の交渉も出来るように力を尽くします。そのためには、まずはこの教会を拠点として使えるように立て直したいんです」
「アンタなあ、なに突然現れて言いたい放題言ってくれてんだよ。この冬の間、何人の子供が飢え死んだのか知ってんのか?! 今まで俺たちの事なんか見向きもしなかったくせに、今更手助けだの協力だの言われたって、納得なんて出来るかって話だよ!」
「税の取り立てが苦しくて、こっちはろくに食べるものもないってのに……」
「ただでさえ生活が苦しんだ。つべこべ言わず、今すぐ何とかしてくれよ!!」
「……やっぱり、無駄だったか」
興奮状態にある人間の感情の発露は、容易く連鎖してしまう。堰を切ったようにそれまでの鬱憤を爆発させた群衆は、競うように口々に不平不満を発し始めた。一触即発の雰囲気の中、エルザの舌打ちだけがやけにはっきりと聞こえた。
非常に不味い事態に発展してしまった。とてもではないが、話を聞いてもらえる状況ではない。
ただならぬ雰囲気を感じ取って庇うようにネウトの前に移動すると、エルザとランスロットが更にルディスの盾になる形で脇を固めた。二人とも万が一の事態に備えて、武器の柄に手を伸ばしている。
彼等は護衛の仕事を全うしようとしているだけだ。しかし協力を仰ぐために顔を合わせたのに、一度でも武力に訴えれば、ただでさえ神殿に不信感を抱えたスラムの住人達との関係の修復は不可能になってしまう。
「みなさんどうか落ち着いてください、私たちの話を聞いてください!」
衝突を避けるために声を張り上げるが、敵視されている自分達の言葉では、この場を治めることは出来そうにもない。このままでは……。
「よさんか!!!」
その時、力強い激が群衆の後方から上がった。
その声を境に礼拝堂を埋め尽くす抗議の声がぴたりと消えて、あたりが静まり返る。頭に血が昇っていた群衆は、まるで牧羊犬を得た羊の群れのように冷静さを取り戻したかに見えた。
そしてその声の主であり、人々の間を海が割れるように出来た道を通って現れた人物。それは杖をついたひとりの老人だった。
「あなたさまは、つい先日真の紋章を得て最高司祭になられた、ルディス様でございますな」
「そうですが、貴方は……?」
「儂はこのあたりのまとめ役を買って出ております、ただの年寄りにございます。どうかこの者達のご無礼をお許しください。このスラムに暮らす者は、様々な理由でここに流れ着き、苦しい生活を余儀なくされている無学な三等市民ばかりなのでございます」
やっと話が通じそうな人間が現れて、胸をなで下ろした。
だが何故かルディスの名前を知っていた老人が謝罪の次に口にしたのは、不可思議な頼みだった。
「話合いの前に、ひとつお願いがございます。貴方様が手に入れたという真の紋章を、どうか我々にひと目見せてはいただけないでしょうか」
「ええ、構いませんが……」
老人の頼みは意外なものだった。力の象徴である紋章への興味と、彼の理知的で穏やかな印象が、なんとも不釣り合いに思えたからだ。だがこの場を治めてくれた感謝も含めて、その頼みをきく事にした。
彼の望み通り、この場に居る他の者にも見えるようにと、長手袋を脱いで左手の甲を高く上げた。すると大人も子供も、珍しい動物でも見るように興味津々といった様子で、食い入るように紋章に見入っている。
老人にどうやって手に入れたのかとも訊かれたので、シンダル遺跡で起きた事の顛末も詳細に話す。すると彼らはそれを聞いた途端、紋章を見た時とはうって変わって明らかな落胆を見せた。
「やっぱり無理だ……」
「化物と戦うなんて真似、できねぇよ」
「なあ。なんならあの紋章、もらえないかなあ……?」
「バカだなあ、おまえ。あれはもう神殿のものなんだぞ。新しい紋章を手に入れないと意味ないだろううが」
「皆さんは真の紋章を探しているんですか?」
「もしや、いまこの国がどうなっているのかご存知ないのですか? ハルモニアの各地に散らばる三等市民が、我先に真の紋章を手に入れようと競い合いを初めておるのでございますよ」
まだ記憶に新しい、神官長ヒクサク御自ら発した”真の紋章狩り”のお触れ。スラム街の長老が言うには、ほんの数週間前のあの大々的な発令が波紋を呼び、”紋章狩り”が以前にも増して精力的に行われる流れに変わってきているのだと言う。
「そういえばこのところ、鍛冶屋では順番待ちが起きていますね。それも一軒二軒という話ではないようで。それになんだか、街中が浮き足立っているような……。春だからというだけではないように見えますね」
「軍需景気ってやつだね。おそらくハルモニア中の主要な街が、一時的に似たような好景気になってるはずさ」
ランスロットの発言を引き継いだエルザが、状況を補足した。
鍛冶屋で武器の修理や研磨の注文が殺到して順場待ちが発生すれば、防具屋では身を守るための鎧や盾が仕入た先から飛ぶように売れてゆく。
家族や恋人の無事を祈る者ならば、おくすりから身代わり地蔵まで様々な消耗品を買い漁る。
特に正規軍御用達の中心街西地区では、軍による買い占めが顕著なのだとランスロットは語った。国中が一斉に戦支度を始めれば、そうなるのは必然なのだろう。
「ぼやぼやしてたら辺境の奴らに紋章を全部掻っ攫われちまう。やっぱり辺境軍に志願して手柄を立てるしか、俺たちには道はないんじゃないか……!?」
「何を馬鹿なことを。戰場から一番遠い場所に住んでおることを、幸いと思わずしてどうするのじゃ。ワシらが戦場に出たとて、帰って来れなくなるだけじゃと何故分からんのか!」
迂闊な提案をした若者を、長老がその場できつく叱りつけた。
それを見て、少し前に円卓会議で耳にした、戦場での三等市民に対するハルモニアの扱いを思い出す。
「国境付近に住む三等市民が徴兵される事は多いと聞きますが、志願……という事は、この地域の皆さんは本来は徴兵の対象ではないのですね」
「ええ、その通りでございます。我々は大都市の吹き溜まりに集まった落伍者の寄せ集めに過ぎませぬゆえ、特別な技能もハルモニアに対する忠誠心も、何も持ってはおりませぬ。そういった集落は、はなから税の搾取対象ぐらいにしか見られてはおらぬのでしょう」
思い返してみれば、ササライが率いていたシンダル遺跡の調査隊も、一等市民の士官と二等市民の歩兵で構成されていた。正規軍に入る資格を持つのは、どうやら二等市民以上の国民と考えて良さそうだ。
中央の正規軍の下に、各地の辺境軍。その下に傭兵が所属する国境警備隊が。更にその下に位置するのが、三等市民部隊。
戦場でも最下層に位置付けられる彼等は、常に最前線に送られて、時には使い捨てのような扱いさえも受けるという。
そんな扱いをされてまで、軍に入る必要などあるのだろうか。
「あの、無理に軍に入らずとも探すことは出来るのではないでしょうか」
「……難しいでしょうな。何しろわしら三等市民は、いくつかの例外を除いて、決められた区域から出ることを固く禁じられていおるのです」
いくつかの厳しい条件とともに生きることを許された彼等は、そのほとんどが決められた区域内でのみの生活を強いられているのだと言う。そのため近隣の村ぐらいにしか行き来は出来ず、交易で財を得ることもままならない。
外に出る数少ない機会のひとつが、三等市民の子供を『ハルモニアの子』にする目的で、クリスタルバレーの貴族の元に人質として連れ出される時。
そしてもうひとつが、侵略や内乱における戦に従軍する時になる。
何世代にも渡って苦難を強いられてきた彼らにとって、真の紋章ひとつを献上すれば人並みの生活が手に入る”真の紋章狩り”は、天からの啓示に等しいのだろう。
二等市民になる。それは今のような重税と奴隷扱いからおさらばできる、唯一といって良い手段なのだから。
叶うならば真の紋章を手に入れたい。そう考えるのは分からないでもなかった。たとえ多少の犠牲が出ても、真の紋章さえ手に入れられれば十分な見返りが得られるのだから。
そして紋章を獲得した民族だけに、二等市民への道はひらかれる。
その歪な飴が三等市民同士が手を組むことを阻み、貧しくはあれど互いに争うことなどなかった彼らが反目し合う対抗心を、意識化に生み出しているのだろう。
「我こそがと躍起になっておるのです。非道い場合には、三等市民どうしの衝突も起き初めていると聞き及んでおります。何しろ真の紋章とは、この世界に27個しか存在しないと言うではありませんか。苦しんでいる者の数に対して、あまりにもその数が少なすぎる……」
いかにハルモニアが、神聖国という清らかな名にそぐわない侵略国家の一面を強く持つとはいえ、常時戦争をしているわけではない。しかしれに付随するチャンスが有限のものであるとすれば、どうだろうか。
真の紋章は世界に27個しか存在せず、そのうちの数個はすでにハルモニアの手中に有る。
限りある一発逆転のチャンスを狙うなれば、同じものを狙っている者同士は自然と互いをライバル視せざるを得なくなる。だから彼等は、同じハルモニアの圧政を受ける三等市民の身でありながら、自分たちだけが成り上がりのチャンスを掴む為に相手を出し抜き、蹴落とし合わなければならないのだ。
しかし、真の紋章が集まりやすく内乱が起きにくいこの状況は、ハルモニアから見ればあまりに都合が良過ぎるようにも思える。はたしてこれは偶然なのだろうか。
「こんなことを言うのは差し出がましいのかもしれませんが……。真の紋章の争奪戦には、参加しない方が良いと思います」
「ほう。何故そう思われるのですかな?」
「お話を聞くにつれ、この紋章狩りで三等市民が反目し合う事も、ハルモニアの思惑のひとつなのかもしれないと思えてきたからです」
顔役の老人とルディスのやり取りを聞いていた最前列の若者が、会話に参加するように疑問の声を上げた。
「つ、つまり………どういうこった?」
「バカだなあ、おまえ。つまり神殿は、俺らに他国や仲間同士とケンカさせて、おいしいトコだけかっさらおうって考えてるって事じゃないか? なあ司祭さまそうだろ?」
少し乱暴な正解に笑みを添えて同意すると、良い反応を返してくれた気の良い男達は嬉しそうに破顔した。
同じスラムに住む仲間が言った言葉だからこそ、素直に受け入れられたのだろうか。段々今の話しの内容を理解してきた他の住人たちの間にも、本格的に諦めムードが広がりつつある。元々神殿に不信感を持つからこそ、いいように使われると知って動くのも抵抗があるのだろう。
競わせる事で三等市民同士の横の繋がりを断ち切り、彼らが手を組んで反乱を起こすのを未然に防ぐ。もし本当に真の紋章を持ち帰れば、尚良し。
どう転んでもゲームの親が得をするかたちになっているのは、冷静に俯瞰してみれば一目瞭然だった。
「それに紋章を手入れた後には、良い事ばかりが待っているとは限りませんから……」
ササライの元を離れなければならなかった経緯や、神殿の指示で処刑に関わった事。それらの記憶が突然蘇り、半ば無意識に口をついて出た一言だった。
その声を拾った周囲の僅かな面々は不可解そうな顔を作っていたが、目の前の顔役の老人はただ黙って耳を傾けていた。
「……さて。この教会の修理に人手が必要とのお話でございましたな。地道に働かねばならないと分かりましたし、我等一同、喜んでお手伝いをいたしましょう」
「あ、ありがとうございます、ご協力感謝します……!」
先程とは打って変わり、あっさりと快諾は成された。好感触な返答に慌ててお礼を伝えると、老人は髭の奥で満足気な笑みを見せた。もしかして、ずっと試されていたのだろうか。
「長がそう言うんなら、しょうがねぇなあ」
一連の流れを目の当たりにしていた他の住人も、顔役の判断に今度はしぶしぶながらも大人しく従った。
「そうそう外には出られないと先程言っておられましたが、貴方は外の情勢を良くご存知なのですね」
「この年寄りには力はありませんが、知恵と長生きゆえの人との繋がりがあるのでございます。 この首都クリスタルバレーに集まる、傭兵や行商人。そういった流れ者と話をする機会も、立場上多いのです。貴方様の存在や他の三等市民の動きを知りえたのも、外から来るお人からの情報によるものですな」
なんだか隠者めいていて、底が知れない老人である。これまでのやりとりが全て、スラムの住人の紋章狩りの強硬路線を止めるためのものだったのではないかとすら思えてきた。
「では早速、明日から教会の掃除と修復に入りましょう。明朝コボルトの親子がここに来ますので、彼等の指示に従って作業を……」
「ちょ、ちょっとまってくだせえ。もしかして、コボルトと一緒に働けってんですか?」
ようやく本題に入ったにも関わらず、説明の終わりを待たずに、驚きと戸惑いを綯い交ぜにした制止の声が飛んだ。それが切欠となり周囲にも動揺が伝播し始めた。
「おいおい、冗談じゃないぞ。何で俺たちがコボルトなんかに命令されなくちゃならないんだ?」
「そ、そうだそうだ! いくら俺たちが三等市民だからって、亜人となんか一緒くたにされるなんて御免だよ」
今度は幾分穏やかだが、また次々と抗議の声が上がった。せっかくの良い流れが、逆戻りである。それに、そこに込められた感情が今度は、不満から嫌悪へと変化しているようにも思える。
「つまり、階級が下の者達と一緒に働くのが嫌だという事ですか?」
「は、はい。率直に申し上げれば、そうなるのでしょう」
確認の意味も込めて長老に尋ねてみると、流石の知恵者の老人もこれは予想外だったのか、困り顔を作って事態を測りかねている。
「この教会の中では三等市民も亜人奴隷も関係なく、平等に働いてもらいたいと考えているのですが……」
「仰る意味は理解できます。しかし残念ながら、亜人種と共に働くのに抵抗がある者が多いのも確かなようですな」
一難去って、また一難。
継続してたくさんの人が来てくれるのなら、それが一番なのだが、贅沢を言っている余裕はないようだ。
「ほんの数人でも構いません。ここで働いても良いという方を、毎日募っては下さいませんか? もちろん作業に従事してくださった方には、食事の配給と給金をお約束します。無理を言えないのは分かっているのですが、お願いします」
「……分かりました。お約束は出来ませんが、仕事を求めている者を中心にあたってみましょう」
「ありがとうございます」
なんとか当初の目的であった労働者の斡旋の約束を取り付けると、開放された住人たちは教会の敷地を出て、それぞれスラム街へと戻っていった。
思い描いていた理想とは、だいぶかけ離れたスタートとなった。
*
「ああなるのが分かっていたのなら、何故お止めしなかったんだ」
「雇い主の判断に口を挟むのは、あたしの仕事じゃないしねぇ……」
帰りの馬車の中で、エルザは同じく身辺警護を務める青年の叱責を、素っ気なく斬って捨てた。
ルディスの隣に、今回たくさんの人の感情の波にあてられてダウンしてしまったネウトが居るので、心無しかふたりとも声は抑えてやりあっている。
ランスロットが言うには、彼女はスラムの住人が協力的ではないことを最初から知っていたのだという。陰の中で何が起こっているのかを知っているのは、同じ陰の中に生きる者という事だろうか。
たしかにランスロットの言う通り、最初から事情がわかっていれば対策の立てようもあったのかもしれないが、終わったことを蒸し返すことにあまり意味は無い。それよりも今は、別の問題で頭が一杯だった。
「ふたりは種族や階級が違う人と働く事には、抵抗は無いの?」
今までまったく違う環境に身を置いていた彼等に、今日の話し合いの最後に持ち上がった問題をぶつけてみた。別な視点が欲しかったからだ。
「任務で国外に出る事も多かったので慣れています」
「騎士学校に居た頃は厩番のコボルトくらいしか身近には居ませんでしたし、特に何とも思った事は無かったですね……」
「一等市民の認識なんて、そんなものだろうね。奴隷の待遇に疑問を抱くやつはそうそう居ないのさ」
分かってはいたことだが、この国の民の間には、階級という名の壁がある。
二等市民は自分たちが平穏に暮らせればそれで良いのか、他の階級にはほとんど無関心に見える。三等市民は生活が苦しいために、自分たちの事だけで精一杯だ。亜人は集落を作る事も認められずに、仲間と引き離されて下働きに従事している。
無名諸国やグラスランドでは種族の隔てなく暮らしていると聞く。過去にあったデュナンやトランの戦争では、コボルトやエルフといった多くの種族が、人間と一緒に勇敢に戦ったと伝えられている。ハルモニアだけなのだ、こんな理不尽な迫害を行っているのは。
「しかし、このままでは彼等の協力は得られそうにありませんね。どうしますか?」
「上が命令して下がそれに従う、それでいいんじゃないかね。神殿の命令だって言えば、あそこの住人は逆らえないんだからさ」
「……強制はしたくないよ。ちゃんと自分たちで考えて、選んで欲しいんだ」
最初は当然、すれ違いもあるだろう。しかし出来ないと決まっているわけでもない。今まで誰もやらなかっただけなのだから。
彼等の意見を一方的に汲んで亜人を追い出すなんて真似はしない。無理やり命令を押し付けて従わせるなんて方法も選びはしない。説教めいた物言いで指摘するのもお門違いだろう。
何故なら、そんな壁など本当はないのだと自ら気付いた者だけが、ハルモニアが作った階級が虚像であると知ることが出来るのだろうから。
それに、もうひとつ気にかかることもある。これから真の紋章をめぐる激しい争奪戦が起こるのは、最早避けられない事なのだろうか。そう遠くないうちに本当に戦が始まってしまうのかもしれない。その可能性に辿り着くと、背筋に寒いものが走った。
この国に住む者たちはみな、まるで猜疑心という名の病に取り憑かれているようにも思える。
どうやら孤児の救済もスラムの住人の協力を得るのも、一朝一夕で解決できる問題ではなさそうだった。
クロッツェオ教会に赴任して、2日目の朝。
顔役の老人の口利きがあったものの、突然現れたあやしい司祭の元で亜人種と共に働くというのは、やはり不安が勝るようで、初日にクロッツェオ教会に来てくれた労働者は両手で数え足りる数だった。
当面の仕事内容は教会の片付けだと伝えてあったので、集まったのは力自慢の男たちが中心だ。
冷やかし半分で仲間を誘って来たらしい若者たち。金に困って仕方なしにと、顔に書いてある中年男性。それに加えて、前日の話し合いで見た顔がちらほらと。
ここに来た経緯はそれぞれだろうが、まずは足を運んでくれた事に対して、ひとりひとりの目を見て感謝を伝えた。
「集まって下さり本当に感謝します。今日からこの教会の復旧作業を、一緒に行ってもらうのですが……」
一同に会した仲間と労働者を前にとりあえず話し出して、困った。
何しろこれまで、自分が主導して物事を進める事も、大衆の人の前で意見を述べる必要に迫られることもなかった。こういう時は何を言えば良いのだろう。
「ルディス様、決意表明をされてはいかがですか?」
「決意表明?」
「はい。この教会のリーダーとして、これからの方針を軽く話されるのがよろしいかと」
どうやら人を使う立場ともなると、そういったデモンストレーションも必要になるらしい。そういう事は、前もって言っておいてほしかった気もする。なにせ人前で発表できる目標なんて、考えてはいなかったからだ。
急遽、統率者として相応しい言葉を模索する中、ふと遺跡の調査隊を率いて堂々とクリスタルバレーを行進する在りし日のササライの横顔が思い出された。彼ならば、こんな時は何て言うのだろうか。
ランスロットの勧めに従い、もう一度正面を見据える。そして心に浮かんだ今の素直な気持ちを、そのまま音にした。
「私はここに、日溜まりを作ろうと思う」
「ひだまり………?」
その婉曲な表現に対して首を傾げたネウトに、笑みを乗せて頷いた。
「そう。今よりもちょっとだけ、毎日がそう悪くないって、みんなが思える場所にしたい」
これは、誇りを持ってこの場所で生きていくための戦い。
階級など存在しない。力の弱い者が、盗みや物乞いをしなくても食べていける。
富と光から見捨てられた陰の中の建つこの教会に、そんな場所をつくる。そういう願いを込めた言葉だった。
この気持ちが、この場に居る者達にどれほど伝わっているのかは分からない。それでもいい。これは己に対する宣誓だ。
「さあ、まずはこのお化け屋敷を皆の教会に変えていこう」
*
当座の目標である教会の掃除は、数日かけて行われた。
説教台の前に横倒しになっている石像は、何処の誰が何のために倒したのかは知らないが邪魔なだけなので、数人がかりでロープと滑車を使って撤去した。
そして、屋内に散らばる瓦礫を皆で協力して取り除いたあと、ネウトが水の紋章魔法で積もりに積もった汚れを一掃した。手の届かない高所も、彼とルディスが協力して風の紋章で埃を下ろした。
するとその度に、ちょっとした歓声が沸き起こった。ひ弱な少年の思わぬ特技にみな驚きながらも、彼の実力を認めたようだった。
近くの森から木を切り出し、礼拝堂に並べる長椅子を作った。
室内が片付くと、敷地の荒れ果てた墓地も整備した。
そうやって、クロッツェオ教会の復旧作業は順調に進んでいった。
だが問題が無いわけでもなかった。
神殿での仕事もあるルディスとその護衛として行動するエルザやランスロットに代わって、現場監督を引き受けているのはコボルトのヴォルフだったのだが、スラムから来る労働者たちは表面上ヴォルフの指示に従いはするものの、彼に敬意を払っているとは言い難かった。
一緒に仕事をしているのに声を掛けることもない。彼が手助けを必要としている場面に居合わせても、見なかったふりをする。自分たちの意見がある時には、現場のリーダーである彼を素通りして、ルディスの元に直接来る有様だった。
まるで、見えない線を引いたようにコボルトの存在を無視している。話してみると彼らも根は悪い人ではなさそうだし、父親の周りをちょこまかと走り回る娘のウルリケに危害を加えるような事もない。ただ階級が下の存在だというだけで、彼らを軽視しているのだ。
ある程度覚悟はしていたが亜人種への差別意識を目のあたりにしてしまうと、やはりハルモニアの異様な社会構造に囚われているのだと痛感する。
心配になりヴォルフにも大丈夫かと声をかけたが、むしろ以前の環境に比べれば良い方で、これが普通のハルモニア人の反応だと、彼は白い歯を見せて笑い飛ばして見せた。
人手不足で損な役割をさせているとは思う。だがへこたれる事もなく、現場の責任者を努めてくれるのは有り難かった。
*
片付けがあらかた終わると、次は建物を修復する段階に差し掛かった。
「重厚な石造りの建築物ですので、修理には技術者や石工を手配する必要があります。長期間の大掛かりな工事になるかと」
ヴォルフの報告を受けながら、ぽっかりと空いた風通しの良い礼拝堂の天井を、首を逸らせて横並びで眺めた。
そう言われると、建物自体にそこまでこだわるべきなのか疑問も湧いてくる。
ちゃんと直すとなると、やはり材料にしても木で長椅子を作るようにはいかない。同じ種類の石を大量に購入しなければならないのだ。貧乏教会の資金繰りを考慮すると、なかなか厳しいものがあった。
「このままにしておく、っていうのはやっぱり駄目かな……?」
「倒壊する危険性はないのでしょうか?」
「その心配はなさそうだよ」
ランスロットの当然の疑問に答えたのは、礼拝堂の入り口に現れたエルザだ。柱によりかかりながら、彼女は淡々とその根拠を並べ始める。
「この教会は丈夫だよ、少なくともガンナーが決闘の場所に選ぶくらいにはね。爆発や銃撃にも耐えて残ったのがその証拠さ」
そんな飄々とした彼女の姿をみとめたランスロットは、あからさまに不機嫌顔を作った。
「それはいいが、護衛の仕事を放り出していつもどこに消えているんだ、ガンナー」
「屋上だよ。放り出しちゃいないさ、張り付いてる事しか出来ないお坊ちゃんとは違って、こっちはもっと広い範囲を見てるんだからね」
彼女がここに来るたびに一人で別行動をしているのは気付いていたが、どうやら屋上に居たようだ。
対してランスロットは常に傍に付き従って、至らないルディスをサポートするために補佐役を買って出てくれている。たしかに彼が居ればとりあえずは十分だが、彼女自身どこか単独行動を好んで取っている節があるようにも見えた。
屋上の鐘楼の外された鐘つき堂は、教会の丁度てっぺんにあたり、彼女いわく、そこが一番見晴らしが良いらしい。人の出入りが一目瞭然という事だろうか。
「たしかに柱や骨組みは結構しっかり残ってるよね、じゃあ、これ以上崩れる危険性がある箇所だけ補修しよう。それなら修繕費も最低限で済むだろうから」
どうやら、そのあたりが落とし所のようだ。そもそも祈りの場が立派でなければならないなんて、誰が決めたわけでもない。廃墟の美とでも言うべきか、人の作った物と自然が融合した風景は、そう悪いものでもないようにも見えるから不思議だ。
礼拝堂の床石は長年雨風に晒されひび割れて、隙間も多い。ちょうど説教台の横の空間には隙間に根を張った草花が、水魔法の水流に耐えてまだそこに咲き乱れていた。そこを崩れかけた教会の屋根から斜めに差し込む光が照らし出す光景は、なんとも趣がある。
「じゃあ……つぎはどうするの? ねえさん」
見えない火花を散らしはじめた男女を無視して、ネウトが話を押し進めた。どうやら毎日繰り返されるあの二人の不毛な応酬には害がないのが分かってきて、慣れたようだ。
「そうだなあ。炊き出しでもしよっか?」
「炊き出し、ってなあに?」
「みんなで外でごはんを食べるってことだよ」
「わぁ、すごーい! 炊き出し! 炊き出し!」
興味津々なコボルトの少女ウルリケが、楽しそうな響きに目を輝かせて跳びはねた。
これまで労働者に提供する昼食は人数が少ない事もあって、中心街で出来合いの物を買って来て済ませていた。これからはそれを自炊に切り替えて、訪れた者ならば誰でも食べることが出来るようにしようというわけだ。
古来より人が集まるのは、雨風を凌げて食べ物がある場所だと相場は決まっている。先日の話し合いの中で「現状を今すぐどうにかしてほしい」という声も上がっていたこともあり、かねてから考えていた案だった。
いますぐに他に優先的にやらなければならない事があるわけでもない。なので比較的簡単に出来ることもあって、とりあえず試してみるのは悪く無さそうだという意見で一致した。
何しろ数を用意しなければならないので御馳走というわけにはいかないが、野菜や肉を細かく刻んで塩などで味付けした消化の良い簡素なスープを、毎日多めに用意する事で決まった。
来訪者が増えるほど費用もかかるだろうが、それは建物の修理に充てるつもりだった分を使えばいい。重税で困窮するスラムの民や飢える子供達にとっては、立派な建物なんかよりも、よっぽど価値があるものになるだろうから。
墓を裏庭に集約したため広くなった前庭に、早速かまどを作って実行に移すと、すぐに変化は起こった。鍋を囲んで食事をする労働者の大人たちに混ざって、小さな人影が迷い込むようになったのだ。それはスープの匂いを嗅ぎつけた、お腹を空かせた子供たちだった。
最初は遠巻きに指を加えていた彼等を手招いて、スープをよそった木の椀を差し出すと、奪うようにそれを受け取って敷地の隅へと逃げていく。ここでは誰も横取りなんてしないというのに、誰も彼も警戒心をむき出しにしてスープをかき込むように喉に流し込んで食べていた。
そういった事が何度かあったのち、その中の味をしめた数人の子供たちが、たびたび姿を見せるようになった。
頻繁に顔を合わせるようになれば、自然と警戒心も薄らぐ。最初はこちらと距離をとっていた子どもたちも、この教会は安全に食べ物にありつける場所だと判断したらしく、仲間を誘って遊びに来るようになった。そんな子供たちを、味はどうかと声をかけながら快く迎えた。
公平を期すために一人一杯までとしているスープのおかわりを、並び直してまで要求してきた時は、思わず子供のふてぶてしさとたくましさに笑みが零れたほどだ。
やがて大勢の子供たちがスープを求めて列をつくる姿が、クロッツェオ教会では見られるようになっていった。
そんな子供達の姿を見て、様子を見ていた大人たちも少しづつ教会に足を運んでくれるようになった。炊き出しを始めたという噂は子供たちを通じて広まっていたそうだが、協力を拒絶した手前、どうにもこちらの世話になるのに踏ん切りがつかなかったようだ。
ただの慈善事業だとようやく周知されてからは、日に日に食事を求める来訪者の数は膨らみ始めていった。人々は次々とうまそうにスープを平らげていき、ついには大鍋ひとつはでは足りなくなってきたほどで、この頃には地元の子供を持つお母さんたちが来て食事の用意を手伝ってくれるようにもなっていた。
やはり食べ物は強い。単純に労働者を募集しただけの時は閑古鳥が鳴いていた教会が、今はスープを求める人々で溢れかえっている。
すると今度は、炊き出しを受ける人々の中から、量が足りないと言う声が上がり始めた。
炊き出しに集まった者達に出していたのはスープ一杯だったのに対して、教会の仕事に従事している労働者にはパンも配給していたからだろう。これは何も意地悪でそうしたのではなく、労働者には力仕事をさせているので、スープだけでは午後の仕事に支障がでると考えての配慮だった。
目の前で他の人間がパンを食べていれば、そういった欲求が湧くのも理解出来る。しかし量をある程度調整出来るスープと違って、外で買ってくるパンは用意出来る数に限りがあるし、体格の大きい大人に優先してパンを配るなどの公平さに欠ける対応をすれば、新たな不満の種にもなりかねない。
そこで炊き出しに集まった人々の中から、午後からの労働に参加してくれた者に限って、帰りにパンを持たせるという対応を取った。
パンにつられて仕方なく午後から労働に参加した面子は不満気に働いていたが、帰りにパンと半日分の日当を受け取ると、まんざらでもなさそうな顔をして帰って行った。そうなると、次の日は最初からは労働に参加する者も、少なからず現れた。
そうやってクロッツェオ教会で働く人間は、少しづつ増えていった。
*
「見違えましたな。これがあの打ち捨てられていた、クロッツェオ教会とは……」
久方ぶりにクロッツェオ教会に足を踏み入れた顔役の老人は、しばし感慨深げに、人と活気に満ちた昼飯時の元廃教会を見回した。これも皆さんのお陰ですと殊勝な言い回しで答えると、老人は小賢しい孫娘を見るような優しい目つきで、少し笑った。
「……して、何やら今度は、畑を耕したいとのお話ですが」
この辺りの空いている土地を借りたい旨をスラムの顔役の元に伝えたのは、数日前のことだ。すると詳しい話を聞くために、件の老人がわざわざこうして様子を見に来てくれる流れになった。教会へ通う労働者が増えてスラムとクロッツェオ教会がより密接になってきているのも、関係しているのだろう。今は農耕を始めるにつけて、具体的にどうするかの相談をしていた。
「はい。教会の運営とは本来、地元の貴族から寄付を募るものらしいのですが、この教会は立地から見てもそれは期待できません。ですから作物を育てようと思います。自分たちの食べる分と、収益も得るために」
もしスラムの外れに建つ教会を支援してくれる物好きな貴族が居るならば、クロッツェオ教会は今頃こんな姿にはなってはいないだろう。だから以前ディオスジュニアが教えてくれた方法では、この教会の運営の見通しは立ちそうになかった。
炊き出しもスラムの住人を雇用するのも、タダではない。街中の建物を所有しているお陰で仲間たちの寝食の心配は無かったが、現状維持にしても活動を増やすにしても、教会の運営資金は自分たちで工面しなければならない。
「それはよろしゅうございますな。して、何を育てなさるおつもりですかな?」
「まずは毎日の炊き出しに使える野菜が欲しいですね」
「ふむふむ、それならば芋が良いでしょう。痩せた土地でも問題なく育ちますし、収穫量も多い」
自家消費の分については、初心者にも育てられるいうという助言に従い、じゃがいもとさつま芋を中心に。それに並行して、他の様々な野菜も育ててみる事に問題なく決まった。
「すぐに種を蒔けば、夏や秋には間に合うことでしょう。今から楽しみですな」
「それなんですが、少し、試してみようと思っている事があるんですが……」
「……! アレを使われるのですね?」
言わんとすることをいち早く察したヴォルフが低く唸った。そういえば、この場に居る者でルディスの紋章の力を見たのは、ネウト以外ではコボルト親子だけだったような気がする。
「よろしいのですか? 神殿でも薔薇の育成に力を使っておいでだと聞いておりますが」
「大丈夫。最近レベル2の魔法を2回使えるようになったから」
指を2本立てて、Vサインを作って見せる。彼の言う通り、農作物を早く収穫するためには紋章の力を使うつもりだ。作物が実るには時間が必要なのが自然の摂理とは言え、そんなに悠長に待ってはいられない。
紋章を神殿外で使う事についても一応申請はするが、受け持ちの教会の立て直しの範疇なのでおそらく通ると見込んでの作戦だ。
「あと、もうひとつ。おくすりや毒消しなどの薬の材料になる薬草も、育てようと思っています」
「何故わざわざ、そのようなものを? 商材としてならば、もっと高値で取り引きされるものもありましょうに」
たしかにひとつひとつは大した儲けにはならないが、これには大きな理由がある。軍の買い占めによって、いま市場からは市民が使う分の薬までが姿を消している現状があるからだ。武器や防具が不足しても民の生活に直接の影響は出ないが、薬は違う。そう遠くないうちに備蓄分の薬までもが全て消費されてしまえば、問題はすぐにでも表面化することだろう。
成功すればまた多くの人の手に薬が行き渡るようになる。商売の方法としては薄利多売になってしまうが、品物が枯渇している状況なので競争が無いに等しいし、供給が需要に追いついていない今だからこそ、やってみる価値はあった。
「特効薬、目薬、のどあめ。すべて原材料になる薬草がある。だからとにかくたくさん育てて、たくさん売る」
「……では、取り引きする価格を高めに設定なさるので? 利益を確保するのであれば、そのくらいはする必要がありしょう」
「いいえ、なるべく今までと同じ値段で流通するよう、努力しようと思っています」
値を吊り上げるという選択肢も考えなかったわけではない。確かにそれらの消耗品はいま、品薄の影響で価格が高騰している。本当に必要としている人は、少々値が張っても買ってくれる事だろう。
しかし嗜好品の類ならばともかく、必需品の薬でそれをやってしまうのは、いかがなものだろうか。
ただ金儲けをするために、ここに来たわけではない。人助けをしに来たのだ。お金を得るのは大切だけど、それは生活費や活動資金を得るためのに必要なのであって、お金を得ることそのものが目的ではない。手段の為に、目的を見失ってはいけなかった。
薬が手に入らず病で亡くなったコボルト親子の母親のように、貧富の差が明暗を分けて、必要とする人の手に渡らない状況をつくり出してはならない。だから適正な価格で売るというのには、大きな意味があった。
老翁の発言は、育てるのに時間がかかる上に扱うのが安物とくれば、商売が失敗するのではと危惧しての、指摘の数々なのだろう。そこはやはり紋章魔法に頼って実現させるつもりなのだが、やはり実際に見てみなければ、想像はしにくいのかもしれない。
スラムの顔役をやっているだけに面倒見が良い性分らしく、そのうえ祖父と孫娘ほどに年が離れている間柄だ。あれこれとやかく言うのは、やはり年長者としてこちらを心配してるのだろう。それが分かれば微笑ましくは思えど、煙たくは感じなかった。
「教会の事業として作る作物なら、普通に作るよりも税がかかりません。参加はこれまで通り自主性に任せますし、収穫物も労働の対価として十分に地域に還元します。方向性や手法もある程度は現場にお任せしたいと思っています」
強要されない、税にすべて持っていかれる心配をしなくても良い、という点は、彼等がこれまで従事してきた搾取的労働とは明らかに違う。その点だけを見ても、やりがいを感じてくれる者は多いことだろう。
「そこまで仰ってくださるのであれば、たとえ止めたとて、無駄なのでしょうな」
そう苦笑したあと、「結果はどうあれ、これもまた若い者が思うようにやってみるのが良いのでしょうね」と言って、彼は折れた。 再度の感謝の印に交わした握手で触れた手の皮は存外厚く、しっかりとしていた。きっと彼もまた、かつては土と共に生きていたのだろうと、そう思った。
*
首都クリスタルバレーの城壁の外には、長閑な草原地帯が広がっている。草原を抜けた先には、各地に繋がる規則正しく組まれた煉瓦の街道が存在するが、そこに至るまでは馬蹄と車輪に踏み固められた草の痕が道標だ。
遠くからもその威容は目視出来るので、もし道に迷った旅人がたまたま通りがかったとしたら、きっと原っぱの中に突然巨大な円状の城壁が現れたように見えるだろう。
つまり、モンスターや野盗には注意しなければならないが、開拓できる土地はあるにはある、という事だ。とりあえず草原地帯の候補地の中から、スラムから通える距離の場所を見繕って、農耕地を作ってみることにした。
ほぼ総出で開墾したあと、肥料を土に与え、種を巻き、水を撒いた。
本来ならここで一段落になるが、ものは試しで例の紋章魔法を仕上げに発動する。すると想像通り、土の上にみるみる青々とした蔦が生い茂り、たくさんの小さな白い花が咲いた。
居合わせた労働者たちは信じられないものを見た顔で、その紋章魔法はなんなのか、自分たちにも使えるのかと、労働の疲れも忘れたように興奮のままに質問攻めを始めた。この魔法を教会の畑のために使えるのは一日に一度きりになる。だからその日はそこで作業を中断して、みんなと色々話をしながら連れ立って教会に戻った。
明くる日、もう一度回復魔法をかけると、今度は花と蔦がみるみる茶色に萎れた。その下を掘り起こしてみると、やや小ぶりなジャガイモが鈴生りに実っていた。畑に集まった労働者たちは今度は奇跡にでも遭遇したかのように膝を着いて、僅か二日で得た実りを、泥だらけになりながら夢中で収穫し始めた。
畑の周囲にも木の実を成長させた防風林を作るなどしてそれらしくなると、日に一度は、開墾した農地に足を運ぶようになった。
教会の為に使える貴重な魔法は、野菜と薬草の畑に一日置きで交互に使うことにした。何度かそれを繰り返すうちに得た教訓は、作物とは人が手間暇と愛情をかけて育てることで、品質も得られる実りの量も格段に上昇するという事だった。
紋章で成長を促進出来るとはいえ、人手は自ずと必要になってくる。果実を実らせるならば、自然界では虫が行う受粉も人の手で行わなければならないし、収穫や出荷の際の選別でも、人の力は不可欠だ。
遠くに山を望みながら協力して農業をするようになってからは、なんだかスラムの住人との絆も、少しだけ深まったような気がする。
野菜は四日おきに、薬草は二日おきに。交互に収穫する作物は、すぐに小さなクロッツェオ教会には納まり切らなくなった。野菜は毎日の炊き出しに使えるし、希望者には配給もしているので、有って困る事はない。
しかし薬草は、ずっと手元に置いておくわけにもいかなかった。こちらは材料の状態そのままでは薬として使えないので、職人ギルドを通じて薬師に直接売ることになった。保管場所も、中心街の所有する建物の倉庫の一角へと移し替えた。
更に、市場価格が暴騰することがないように予防策も講じた。薬師に買ってもらう際に「こちらは原料の値段を平常時の平均価格に固定するので、その代わりに薬師が道具屋に卸す販売価格も適性なものにするように」という内容を、契約に盛り込んだのだ。
物の売買には、品物を用意出来た側が交渉権をもつという性質があるからこそ、結ぶことが出来た約束事だろう。
薬の値段に関するこちらの考えを伝えると共に、もし値段を不当に釣り上げる店が現れれば、そこに卸している薬師とは今後取り引きをしないという意志も余すことなく伝えた。高値で売るのはその道具屋の勝手だと言い張る者も出るだろうが、そんな相手には売らないと判断するのも、こちらの勝手になる。
そういった地道な対策が功を奏したのか、クリスタルバレーの街の中に関しては、価格の極端な上昇は見られなかった。たとえ暴利を貪ろうと企む道具屋がいくつかあっても、約束通り適正な価格で売ってくれる店の方が多くなれば、高値をつけても売れなくなってしまうからだ。
だが外の街に持ちだされた分に関しては、流石に干渉はできない。他の街では薬はまだ流通も少ないままで、価格も高額になっていることだろう。今の自分に及ぶのはこのくらいが限度……そうは分かっているものの、歯痒くもあった。
*
薬の流通も始まり、クロッツェオ教会の運営もなんとか軌道に乗り始めた丁度この頃。思いもよらぬある異変が頻発するようになった。
それはなんと、クリスタルバレーで働く亜人たちが、クロッツェオ教会やルディスの所有する建物に駆け込みに来る、というものだった。
それも、一度や二度ではない。単独または二人組が散発的に訪れると、また数日後に別の者が扉を叩く。その繰り返しが度々起こった。よくよく話を聞いてみると、どうやら雇い主からの折檻や働き詰めに耐えかねて、思い余って飛び出してしまったという。
彼等は薬が流通し始めたのをきっかけに、クロッツェオ教会の存在を知ったのだとも口々に言った。
以前は考えられなかったことだが、たしかに薬草を卸すようになってからは、行く先々で出会う市民から感謝の言葉をもらうことも多々あった。
どうやら今やクロッツェオ教会は、亜人も人間と一緒に働いている農場として、そこそこ有名になりつつあるらしい。
ヴォルフはそんな他人事ならない亜人たちを不憫に思ったのか、親身になって彼らに接した。自分が彼等の分も働くので身請けできないか、面倒を見られないか、と一番熱心に説いたのも彼だった。
そこまで思いつめるほどの場所から逃げ出すしか無かったのは可哀想ではあるし、一度逃げ出してから戻されれば、更に辛い目に合わされるのは目に見えている。
なにより彼等の涙に濡れた無垢な瞳を見てしまえば、ルディスやヴォルフを頼って来てくれたのに無碍に追い返すなんて、とても出来そうにはなかった。
大半が街中の商会や貴族の元で下働きをしていた者達だったので、すべてルディス自らが出向いて話をつけた。教会で引き受けたい旨を告げると、彼等は不本意そうながらも、多額の身請け金と引き換えに奴隷を手放すことをしぶしぶ了承した。
労働者に逃げ出された者たちの多くはその采配に異を唱えたものの、神殿の名を出せば、彼らは大人しく引き下がざるを得なかったからだ。神官政治が支配するハルモニアにおいては、神殿は何よりも強力な後ろ盾となる。この時ほど、いつもは閉塞感を感じる神殿の名前を有り難く思ったことはなかった。
そうして最終的には、なんとか一人残らず無事に引き取ることが出来た。
亜人種と一口にいっても、彼等の姿や気質は様々だ。
陽気で仲間思いのコボルト。
低空飛行が出来る蝙蝠のような翼と足を持ったウィングホード。
愛嬌のある姿と粘り強さを併せ持つダック。
力持ちで勇敢なリザード。
一番数が多かったのは、北大陸に多くの集落を持つコボルトだった。次に多いのが、隣国グラスランドに生息するアヒルのような姿のダック族。あとはウィングホード、リザードといった、この辺りでは珍しい姿がちらほらといったところだ。
南方に住まうネコボルトやビーバーは居ないが、そういった愛らしい姿を持つ種族は好事家の間で人気が高く、裏で取引される事もあるという。
「そう言えば、エルフやドワーフはクリスタルバレーには居ないのかな? 姿を見たことが無いけど……」
気づけばクロッツェオ教会に集まって来たのは、獣人ばかりだ。亜人種の中でも最も人に近いとされるその2種族の姿は見当たらない。
何気ない疑問に答えてくれたのは、最近仲間入りしたコボルトの青年だ。しょんぼりと茶色の耳を伏せながら、その訳を教えてくれる。
「人間に捕まるくらなら……って、思っちゃうみたいだワン……」
森の奥深くに生き、寿命が長く気位が高いエルフは、その多くは元々は他種族と手を組むことを好まない。戦に負けて捕らえられても、亜人を迫害する事で有名なハルモニアに降伏せずに自害を選択してしまうのだという。
対して手先が器用で穴を掘るのが得意なドワーフは、その特技を活かすために鉱山へと連れて行かれてしまうのがほとんどとのことだった。
亜人と人間の共存は、歴史上のどの国でも度々問題となってきた。
デュナン国の人間と亜人が一緒に暮らす町は、建国以前は生活習慣の違いや信頼関係の欠如が理由となり、反目が絶えなかったと言われている。
赤月帝国時代のトランではそういった諍いを予め避けるために、それぞれの種族の居住区は明確に区切たれて、不可侵の協定が結ばれていた。
どちらも今は改革が進み、国そのものが変わったことを機に互いに手を取り合う道を歩んでいる。共通の敵に対して対抗するために手を結んだことが切欠となり、新しい信頼関係を構築できた良い例だろう。
同じ目的のために協力して関係が上手くいっていると言えば、グラスランドもそうだ。厳しい自然が広がるグラスランドは、協力し合わなければ生きられない土地柄からか、古くから異なる種族が友好関係を築いて手を取り合い生きている。
それらの国の柔軟さに目を向けると、事さらにハルモニアの亜人排斥思想の異様さが浮き彫りになる。何故ハルモニアは、頑ななまでに亜人種の人権を認めようとはしないのだろうか。また新たな疑問を抱かざるを得なかった。
*
引き取った亜人達は助け出した後、まさか放り出すわけにもいかないので、ひとりひとりの今後の身の振り方を一緒に考える必要があった。
中には国外の同族の集落に伝手を持つ者も居たので、そういった縁故に頼って移り住むことを望む者たちには、必要なだけの路銀を渡して商隊の同行者という形で送り出した。彼らは何度も何度も、涙ながらに有り余るほどの感謝を残して、晴れやかな顔で故郷へと帰っていった。
一方、そういった帰る場所を持たない者も、もちろん居た。彼らの多くは、ハルモニアに征服された国の集落で代々暮らしていた亜人たちだったので、既に帰る場所を失っていたのだ。彼等の多くはクロッツェオ教会で働くことを望んだので、そのまま労働者として住み込みで働いて貰うことになった。
そうすると最初はたった数人で行っていた教会の運営事業は、いまやスラムの住人と逃げ出してきた亜人種が合わさり、一気に三桁近くまで膨らんだ。
総数が増えるということは、その集団が抱える問題が膨らむのと同義でもある。浮き彫りになった問題の本質を最も端的に表していたのは、スラムから働きに来た血の気の多いひとりの青年が、教会の一室のルディスの部屋に乗り込んでまで人間側の労働者の代表として放った一言だった。
「もう我慢できません。お願いです、仕事も食事も亜人たちとは別々にしてください!」
相手が謝って飛ばした土で、服が汚れる。狭い通路で、意図せず肩が軽くぶつかる。大人数で仕事をするようになった途端、そんな普通なら問題にもならないような出来事で、諍いが頻発するようになったのだ。我慢ならないというよりも、亜人種を忌避しながらも肩を並べて働いている矛盾から、目を逸らしきれなくなってきたのだろう。
「そんな……わたしたちが一体何をしたって言うんですか!?」
「そ、そうだワン。匂いだって、ここに来てからは毎日水浴びしてるからあんまり臭くないのに……」
双方の意見を聞くために手の開いていたダックやコボルトにも来てもらうと、当然ながらそんな悲しげな声が返ってくる。
真っ二つに別れてしまった労働者の人間側が、一方的に怒っている状態だ。その気になれば数で勝る彼等の中には、気が大きくなって「亜人種は全部追い出せ」などと乱暴な事を叫ぶ者まで現れている。亜人種側は、今まで迫害されていた立場ゆえか気弱に狼狽えるばかりだ。
「ここは人間の町や教会なのに、お前さん方がでかい面してるのが気に入らないんだ。俺たちの仕事の段取りに口を出したり、仕事が早く終わると先に飯を食おうとしたり……。司祭さまに拾ってもらった立場で、図々しすぎるんだよ!」
「言いがかりだよぉ。ここの人たちは、他のハルモニア人とは違うと思ってたのに………」
なにひとつ変わらないじゃないか。そう言いたげに、肩を落としてしゅんとしてしまった。ようやく安息の地を得られたと喜んでいた面々に、落胆の色が広がってゆく。奴隷扱いから抜け出して新生活を始めようとしている彼らにとっては、出鼻を挫かれる出来事になってしまったのだろう。
しかしこれは、亜人と人間が別け隔てなく働く場所を作るという目標においては、避けては通れない問題でもある。
「私はこの国に来て日が浅いから、どうしても分からないんだ。教えて欲しい。何故亜人種達を、同じ仲間として見れないのかを」
「なんでって、そりゃあ……」
さっきまで意気込んで話していた若者が、思わぬ質問を浴びせられて言い淀んだ。考えた事も無かったとでもいう風に、仲間と顔を見合わせている。
「今までずっとそうだったんだから、としか言いようが無いんでさあ。生まれが違う、姿形や色が違う、育った環境が違う。どれもこれも違っちゃ、同じ仲間だなんて到底思えないですよ」
嘲笑混じりに何気なく吐き出されたそれに、意図的に視線を外しながら、言葉を重ねる。
「……あの人たちも同じ事を言ってた。生まれた家の地位が違う、肌の色髪の色が違う。だから、扱いが違うのは当然だと」
「へえ、たしかに似たような言い分ですねえ。誰が言ってたんですか?」
「円の宮殿に居た一等市民たちだよ」
それまで余裕の笑みすら浮かべていたスラムの労働者たち全員が、顔から笑いを消し去って固まった。自分たちを虐げて重税を課している相手と、同じ思考・同じ言動を奮っていた事に、彼等はたった今気付かされたようだった。
今までヴォルフひとりが目をつぶっていた、人間の持つ傲慢。それを今この教会に居る者すべてが、考えなければならない時が来たのかもしれない。
向き合う必要があるのは、虐げられる側の亜人だけではなく、虐げる側である人間たちも同じだ。自分たちの傲慢や偏見がどこから来たものなのかを、逃げずに直視しなければならない。
「私はクリスタルバレーに来た当初は、円の宮殿で下働きをしていたんだ。周りは一等市民ばかりで、黒い髪を持つ事でずっと白い目で見られていた。裏では陰口も叩かれた、三等市民風情が何故ここに居るんだ、って。今もそう……成り上がりの私を良く思っていない人は沢山居る。でもその頃に私を対等に見てくれた人が居たから、私はここに居るんだと思う」
これまで胸の浅い部分に有った、正体の分からない引っかかり。言葉にしてみるとそれが何なのか、やっと理解出来た気がした。
三等市民が亜人を蔑視するのは、一等市民や二等市民が三等市民を蔑視するのと似ている。それは根本的な判断基準はどちらも同じで、一等市民も三等市民も、ハルモニアが用意した不平等なルールに従って物事を判断しているからなのだろう。
「さっきここは人間の教会と言っていたけれど、私は来る者すべてにとっての教会だと思ってる。だから仕事や食事は今まで通り、一緒にやってもらいたい。話や相談はまたいつでも聞くから、それまでさっき言った事の意味を、それぞれ考えてみて欲しい」
そう告げると、仕事の続きがあるからと言って、労働者たちをそれぞれ仕事へと帰した。その場はそれで終わったが、これですべての問題が解決したわけではない。またすぐにこういった訴えが出てくる可能性は高かった。
その日の仕事が大方片付いたタイミングで、ヴォルフ、ランスロット、エルザを部屋に集めた。子供を抜いた顔ぶれを呼んだのは、少し人間の醜い部分に触れる話になるからだ。あの場に居なかったランスロット以外の二人に経緯を伝えると、やはり、といった反応が返ってくる。それだけ事が大きくなってしまったのは、誰の目にも明らかだった。
「三等市民が階級の下に位置づけられる理由はなんとなく分かる。薬が無いと手に入れられる者が限られるように、資源は有限だから。敗戦という明確な理由をつけて、生かさず殺さず搾取をするんだと思う。上の階級の人たちが、苦なく富や教養を甘受しつづけられるように」
一辺が地面に着いた状態の正三角を、横から三等分に輪切りにすると、丁度この階級制度の図式と合致する。屋根の部分に位置する一握りの一等市民が裕福な生活をするには、単純に見ても、その下の三倍の二等市民と、最底辺の三等市民がに五倍必要になる。ただそれは本当に単純に目算した場合で、実際は強大な軍の維持にも莫大な金がかかっているから、三等市民はそれだけ多く必要になる。相当な無理もさせているに違いない。
では、亜人を虐げるのは何故なのか。ただの三等市民の一員とはせずに、人間ではないというだけで十把一絡げに酷遇の対象にするのは。単純に種族が、そして見た目が違うから? 本当にそうなのだろうか。
「このような理不尽に、本当に意味があるのかすら……自分には分かりかねます」
この問題に一番直面してきたであろうヴォルフが、目を細めて言葉を絞り出した。
迫害される側に立てば、誰でも困惑するだろう。何故自分がこんな目に合うのか。何故こんな事になったのか。自問自答しても大概の場合は、単独では明確な答えを見つけることは困難だ。
何故ならば、明確な非があって弾劾が生じてしまったケースというのは、話し合いの余地もまた残されているが、そうではない場合も世の中には起こりうるからだ。
そこにあるのは嫌悪や力の誇示を発端とした、集団的な弱者の淘汰だ。本能で生きる鶏の群れの中ですら起こる、その行為の名前は。
「もっと原始的な理由、なのかもしれない」
「不満のはけ口……ですか?」
「まあ、その可能性は高いかもね……」
エルザとランスロットが珍しく神妙な面持ちで言葉を交わす。その答えを見出した仲間たちの間に、陰鬱な空気が立ち込めた。
こと自然界の法則においては、強い者が栄養や子孫を多く獲得して、弱い者は爪弾きされ淘汰されてゆく。弱者を踏み台にするという行為は、生き物に予め刷り込まれている本能なのかもしれない。
外見が異質なモノを忌み嫌うのも同様だ。見慣れぬモノは病や事故といった命の危機に直結する恐怖がつきまとうので、防衛本能が警告をもたらすからだ。
それらを利用した奴隷階級の管理だと考えれば、一応の説明はつく。
亜人を自分たちの下に見る事で、どんなに苦しくとも「下には下が居る。自分たちはまだマシな方だ」と下卑た優越感を感じて納得させる。そうすれば敵意を一等市民や二等市民に向けることなく、三等市民のガス抜きが完了する。起こるはずだった内乱の何割かも、それで未然に防げた面もあるのだろう。
顔役の老人あたりは、この構造にとっくに気付いているのかもしれない。しかし彼は、スラムに住む数多の三等市民を守らなければならない立場だ。それが不満の矛先を逸らすための目眩ましなのだとは分かっていても、仲間の心を守るには、それを受け入れるしかなかったのではないだろうか。
「何の解決にもなってないと本当は心の奥底で気付いても。それでも、そこから脱することが難しいのは。亜人種も人間と、そう変わらないって肌で感じる機会がなかったからじゃないかな……」
「まずは相手にも自分たちと同じ部分があることを受け入れなければ、対等な関係を築くのは難しいということですか」
溜息にも似た停滞感が部屋を満たした。垣根を無くす。それには、ここからまた少しばかりの時間を必要とするのかもしれない。そう思っていた、この時までは。
しかし欺瞞や固定概念に囚われて四苦八苦している大人をよそに、なんとも嬉しい誤算が起こった。最初に亜人と人間の間に有った見えない垣根を超えたのは、子供たちだったのだ。
体格の違いもあまりない子供同士は余計な知識が無い分、お互いを新しく増えた遊び相手としか思ってはいないようで、種族の違いなど大した問題ではないとばかりに追いかけっこやボール遊びをして、はしゃぎ回る姿が毎日見られた。
畑の作業の手伝いも、子供たちかかれば土遊びの延長だ。大人がくだらない意地を張って協力し合えないのを笑いながら、スラムの子供もコボルトの子供も、競争しながら種植えや収穫を一緒になってどんどんこなしていった。
それを「子供は無邪気だな」などと呆れ気味に眺めていた大人たちにも、変化が起こり始めた。近年ハルモニアに合併された小国の出身者たちが、徐々に亜人たちとの距離を縮めていったのだ。最初は他の人間側の仲間に同調した態度をとっていたものの、子供たちの姿が、元々の国では亜人差別などなかった事を思い出させたようだ。本来の自分たちの姿を取り戻すかのように、亜人との協力を惜しまなくなった。
国内では冷遇されている亜人種だが、国境警備の傭兵などでは人間と同じ待遇で雇われている。どうやらハルモニアの中でも、外の世界により近い方が柔軟性があるのは間違いないのだろう。
その理論は的を得ていたのか、対照的に残った人間側の態度は頑なだった。彼等は何十年、またはそれ以上の長い時間三等市民だった一族の出身者で、生まれた時から三等市民だった。もう取り返しがつかないほど、ハルモニアの用意した思想に染まりきっている。どうしても亜人と協力することに抵抗があるようだったが、そんな変化してゆく環境と葛藤の中から、とうとう彼等なりの妥協点を見つけたようだった。
「あんたらが慣れてないのは分かるが……。危なっかしくて見ておられんわい、鍬の振り方はこう! おい、ジャガイモは連作障害を起こすぞ。次は違う野菜にするからな!」
決して優しい態度ではないものの、ぶっきぼうに仕事を教える姿が散見できるようになったのだ。仲間というよりは、仕事の部下くらいの距離感に見える。指導を受けているコボルトやリザードも、特に嫌な顔もせず熱心に仕事をしている。
農耕を担当する人間たちは、希望して畑仕事をしに来ただけあり、みな例外なくやる気に溢れている。その多くは過去に農業の経験がある者で、元々は立派な自分の畑を持ってたのだと教えてくれる人も居た。
彼等も、急に距離が近づいて戸惑っていた部分もあるのだろう。経験を活かしたこういう形ならば、接する事が出来ると気付いたようだった。
*
炊き出しを広めてくれたのも、亜人と人間の垣根を取り払ってくれたのも、子供たちだ。どちらも軌道に乗り始めた今、どうやら教会に明るい光を差し込んでくれる彼等にも手を差し伸べる時が来たようだった。
最初にやったのは、身なりを整える手伝いだ。靴を履いていない者には靴を与え、髪が伸び放題の者の散髪を手伝った。
靴で足を保護すれば、街中で硝子の欠片などを踏んで破傷風になるのを防げる。髪を切れば、蚤や虱が寄り付きにくくなって病気の予防になる。不衛生な場所に住んでいる彼らに、そういった身を守る基本的な知識を周知させた。
次に着手したのは、収入を得る手助けをすることだ。
自立を手伝う。つまり彼らでも出来る仕事を与えるのは、今までのようにただ施しをすれば良いのではなく、盗みや物乞いといった貧しさから来る負の連鎖を断ち切るのが目的だ。
スラムに家族と住んでいる子はまだマシな方で、養って守ってくれる大人が居ない孤児の場合は、収入の有無はより深刻な問題だ。教会に来てくれれば最低限の食事の面倒は見れても、それ以外は口を出しすくらいしか出来はしない。
ただ物や食事を与えるだけでは、彼等が自らの力で生きて行くには程遠い。もしもクロッツェオ教会の力を借りれなくなっても、生きていける方法があるのだと示す必要があった。
子供でも出来るほど体力を必要とはしない、そして難しくない仕事を考えた。
ある程度年上の少年達には、畑仕事や荷運びといった、ほどほどの力仕事を中心に割り振った。
力仕事に向かない少女たちには、また違う仕事を。
まず最初の一回は無料で花を配り、その花で小さなブーケを作らせる。そして彼女たちは道端や教会、墓地の入り口などで作ったブーケを売る。教会の名前を入れた簡易的な身分証も渡して、チンピラに目をつけられたり邏卒に追い払われるのを防いだ。そのブーケの売上がそのまま彼女たちの収入となり、また翌日材料となる花を少しの代金で買いに来るというサイクルが出来上る。
希望者には針仕事も教えた。腕が上がれば、行く行くは服の仕立て工房の下働きとして働くことも可能だろう。
そういった仕事もまだ出来ないほど小さな子たちには、押し花の栞やポプリなどを作る手伝いをしてもらった。
そして、すっかり頭から抜け落ちていた問題にも直面した。ブーケの歩き売りを始めてから、計算が出来ない子が結構居ることが分かったのだ。
ハルモニアは歴史の長い国であるため識字率は高いのだとレナに聞いていたのだが、生まれながらに奴隷同然に扱われていた彼等は、まともな教育を受けられずに文字が読めない者、計算が出来ない者がそこそこ居た。なので、スラムの大人の中から有志の教師役を募って、仕事の合間に時間を設けて学校の真似事も始めた。
それからというもの、ルディスの姿を見つけるためびに駆け寄ってくる子供たちが、自分の名前を書いた紙を嬉しそうに見せてくれるようになった。大人も子供も、それまで満足に出来なかった勉強を心から楽しんでいるようだ。
コボルトを始めとした亜人たちも一緒になって字を覚えたので、離れ離れになった仲間や家族の所在を調べるのに手を貸すと、見つかった同胞に手紙を出していた。今まではそんな当たり前の事まで人間の許しがなければ出来なかったのだと、感激した様子で文字を綴っていた。
花や野菜を手に友達と一緒に作業する笑顔の子供たちを前にして、思わず隣に立つ顔役の老人に笑いかける。彼もこの頃には、教師役のひとりに名乗りを上げて教会に足しげく通うようになっていた。
「これでもう、子どもたちが危ない真似をしなくても良くなりますよね」
「ええ、本当に。本当にそのとおりです……」
すると彼は幼子たちを優しい眼差しで見つめながら、ぽつりぽつりと語り始める。
「我々も、これまでどうにかする努力はしてきたのです。しかし半ば諦めておった。いくら足掻いても、結局は何も変わらないのだと……。そんななか紋章狩りのお触れを聞いた時は、どうなることかと思ったものです」
山積する問題の中、仲間を守るためにこの老人は、どれほど頭を悩ませてきたのだろうか。
最初はルディスの事も、期待はしていなかったはずだ。あわよくば無知な成り上がりを利用してやろうとすら思っていたのかもしれない。だが今は、こうして心を開いて言葉を交わしてくれている。
「いま我々は希望を胸に汗を流して畑を耕し、腹を満たして幸せに眠ってる。みなは奇跡だと申しますが、あなた様が我々に下さったのはきっと、我々が久しく忘れていた光そのものなのだと、わしは思うのです」
何十年、何百年と変えられる者が居なかったこの国の悪習を、自分のような世間知らずの娘が変えることなんて出来るわけがない。それでも、このスラムに日溜まりに咲く希望の種が芽吹いたのは事実だ。
大きな改革など何も起きなかった。ほんの少し、笑顔が増えたというだけのこと。それでも、顔を見れば分かる。ここに集まる者たちは昨日よりも今日が、今日よりも明日が良い日になると、心から信じている。
「………ほんの少し償えた、のかな……」
脳裏に浮かぶのは、冷たい地下牢で出会った不条理の末路。
か細く吐き出されたつぶやきは、誰の耳にも届かずに風に乗って空に消えた。
「お互い、大変な方に見初められたものだ」
「その点だけは、同感だよ」
呆れたように、そしてほんの少し誇らしげに、笑顔が溢れるクロッツェオ教会を前に、護衛のふたりが囁き合う。仲間のささやかな賛辞も耳に届かぬままに、遥か彼方を流れる鮮やかな雲が、季節が夏へと変わろうとしているのを告げていた。
2016年06月14日初稿作成
2020年07月01日サイト移転