Ⅻ 招かれざる客
昼時の教会の前庭には、食欲をすくすぐる何とも言えない良い匂いが漂っていた。本日の炊き出しメニューのシチューの香りだ。
大半がまだ郊外の畑仕事に出払っているので人影はまばらだが、力自慢の男達が穴だらけの教会を修繕する音と、配給の用意で炊事をする女達の談笑とが交わり、穏やかな喧騒に包まれている。
シチューにはクロッツェオ教会が管理する農耕地で育った玉ねぎ・じゃがいも・人参・ほうれん草といった野菜。それに加えて森で取れたきのこと、少々の肉が入っている。きのこと言えば秋といった印象があるが、春に採れるものもあるので鼻の効くコボルト達が採ってきてくれるのだ。
いくつかあるレパートリーの中でも特に人気の高いメニューであり、炊き出しを始めたばかりの頃の塩味のスープとは比べものにならないほど美味であることは、香りに誘われてうろうろしている気の早い子供たちを見れば疑いようもない。
畑では順調に薬草や野菜や麦が連日実をつけていて、老若男女はもちろん、今では種族も問わず一緒に汗を流している。最近では薬師との取り引きがあることを生かして簡易的な診療所も始めたので、女たちはそちらで働く者も多かった。
そのクロッツェオ教会の最上階に位置するルディスの執務室では、小さな吟遊詩人による演奏会が開かれていた。窓辺に腰掛け、初夏の柔らかな日差しを浴びながら横笛を奏でる少年の横顔を見ていると、その様子を「まるで本から抜け出て来た天使様のようだ」と以前誰かが言っていたのを思い出す。
この時間、礼拝堂では子供たちを対象にした学校が開かれているのだが、他の子供たちがそちらに行ってしまうと、ネウトはいつもひとりでルディスの執務室に来ていた。
今まで周りに同い年ぐらいの子供が居なかったために音楽が友達だった彼が、今ではウルリケだけではなく、教会に集まる子供たちと一緒に過ごしてる。意見を主張するタイプではないのでどうしても聞き役に回る事が多いようだが、それでも飽きずに同世代の子供たちと接しているので、机を並べるのが嫌で逃げいてきているという訳ではないらしい。
ただ単に、ササライの屋敷と円の宮殿で一足先に学問を覚えた彼にとっては、簡易的なスラムの学校は知っている知識をなぞるだけの、少々退屈な場所なのだろう。
「初めて聴いた時も思いましたが、見事なものですね。この年でこれだけ出来る者など他には居ないでしょう」
「うん、いいよね。私も好き」
一曲終わってランスロットが賞賛の拍手を打った。それに賛同の声を上げると、少年は笛を胸に抱いたまま俯いてしまう。音色に誘われて降りてきたのか、部屋の中には演奏の途中で入室してきたエルザの姿もあった。
「……でも、かんじょうひょうげんがまだまだって、いつもせんせいにいわれてたよ」
「そんなの。気にしなくっていいんじゃないかな。ネウトはまだ小さいんだから焦らなくっても、これからいろんなことを覚えていくんだから」
箱入りゆえに他人の評価に晒されることに慣れていない少年の頭を優しく撫でると、少し目尻を赤くしたまま彼はこちらを見上げてくる。色素を持たない白が、キラキラと光をはねて踊った。
外を出歩くようになってからというものの、彼はフードや手袋といった遮光の装いと日焼け止めの塗り薬で太陽光に弱い自分の肌を守っているが、それに加えて今は「木漏れ日の紋章」という特殊な紋章も付けていた。これは宿しているだけで少しづつ体力が回復する効果を持つ紋章で、以前彼がプレゼントした青い薔薇の返礼の品としてササライが贈って来た物だった。元々弟の虚弱体質を心配していたので、気兼ねなく長時間の外出が出来るようにと配慮してくれたのだろう。
「……”先生”? ぼうやは学校には参加してないんだろう、神殿に家庭教師でも居るのかい」
「ううん。いまはおやすみしてる。ぼくのせんせいをできるひとが、もういないから……」
つとめて平常を装ってはいるが、少年は明らかに気落ちしていた。何故なら、彼に音楽指導をしていた家庭教師たちは全員、すでにその職を辞してしまっているからだ。
彼の家庭教師は、ハルモニアでも指折りの音楽家たちが揃えられていた。しかし教育係として神殿に招かれたはずの彼等は、数ヶ月後には、優秀な自分たちを10歳にも満たない少年が軽々と凌駕していく現実を見せつけられる事となった。
厳しい教育の甲斐もあり、手足の長さや体の大きさといった身体的なハンデを差し引いても、技術の面ではネウトは並の音楽家を超えてしまったからだ。
しかもまだ本質の面では未熟ではあるものの、まだ7才のネウトと彼等では伸びしろに違いがありすぎる。最終的に到達する領域が己の遥か上だと、思い知らされてしまったのだろう。
いつの時代も、老いし者は若い才能に、嫉妬を抱く。同じ道を歩む者ほどそれは顕著だと言われている。
プライドが高いがゆえにその事実を認める事を拒んだ家庭教師たちは、教鞭を置いた。そうしなければ自分が音楽家として死んでしまう。そんな危機感を感じ取ったのかもしれない。
同じ生まれを持つササライも、幼少の頃にはすでに非凡な魔法の才能を開花させていたと聞いている。ネウトの場合はそれが音楽だったのだろう。
ついには彼の家庭教師を請け負う者は居なくなり、現在は教える者を欠いたまま自主的な練習をこなす日々が続いている。
以前彼の身を脅しの材料にされた事もあり、時間と場所を問わずに一緒に過ごすことが出来るのは有り難いとも考えられるのだが。しかしそんな事情があったにせよ、同年代の子供たちと過ごす楽しげな姿を見れば、外に連れてきて良かったと素直に思えるのも事実だった。
「お昼前にエルザが降りてくるなんて珍しいね。ちょうどいいし、今日は下で一緒に食べようか」
「……遠慮します。報告に来ただけですので」
「報告?」
「どうやら来客のようです」
雇い主の誘いをつれなく断わると、ガンナーの女はドアの向こうに伸びる廊下の先を指し示した。直後、階下から螺旋階段を昇る規則正しい靴音が響いてきた。足音から察するに、人数は二人。
意味ありげな物言いに目を瞬かせていると、ほどなくドアノックが鳴った。ドア近くに居たエルザが返事代わりに無言でドアを開けると、見覚えのあるくすんだ金髪が顔を覗かせた。
「うわっ……と。よ、よう。久しぶりだな、ルディス。ちびすけも元気そうじゃないか」
「ラッシュ!?」
ドアと一緒に前のめりになりながら入室した男は、気まずそうに片手を上げて苦笑いを浮かべた。クリスタルバレーに来てから最も多くの時間を共に過ごしてきた青年の突然の来訪に、嬉しい驚きを覚えて思わず駆け寄る。
「本当に久しぶりだよね。どうしたの急に?」
「いや、今日はちょっと、お前さんの顔を見にだな……」
再会の挨拶を交わすかたわら、ネウトがルディスのスカートの後ろに隠れて、張り詰めた様子で入り口方向をじっと見つめている。彼にとってラッシュは、ササライの屋敷で護衛兼世話係かつ遊び相手として馴染み深い顔のはずで、いまさら警戒の対象にはなりようもないのだが、どうしたのだろうか。
すると、何故か申し訳なさそうに言葉を濁し続ける青年の後方から、もうひとりの来客が業を煮やした様子で歩み出て来た。廊下の薄闇から姿を表したのは、それこそ思いもよらない人物。
家族を持たない自分に母の暖かさを教えてくれた人。ユーリ・ラトキエだった。
*
仲間に無理を言って席を外してもらってからユーリに椅子を勧めたが、断られた。ラッシュは腕を組んで扉口に背を預けており、一歩下がって見守る姿勢を決め込んでいる。ルディスの顔を見に来たのはきっと正しくは彼ではなく、ユーリなのだろう。
「急に押しかけてしまってごめんなさい。やっぱり迷惑……だったかしら?」
「そんな。来て下さって嬉しいです。スフィーナ家で会ったきり、あれ以来また……なかなか会えなくなってしまいましたから。お元気そうな顔を見れて安心しました」
「ええ、私もよ。私もずっと貴女に会いたかったの」
翠玉の視線を伏せて、両手を胸の前できつく結んだユーリの可憐な薄紅の唇からは、ひどく思い詰めた響きが紡がれる。
「あなたが帰って来なかったあの日から、ずっとずっと後悔していたの。どうして離れ離れになってしまう前に伝えられなかったのかしら、って……」
静かに彼女の言葉を待ちながら、以前も似たような状況になった事を思い出した。スフィーナ家の応接間で急に抱きしめられた、あの光景が頭を過る。
今のユーリは、あの時よりもずっと落ち着いているように見える。しかしいつも朗らかな笑顔を見せてくれるはずの彼女の顔には、何故か己を責めるような色が貼り付いていた。
どこか具合でも悪いのだろうか。そう思って、うつむき加減の彼女の顔を確認する為に一歩近づくと、ふいに両手を握られた。
いつもは儚いほどに揺らめいている翠の瞳。それが意を決したように正面を向いて、真剣そのものの色でルディスをとらえている。こちらを離すまいと握りしめる彼女の両手に、一層力が込もる。
「ねえルディスちゃん、私と……ラトキエ家と、養子縁組をしましょう?」
「なっ……!」
ユーリの後ろに居るラッシュが絶句する。必死の形相を作る彼女の口から飛び出したのは、まったくもって予想外の提案だった。
「ルディスちゃん、ラトキエ家に戻ってきて。養子縁組をして本当の家族になれば、お互いに会いに行くのも不自然じゃなくなるわ。きっと今からでも遅くないもの、ね、お願いよ……!」
驚きのあまり、言葉もなく呆然と目を見開く。それは、思いもよらない告白だった。返事を恐れているのか、これまで溜め続けた寂しさを吐き出すためなのか。ユーリは一方的に喋り続ける。
戸惑うこちらを説き伏せようと、必死に縋り付く姿がいじらしくも痛ましい。最早握りしめられている手は痛いくらいだ。されど何と言えば良いのか分からず、ただただユーリの顔を見つめ返すばかりだった。
「おい母さん、落ち着けって! 見ろよ、ルディスも困ってるだろ」
「あ………」
見かねたラッシュが割って入ると、ユーリはハッとした様子でようやく手を離してくれた。
肩に置かれた息子の手に優しく引き剥がされるままに数歩後ずさると、悪戯を咎められた子供のように小さくなって謝罪を口にした。
「ごめんなさい。イヤ……だったかしら?」
「そんなことは……いいえ、うれしいです。……ほんとうに……」
少し落ち着くと、目尻に熱いものがこみ上げてきた。あのころ、何度思ったことだろう。自分がラトキエ家の本当の娘なら良かったのに、と。母と慕っていた女性も、同じ気持ちでいてくれたのだ。
しかし今の自分は、ただのラトキエ家の居候ではない。曲がりなりにも国に仕える身だ。勝手な真似が許されないとは思えなかった。
「でも私はもう神殿に入っている身で……。今からそんな事が出来るのかは、確認してみないと分からない……です」
「そ、そうよね……。でも、どうしても直接伝えたかったの。貴女はもうラトキエ家の一員で、法の上でもそれを実現出来る手段があるのよ、って」
「………ごめんなさい、ユーリさん」
ごめんなさい。優しい貴女を、がっかりさせてしまって。
絞り出した謝罪の言葉が、喉を締め付けた。嬉しいのに。それなのに、それを掻き消すような現実的な言葉を言わなければならないのが嫌で仕方ない。
「謝らないで。ねっ……? ………返事、待っててもいいかしら?」
暖かい声色につられて視線を上げると、いつも彼女がラトキエ家で見せてくれていた笑顔がそこにはあった。どうにも胸がいっぱいで同じような笑顔は作れないが、頷いて見せる。するとユーリは嬉しそうにラッシュにも笑みを向けた。
そして法衣の上からギュウギュウにルディスを数回抱きしめると、それでようやく気が済んだのか、レナに借りた馬車を待たせているからと言い残してユーリは城壁の中の中心街へと帰っていった。
箱入りのお嬢様育ちのユーリが郊外のスラムの教会に来るなんて、一大決心だったことだろう。よくササライやレナが許したものだと思ったが、結局どうしてこんな事が起こったかのかは、翌日弁明に来たラッシュの説明を聞くまでは、謎のままだった。
*
「それでそんなに分かりやすく、落ち込んで帰って来られたというわけですか」
内容の重さとは裏腹に、ステラの口調は天気の話をする時と同じくらいに軽かった。いま彼女は、重さを増したルディスの濡れ髪に櫛を通すという、至極真っ当な侍女の仕事に勤しんでいた。
腰掛けた鏡台の鏡越しに会話をしながら、手元に用意されたお茶に手を添える。就寝前の身には、その人肌の温もりが心地よい。
カップの中身はステラオリジナルのハーブティーだ。配合も彼女が行っているというだけあって、これを飲むと本当に驚くほど寝付きが良くなる。今では眠れない日は髪を乾かしてもらいながら、このお茶をゆっくり飲むのが習慣になっていた。
眠れそうにない理由。それはやはり、昼間のユーリの一件に他ならない。彼女の言葉があれからずっと頭の中を残り続けて、あの後ろくに仕事も手が付かなかったのだから自分でも重症だと思う。この調子に加えて寝不足などという状態は避けたかった。
様子がいつもと違うのを目敏く感じ取ったのだろう。自室で二人きりになった途端、見計らったようにステラは問い正し始めた。文字通り頭を押さえられているこの状態では逃げることも出来ないので、仕方なしに一切合切話す流れになった。
『ユーリさんに養子縁組をしないかと言われて、それで……』
『あら、それはそれは』
ほんの数分前にそんなやりとりをした時は、まるで恋物語を耳にして恥じらう少女のように、手の平を頬に当てた格好をしていた。
彼女が春先にラトキエの名を口にしていたのは記憶に新しい。ユーリとの手紙のやりとりも把握されているので、ラトキエ家について相談する身近な相手としては適任といえば適任ではあるように思える。
多少気心の知れた今ならば、まともな答えも期待出来るのではないか、という期待も含めても。
「そういえば、ステラはラトキエ家を知ってるんだよね」
「ええ。今でこそ落ちぶれてはいますが、私が子供の頃は民衆派を代表するほどの大貴族でしたから」
返ってきたのは、期待していたものとは少々違う答えだった。歳の頃合いからユーリの知人か何かかと思い込んでいたが、どうやらラトキエ家自体が、昔は知らぬ者の居ないほどの大きな家だったのだと彼女は言いたいようだ。
そういえば以前過ごしていたササライの邸宅は、元々はラトキエ家の別荘だったとも聞いた気がする。しかしやはりそれを耳にしても、小さな家でたった三人で暮らす今のラトキエ家からはおよそかけ離れ過ぎていて、結びつかなかったのだ。
それでも、はぐらかす事なくステラが質問に答えてくれたことには感動を覚えた。このままもっと踏み込んだ話をしたいと思ってしまったのは当然の心理だろう。
寝台に目を向ければ、先に髪を乾かし終えたネウトが寝息を立て始めていた。最近は帰りの馬車の中で居眠りをしている姿を見ることも多い。毎日外に出ているのが良い運動になって、眠りに入りやすいのだろう。
他の侍女は既に下がらせているのでこの部屋に残っているのは、眠っているネウトとルディス、そしてステラの三人だけになる。一対一で秘密の話をするなら、このタイミングしかない。
「どうしてラトキエ家は没落したの?」
多少の緊張を抱えながら続けて疑問を投げかけると、ステラはまたもや、あっさりと答えを返した 。
「あの家は、その繁栄を妬んだひとりの男の手によって潰されたんですよ」
クリスタルバレーに来た初日に、ラッシュからラトキエ家のお家騒動の顛末は聞いた。しかし肝心の、彼の父親がラトキエ家を潰した理由については尋ねてはいない。生まれる前に死んでいた父親の所業に深く傷つく彼の口からそれを言わせるのは、とても酷な事なのだと分かっていたからだ。
「恨まれるような事をしていた家だったの?」
「いいえ。むしろ一等市民の中ではマシな方だったと思いますよ?」
「じゃあ、どうして」
「何故ラトキエ家を狙ったか、ですか? ただ単に、狙いやすいお人好しの貴族だったからだと思いますよ」
「え……?」
「三等市民から見れば貴族なんてどれも大差ないですしね。そうじゃなくても、他人よりも多くを持っている人間というのは、それだけで妬みも買ってしまうものですから。どうしても、ね」
商売で恨みを買う。政治の争いで負ける。そんな明確な理由があるならまだしも。
ラトキエ家は、三等市民が抱える無差別な一等市民への憎悪を受けて、没落した。その事実を知って、言葉を失った。
「………ガンナーだったんだよね、その男は」
「あら、よくご存知で」
「お願い。ステラの知っていることをもっと教えて」
振り返り、生乾きの髪をもてあそぶ彼女の手を振りほどいて懇願する。彼女にこれほど感情的にぶつかるのも、食い下がって頼み込むのも、初めての事だった。
すると微笑に浮かぶ冷めた瞳が、しばしこちらを品定めするように視線を絡ませた。そしておもむろに伸びてきた片手が、生乾きの髪を通り抜けてやさしく頬に触れた。
ランプの光の中、作り物のように輝き煌めく金の髪。一等市民の証の碧眼。実年齢よりも若く見られるのだと自慢する、白く透明感のある肌。
その時、初めて彼女の顔を真正面から見た気がした。
「どうしてそんな事を知りたいんですか? 暗殺を司るギルドの話なんて、いい子の司祭様はしてはいけないのでは?」
「もし養子縁組をすれば、もう私も無関係じゃない。ううん……今だってそう思ってる。だから知っておきたいんだ、ラトキエ家になにがあったのかを」
こころなしか、年嵩の侍女は少しばかり楽しげに笑みを深めた。
そして黒髪黒眼の自分とは似ても似つかないその容貌がほんの一瞬、何故か鏡の中の自分と重なって見えた気がした。
ルディスに鏡台に向きなおるよう促して髪梳きを再開した彼女は、記憶を辿る口調で語り出した。
「……その男はラトキエ家を乗っ取るつもりだったんですよ。でもそれが失敗してからは、ラトキエ家を消した功績を使って神殿派に取り入ったんです」
常に一定の温度を保っていた彼女の声が、にわかに熱を帯びた。
そして気付けば、あやすように頬を撫でていた指先は、より細い場所へと移動していた。後ろから伸びる十に増えた指が、遊ぶような仕草でゆるやかに首を包む。
悪戯にしてはタチが悪い。そうは思えど、ネウトを起こしたくなくて騒がずにいると、ほどなく圧迫感は消え去った。首に在った指が一本残らず、鏡の中で髪の簾の向こうへと波が引くように去っていくのを目で追う。
「ですが、それも失敗に終わりました。どちらも生き残っていたラトキエ家の長兄の妨害が入って、成功しなかったんです。結局男は最後までラトキエ家に勝つ事は出来なかった……という事なんでしょうね」
両手を上げて反省を示しつつも、何事もなかったように朗らかに告げる彼女の顔を見上げながら、喉を抑えて小さく咳き込んだ。
遊ばれただけのようだが、彼女の隠し持つ攻撃性を垣間見たことには違いない。堅気ではない雰囲気は元々あったが、話している時の目の色が本気だったので、どちらかというとこっちが彼女の素に近いのかもしれない。
それだけ危険な内容だったのだという、彼女なりの警告……だったのだろうか。
ラトキエ家当主を殺害せしめ、お家乗っ取りを謀ったガンナーの男。
大切なものを奪われて復讐者となった兄。
愛する者たちの殺し合いを止められない、無力な妹。
過ぎた昔話として受け止めていたそれらが、ピースの欠けていたパズルを繋ぎ合わせたように、現実味を帯びて浮かび上がった。
ラトキエ家に降り注いだその悲劇すべてが、たったひとりの男の憎悪から起こったという事実に戦慄を覚えると同時に、腑に落ちるものも感じていた。
かつての婚約者と同じ黒髪を、綺麗だと褒めてくれたユーリ。遠い目をしながら発せられた言葉は、その黒に愛した男の影を追わずにはいられなかったからなのだろう。そして裏切られていた事をもし承知の上だったとしても、ユーリは最後まで、そして多分今も、婚約者だった男を愛し続けているに違いない。
今ならば分かる。黒髪黒目という特徴から薄々は気づいていたが、ラッシュの父親はやはり三等市民の出身だったのだ。
もちろんラトキエ家がハルモニアの階級制度の上に成り立っていた家だったのは、否定できない事実かもしれない。だが三等市民として辛酸を嘗め続けた者の恨みつらみの矛先が、狙いやすいという理由でラトキエ家に向かってしまったというのは、ラトキエ家に気持ちを寄せる者としてはあまりにも釈然としない。
ラトキエ家もラッシュの父親も、どちらもこの国の階級制度の犠牲者であることには違いないのだから。
しかし、ほえ猛る声の組合のガンナーであった父親の事は箝口令が敷かれていて、関係者であるごく一部の人間しか知り得ないのだとラッシュは言っていた。なのに何故、彼女はこれほどまで事件の詳細を知っていたのだろう。
密偵の侍女。死んだガンナーの男。ラトキエ家。一見関連性が薄く見える出来事の共通点は、裏の世界に関わる者でなければ、その真実を知ることは困難だという点だろう。
「あなたは、もしかして……」
ひとつの憶測にたどり着き、再度振り返ってステラを見上げた。すると今度は、その先の不用意な言葉をそっと殺すための人差し指が、唇へ寄せられた。長生きしたければその先に軽々しく踏み込んではならぬのだと、幼子に言い聞かせるように。
神殿内でするには少々迂闊な質問だったのだろう。「ほえ猛る声の組合の関係者ですか?」などという間抜けな問い掛けは。
裏がある人だという事は重々承知していた。密偵行為のみならず、彼女はどういう訳かその辺の薬師よりもよほど薬学に精通してたのだから。ハーブティーだけではなく、外に出る際にネウトが使う日焼け止めクリームも彼女が作っている。もし彼女が想像の通りの人間ならば、その技能の高さも納得がいく。
これまで口にする物や肌に触れるものを用意していたのだ。ルディスやネウトに危害を加えるつもりなら、とっくにやっているだろう。ましてや、こんな正体を明かすような真似もする必要も無い。さしずめ彼女の立場は、逃亡および反逆に対処するための監視役といったところだろうか。
結局、音を得なかった質問に返答が返されることはなかった。ステラは今しがたの悪ふざけや黙殺などなかったように、いつも通りの笑みをにっこりと浮かべて見せる。
「それで、どうするつもりです?」
「ど、どうするって?」
「決まっているじゃないですか、養子縁組のお返事ですよ」
ひとまず、ギルドの秘密を守るための脅しの話ではないようだ。
「………まだ、決められていない。まずはフュルスト卿に相談してみないといけないだろうし……」
これ以上、ユーリを悲しませたくない。その思いが強くなっただけだった。
しかし縁談を受けるにしろ断わるにしろ、それがどう転ぶのかが自分の頭では予測がつかない。そもそも神殿付きの司祭の身の上で可能なのかもすらも。こういった複雑な思惑が絡む案件は、ひとりで決断するのはリスクが高すぎる。
「相談もよろしいですけど、いいように使われ過ぎて火傷なんてしないで下さいね」
「それはどういう意味?」
「力のある者が手を貸してくれるのは、それが相手にとっても都合が良いからです。だから逆に利用するくらいが丁度いいんですよ」
ステラの言う事は良く分かる。
フュルスト卿もルディスを民衆派に組み入れるために声を掛けたことを、隠そうとはしていない。相手も政治家である以上、そこには善意のみではなく何らかの打算が入っていると考えるのは当然だろう。
だからこそ利害が一致しなくなったら一方的に見放される危険性もあるのだと、彼女は指摘しているのだ。
「信用しすぎるな、ということだよね……。分かってはいるけれど、彼女の助けが無かったら、こんなに早く理想を実現する事は出来なかったから」
理屈では理解しても、あれほど親身になってくれている老女を端から疑うなんて、どうしても保身よりも後ろめたさの方が勝ってしまう。親しくしている対象とも駆け引きを意識しなければならない事に嫌気が指して俯くと、それを見ていた鏡の中の侍女が溜息をついた。
「あら私ったら、柄にもなくお小言が過ぎてしまったようですね。さあさ、おしゃべりをしているうちに終わりましたよ」
顔を上げると、さっきまで湿り気が残っていた髪は艷やかに乾いていた。ステラは使い終わったブラシを手を伸ばして鏡台に置くと、さり気ない動作でルディスの膝の上に何かを落としていった。手の中に降ってきたそれは、身代わり地蔵と呼ばれる人形だった。
所有者が危機に陥ると身代わりに厄を引き受けてくれるお守りの一種で、高価かつ一度厄を肩代わりすると壊れてしまう消耗品なのだが、その性質から軍人や旅人に重宝されている。戦支度に湧くハルモニアでは今や、なかなか見掛ける事の出来ない貴重品となっていた。
「これ、どうしたの? 今はどこも品薄なのに」
「有る所には有るものですよ。ふふふ、これで貸し借りはチャラですね」
貸し借りとははて何の事かと思い悩んだが、すぐに密偵行為に目をつぶった件だと思い至った。
「ありがとうステラ、肌身離さず持っておくよ」
彼女なりに身を案じてくれているのだろうか。さっそく枕の下にウルリケにもらった木彫りの人形と一緒に忍ばせた。お守りと言うくらいなのだから、この二つはいつも身につけておくのがきっと良いのだろう。
「でも”ジゾウ”だなんて、面白い名前だよね」
「なんでも、南のトランやカナカンあたりが発祥だそうですよ」
「トランかぁ。いつか、行ってみたいなあ……」
何気なくこぼした言葉にステラが返してくれたのは、就寝の時を告げる挨拶だけだった。どんなに望んだとしても、ルディスもネウトもハルモニアの外に出るのは許されない身だと知っているからだろう。
ハーブティーのお陰か、それとも悩み事を吐き出せたからなのか、心と体が少し軽くなった気がする。
夢の中なら、黄金の都グレッグミンスターに行けるだろうか。そんな空想を思い描きながら、部屋を出てゆくステラが扉を締めるのと同時に、暗闇を照らしていたランプの明かりをそっと吹き消した。
あの日、改めて説明に来ると言い残してユーリと共に去ったラッシュは、予告通り今度は一人で教会に現れた。護衛のふたりに両脇を固められながら少し肩身が狭そうに歩いて来るその姿は、出来心で捕まってしまった気の良い泥棒が連行されているようにも見えなくもない。
「昨日は悪かったな、ルディス。言い訳になっちまうが、あんな事になるなんて俺も思っていなかったんだ」
執務室に入るなり彼が出し抜けに言い出したのは、自分の落ち度を悔いる謝罪の言葉だった。昨日一緒に驚いていた様子からも、彼もまた何も知らされずにユーリの決意を聞いたのだと言うことは推察できるというのに。責任を感じているようだ。
「ユーリさんは、薬の生産で有名になったこの教会を私が運営している事を知って、会いに来てくれたんだよね」
「ああその通りさ。お前さんに会いに行きたいと毎日ごねられちまってな。俺もレナ叔母も根負けしたんだ。一回顔を見ればそれで落ち着くかと思って、連れて来てみたんだが……」
結果はこの通りだと言いたげに、青年は緩く波打つ髪を揺らしてかぶりを振った。
ユーリの来訪自体はレナやササライの承諾を得た上のものだった。しかし養子縁組の話に関しては完全なるユーリの独断であり、ラッシュとっても寝耳に水だったのだと言うのだから、彼を責めるのも筋違いだろう。
レナあたりには話していたとしても不思議ではないが、彼女は現実的な物の見方のわりにユーリには甘いところがある。姪が養子縁組をしたいなどと言い出しても、いつもの心配性だろうと判断して、肩を抱いて慰めてあげるだけで周りに触れ回ったりはしないだろう。長い間、そうやってふたりで肩を寄せ合ってきたように。
ササライもまた、ユーリを可哀想な女性として見ていた節があった。行動力を侮り同情のみで許可を与えてしまったのかもしれない。
そして寂しさを募らせ人知れず思い詰めたユーリは、安全なクリスタルバレーの高級住宅地から飛び出し、スラムの外れにまで来てしまった。住人が次々と消えて温かさを失っていくラトキエ家にルディスを呼び戻すという、ささやかな野望を胸に抱えながら。
「今日も許可をもらってここに来たんでしょう? ササライは、何か言ってた?」
「この件に関してはそう心配するなとさ。これ以上何事もなければ、お袋を宥めつつ縁談の話自体を無かったことにして下さるそうだ」
「そう……じゃあ、もう、返事は要らないんだね。フュルスト卿と相談して決めないといけないと思ってたから、助かった、かな……」
ササライは、ルディスとラトキエ家の繋がりは必要が無ければ公にするべきではないと考えているのだろう。
ハルモニアの上流社会は、出身の家がすべてといっても言い過ぎではない。家の属する派閥に下の者たちもならい、過去に醜聞があれば永遠にレッテルを貼られてしまう。
たとえその栄光が今や見る影も無くなってしまったとしても、ラトキエの名を名乗ればその意味も同時に背負わなくてはならなくなる。庭師の老人に裏切られた時のように、利用しようと近付く者が出ないとも限らない。だからそれらの害をなす者達から身を守るためには、成り上がりらしく出自や家などはいっそ無い方がむしろ良いのだろう。
理屈は通っている。納得も出来る。
しかし心配するなという頼もしい言葉を聞いても、心を満たしたのは安心ではなく、失望にも似た気持ちだった。
言葉は優しくともその内容を良く噛み砕いてみれば、ユーリとルディスの縁組は当人達以外にとっては吉報などではなく、面倒事にしかならないと言われているのと同じなのだから。
「先程からまるで他人事のような言い草ですが、ラトキエ家の養子縁組というなら、貴方も当事者でしょう。ご自分の意見はどうなんですか?」
それまで真正面のルディスと向かい合っていたラッシュは、今度は彼と同じくらいの背丈の青年が立っている左方向へと顔を向けた。
「俺か? 俺は、そうだな。もちろん……」
「時間の無駄だよ。こんな何をするにも中途半端な男にそんな事聞いたところで、どうにもなりはしないんだからね」
「はは、手厳しいな………」
両サイドから真逆の内容で突かれ詰め寄られれば、後ろ頭を掻きながら乾いた笑いを返す他ない。逃げ場のない中心に立つ青年はお手上げとばかりに苦笑いを浮かべる。
言い淀んだ言葉がエルザの冷ややかな横槍によって掻き消されると、その先が賛成なのか反対であったのかは本人のみが知るところになってしまった。
助かった、と思ってしまった。兄のように慕い、今まで一番の味方でいてくれたこの青年には、今も自分を親しく思っていて欲しい。以前のような関係性に戻りたい思うのは流石に望み過ぎだとしても、願うくらいは自由だろう。
折角こうしてまた会えるのだから。だから本人の口から否定の言葉なんて聞かずに済んで、本当に良かったと思った。
不安などは表には出さないようにと気をつけて、三つ並んでこちらを見下ろす顔を視界におさめて尋ねた。
「もしかしてふたりとも、ラッシュと知り合いなの?」
「まあね。そっちもかい?」
「不本意ながら。ギルドの者とも通じていたとは知りませんでしたが……」
ラッシュはエルザとは、情報収集を目的として所属していた『ほえ猛る声の組合』で知り合ったという。殺伐とした実力主義の組織の中ながら、同じサウロ師の元で組織の技を学んだ二人は、そこで当人達曰く「友人のようなもの」になった、との事だった。
一方のランスロットとは騎士学校の先輩と後輩の間柄で、没落貴族と没落一歩手前の貴族という組織の中で浮いた存在同士、手を組む場面も多々有ったという。こちらはどちらもあえて口にはしないものの、お互いを認めあっている悪友といった雰囲気だ。
「この男はもうギルドからは外れているよ。最後の試験を投げ出して、逃げるように出ていったのさ」
「ギルドの試験? それは何なんだ、ガンナー」
「ほえ猛る声の組合の人間ってのは、幼いころから厳しい訓練とガンナーとしての考え方を徹底して叩き込まれるのさ。そしてギルドの庭に連れてこられる子供ってのは、物心つく前の赤ん坊が大半。金の為に売り飛ばされてきた子供達や親無し子が、命がけで組合の忠実な子弟として育て上げられるんだ」
そして外界を知らず育つガンの子供達は、やがて殺しを躊躇わない冷徹な暗殺者へと育っていく。そうでなければ、過酷な世界では生き残れない。
「……エルザもそうなの?」
「デュナンの片隅の村で拾われたそうです。25年前のデュナン統一戦争の孤児だったと聞いています」
さも平然と答える。先程の彼女自身の言葉通り、ギルドの子供の出自として珍しいものではないのだろう。
会話が途絶えた一瞬を縫って、部屋の中に、それまで気にも留めなかった窓の外の音が響いてきた。
「こらっ! 良い子にしてないと、こわ〜い黒マントに攫われちまうよ!!」
聞き覚えのある声は、下で炊き出しの準備をしてくれている女性のものだ。同時に数人が駆け去る軽い足音に聞こえてくる。
どうやら、つまみ食いか何かの悪戯をした子供たちを、女性が追いかけ回しているらしい。追いかけていると言ってもその声色は愛情に満ちていて、子供達も笑い声を上げながら逃げている。
「知ってるー! 真っ黒の変な人達に攫われちゃうんだよ!」
「連れて行かれた子はもう戻ってこないんだってー」
「きゃーこわーい!」
口々にそんな声を発しながら、さっきから教会の敷地内を楽しそうに逃げ回っている。しかしとうとう裏庭で捕まってしまったようで、少し離れた場所からひときわ大きな笑い声が聞こえた後に追いかけっこは終わりを告げたようだった。
「ここの子供たちは大丈夫かな。連れて行かれたりしないよね?」
たった今聞こえてきたやり取りは、西の外れのスラムでは子供の躾に使われる決まり文句のようなものだ。だからこれまでは、ただの作り話だと思って微笑ましく聞いていた。しかし今のエルザの話を聞いた後では説得力が違う。まさか本当の話なんじゃないかと不安になって、思わず訊いてしまった。
「いや、見る限りここの子供は痩せ気味の子が多いし、周りの大人もよく見てるから大丈夫だろう。そうだろう? エルザ」
「そうだね。外から遅れて入って来た子供ってのは、能力が高くなきゃならないのはもちろん、何よりも組織への忠誠心が重要だからね。外にギルドよりも大切なものが有るなんて許されない。その忠誠心を示す方法が、あんたが拒んだ親殺しってわけだけどね」
「つまり、最後の試練って……」
絞り出した声が震えた。
「………ああ。おふくろをこの手で殺すなんて、そんな事出来る訳がない。だから俺は組織から抜けたんだ」
当然だ。自分がやれと言われても、試練だろうが何だろうがそんな事は絶対に出来ない。したくはない。
ガンナーになる為ではなく、ラトキエ家の過去に関する情報の収集を目的としてギルドに入った彼にとっても、それはあまりにも受け入れがたい内容だったのだろう。
明確に試練の拒否を示した事によってギルドには居られなくなったラッシュは、幸運にもササライに拾われることになる。そして所在が確かになった事によって逃亡の意志は無いとみなされ、彼に対するギルドの態度は、現在は保留の状態になっている。
「この男の場合は特例でギルドへ入る事を許されたから、出る時もラトキエの名前に助けられたって事だろう。本当は裏切り者として追われても、おかしくはないんだけれどね」
「サウロ老には感謝してるさ」
これまでの話の流れからも、既に成人している外部の人間をギルドに引き入れるのは異例の事らしい。ならば何故、彼が師弟として受け入れられたのかというと、組合の権力者”長老”の一人であるサウロ老の独断とも言える決定で成されたというのだから驚きだ。
ほえ猛る声の組合も、神殿のように複数の権力者によって意思決定が下されている。サウロ老にも何らかの思惑があって、ラトキエ家の青年を師弟として迎え入れたのだろう。果たしてガンナーにしたかったのかどうかは、分からないが。
「やはり私にはギルドのやり方は、到底理解出来ないものですが……。こうも知り合い同士がひとつの場所に集まったのは、偶然にしては出来過ぎていると思いますね」
「まったくだ。よく俺の知り合いの中でも、よくとびきり面倒なヤツを二人も集められたもんだぜ」
「ああそれは、私が昔ラッシュが居た場所で仲間を探したからだと思う」
男二人が顔を突き合わせて首を傾げていたところに何気なくそう言うと、それを聞いたらラッシュの身動きが止まった。そして気づくと彼は、それまでの茶化した態度を急に消して、素の顔でこちらを見下ろしていた。
「頼り甲斐があって信頼出来る人が見つかると思って。駄目だった?」
「いや駄目じゃないが、いくら俺が頼り甲斐がある格好いい兄貴分だからって、お前なあ……。いっそ俺に声かければ良かっただろうが」
「それは流石に悪いから……」
「おいおい、寂しい事言うなよ。俺とお前の仲だろ、なっ?」
彼は、にっ、と笑うと、おもむろに手を伸ばした。差し出された手の先が視界から消えて、代わりに頭上に手の平一個分の重みが現れた。革の手袋越しに大きな手が動き、少々荒く髪を撫でる。
「わ、わかった。わかったから。もうやめて……!」
久しぶりに頭を撫でられて、されるがまま髪をぐしゃぐしゃにされてしまったが、仲間の前で子供扱いされている現状に気付いて慌てて制止をかける。
こういう事をされると、独り立ちしてからの辛さやホームシックにも似た甘えが顔を出して、なんだか泣きたくなってしまう。
「まあ、しばらくはお前さんの周りで問題が無いか様子を見に来る許可をササライ様がくださったんでな、頼ってくれていいぞ!」
「そういう事なら次から……いえ今日からでも、ここでも仕事をさせましょう。どうせこの男、サボりの口実に来るのでしょうから」
もう一度撫でくりまわそうと伸ばされてきた手と攻防を繰り広げていると、護衛の青年のそんな提案が飛び出した。
「おいおい。久しぶりに会った同門の先輩に対して随分な挨拶だな、ランスロット。昔からお前は可愛げがないというかなんというか……俺に対して敬意というものが欠けていてるんじゃないか?」
「何を言っているんだい? アンタ、前々から何度もこの教会には来ていたじゃないか」
もうひとりの護衛の女が「しらじらしいね」と呆れの溜息を小さくついた。
「やっぱり、お前さんには気付かれてたか」
「害が無いと判断して、見逃してやってたんだよ。こっちも暇じゃないからね」
組合では子弟見習いだったという話だったが、流石に従者級ガンナーには敵わないようで、隠密行動がエルザにあっさり見破られていたと知っても青年は驚きを隠そうとはしなかった。
ササライも、ラッシュがクロッツェオ教会に来ている事は知っていたとしても好きにさせていたのだろう。
会得している高い技術とは裏腹に、素直で情が深いところがある青年である。彼を知る者にとっては、その行動は案外分かりやすい。
今日は流石に執務室を出る際には「帰ったら報告書を書くように」と釘を刺されたそうだが。
それからというもの、自称新入りの護衛を称する青年が一人増えた事を除いては、しばらくは平穏で代わり映えのない日々が続いた。
事件が起こったのはユーリ・ラトキエがクロッツェオ教会を訪れた数日後。不吉な曇天が空を覆うある日の朝の事だった。
最初に異変に気付いた者は、朝早く畑に来た若いコボルトだった。
前日にスコップを畑に置きっぱなしにして帰ってしまった彼は「誰にもバレないうちに、朝一番に畑に来て回収してしまおう」という解決方法を思いつき、それを実行したのが、偶然にもクロッツェオ教会に騒動が起こってしまう正にその日だったのだ。
「あ、あった! これで怒られなくって済むワン〜!」
まだ他に誰も居ない広々とした畑に大袈裟なくらいの歓喜の声が上がり、キラキラと輝く朝露を乗せた若葉の下に転がっていた探し物を、人間とよく似た五本指の手が草葉をかきわけて拾い上げた。
仕事道具を壊したり無くしたりすると、亜人嫌いの口うるさい人間の上役に、たっぷりと説教をされてしまう。農具を無くしたなどと言ったならば、どんなお叱りが飛び出ることだろうか。たった数分前まで、コボルトの青年は戦々恐々の思いだった。
その心配がなくなって安心した彼は、起き抜けでまだ固い体をほぐすための背伸びをした。皆が来るのはもうちょっと後かな? などと考えながら、せっかく一番乗りした朝の匂いを鼻をひくひくさせながら胸いっぱいに嗅いでいると、今朝の風の中には、たくさんの生き物の匂いが紛れ込んでいる事に彼は気が付いた。
城壁の外のスラムの、そのまた外側の畑の、ずっと先。風上にあたるクリスタルバレーの西側に広がる草原、その只中に大小の小さな黒い点が固まって動いてるのが、コボルトの黒々とした目には写った。
どうやら黒い点は集団で移動している人型の影のようで、その数は三十に近い。
しかし、旅人にしては大所帯。商隊だとしたら荷馬車を伴っていないのは変だ。はて何の集団か、などとおっとりと考えながら更に目を凝らしていると、段々と近づいて来る影の頭の多くに、自分と同じかたちの三角の立派な耳が乗っているのに気付いた。隣合い歩く者たちも、大きいのはリザードマン、小さいのはドワーフに見えなくもない。その集団がどんどんこっちに迫って来る。
「あ、あんなにたくさんの仲間が歩いてる!? きっと僕たちと同じように、クロッツェオ教会に助けを求めて来たに違いないワン! おーい! おーーい!!」
コボルトの青年は、まだ遠くにある亜人の集団へと一目散に駆け出した。わざわざ取りにきたスコップをその場にまた落としてしまった事に彼は気付かなかったが、それはこれから起こる大事件に比べれば、ほんの些細なことだった。
すっかり馴染みとなったフュルスト卿の執務室は、所々に配置された初夏の草花から立ちのぼる芳醇な香りに満たされている。クロッツェオ教会に出向くようになってからというものの、週に一度はこの部屋に、定例報告を兼ねたお茶会へと招かれるのが慣習になっていた。
思い出の中にあるササライの執務室の印象は重厚で静かな秋と冬だが、フュルスト卿の部屋を思い出す時は春と初夏をイメージする事になりそうだ。
「教会の再建は順調のようですね」
「はい。薬の原料の生産を初めてからは市民も以前より好意的な反応を示してくれるようになりました。教会の者たちも、やり甲斐を感じながら働いてくれているようです」
薬の生産が始まってから大分時間が経っており、品不足の方は解消されつつある。薬が出回るにつれてクロッツェオ教会の名も広まったので、今ではこの街のほとんどがその名前を知るところとなった。
三等市民は雇用と配給を。二等市民は軍や貴族が買い占めてしまって高騰した薬の、適正で迅速な供給を。それぞれ恩恵を得たという事になるのだろう。
スラムの住人の印象が向上したのはもちろんのこと、近頃では二等市民が薬の礼だと言って、ささやかな寄付もしてくれるようになってきている。それ自体は教会の資金源にできる程の額ではない。だが、亜人と三等市民が集うクロッツェオ教会のために身銭を切って感謝を示してくれたことに、大きな意味があるに違いなかった。
「胸を張って良いのですよ、貴女の願いが実を結んだのですから。最初にお会いした時の、踏みつけられた萎れた花のようだった貴女とはまるで別人のよう。今はとても良いお顔をなさっていますもの。貴女の成長を、きっとササライ様も喜んでおられる事でしょう」
老婦人はクロッツェオ教会の成果を耳にして、満足そうに柔和な笑みを返した。
「私ひとりでは何も出来ませんでした。教会のみんなのおかげだと思います」
クリスタルバレーに来た時から目にしていた不遇の存在である三等市民。彼らの助けになれたのなら、むしろ自分の方が救われる思いだった。
少しだけ心の重しが軽くなった気分で横を見やると、仕事の話の間おとなしく、蜂蜜のかかったアイスクリームを一生懸命スプーンで崩しては口に運んでいたネウトと目が合った。
「そうそう、聞きましたわ。今この子には教師が付いていないそうですね。良ろしければ、私にお勉強をみさせてくれませんこと? 貴女が多忙の時は、わたくしが預かることだって出来ますのも。そう、それがいいわ。どうかしら?」
小さな手が、テーブルの下でルディスのスカートをギュッと掴んだ。
「いえ、あの、有り難いお言葉なんですが、今まで勉強詰めだった分も外で自由に遊ばせてあげたいと思っておりますので……」
「そうですか……。もし必要になった際は、いつでもこのわたくしに言って下さいましね?」
急に何を言い出すのかと思えば、いつものネウトを預かりたいという申し出だった。前に家庭を持てなかったと寂しそうに言っていたので、きっと子供が可愛くて仕方がないのだろう。会うたびに似たような事を言われてしまっている。
かつての教え子であるササライによく似た少年が、国と民と理想の為に人生を捧げて生きてきた彼女の、寂しさを癒やしているのだろう事は想像出来る。
預けるのに信頼出来ないというわけではない。だが、兄であるササライの所ならともかく、まだ幼いせいかルディスの後をついて回りたがる彼を神殿にひとり残せば、悲しい思いをさせてしまうのは間違いない。ササライの元を離れる時に一緒ついて付いて来る事を選んでくれたこの子に、寂しい思いは決してさせたくなかった。
それにここに来るたびにお菓子をもらい過ぎて、ちょっと丸くなって来た気もする。
だから毎回断っている。少々気まずいが、ネウトの事を第一に考えれば仕方が無い。
「ええと、それでその、次のお話は薬の原材料の生産の件についてですが。今まで通りの量を維持するべき、との事ですが……」
「ええ、そうでしたわね。是非そのようにして頂きたいのです」
「私どもとしましては、薬の栽培は徐々に減らして、農作物の収穫を増やすべきかと検討を始めていたのですが……」
薬の生産量と流通量をこのまま維持する。それは今までクロッツェオ教会の事業内容に口出しをしてこなかった彼女が、珍しく付けた注文だった。
市場が枯渇状態だった今までは、一日も早く流通を回復させる為に、通常では考えられないほどの量の薬を作って市場に流していた。しかしある程度品不足が解消された現状で、市場に同等の生産をずっと流し続けるとなると……。当然、品物が町に溢れ返るので値崩れが起こるだろう。それに不良在庫も生まれてしまう。
「たしかにクリスタルバレーでは薬の流通量は回復したと言えましょう。しかし地方に目を向けてみれば、まだまだその数は十分とは言えませんもの」
「……私も、クリスタルバレー以外の場所の薬の価格を安定させるにはどうすれば良いのか、考えてはいるのですが。良い考えがまだ見つかりません」
老婦人は少しだけ困ったような顔をのぞかせて、今度は幼子を宥めるように優しく微笑んだ。
「しばらくは国中で薬が不足するのは、致し方のないところ。貴女は十分良くやっておいでですわ。何事も完璧を求めて過ぎないのが続けるコツですのよ」
「でも、いつまで続ければ良いのでしょうか。せめて終わる時期の見通しでも立てばいいのですが……」
「そうですわね。当面はずっと続くとお考えになった方がよろしいかと」
とにかく続けてくれ、という事らしい。彼女も具体的な期間までは決めていないという事だろうか。
薬の割合の方が上であった現在の生産比率を、徐々に作物に切り替えていこうと相談していた所だったのだが。生産計画の見直しは先送りになりそうだ。
フュルスト卿は国中で薬が不足するのは仕方のない事だと言った。ハルモニア全体に薬が行き渡るようにするのが次の目標だと仮定すれば、枯渇した理由も合わせて考える必要が出てくるだろう。そもそも、薬が足りなくなった原因はなんだったろうか。たしか、エルザはこう言っていた。「軍事需要が起こっている」のだと。
「もしかして薬が必要なのは、戦争が始まるから……なのですか?」
「ええ、その通りですわ」
外に出れば、そういった情勢も自然と耳にするようになるのは承知の上だったのだろう。事もなげに首肯は返された。
つまりは、これから起こりうる戦に備えて、薬を生産し続ける必要があるという事だ。しかし戦で消費され続けるのならば、いくら薬を生産したとしても、底が抜けたブーツに水を注ぎ続けるのと同じ事。それではいつまで経っても、薬は貧しい者まで十分には行き渡らないのではないだろうか。
さらに言えば、この老婆はルディスに、これから他国に侵略するハルモニア正規軍が使う薬をも作り続けろと言っているのだ。
「軍の為に薬を作れと、そう言っておられるのですね」
「正しくは国の為、ですわ。薬だけではありません。今はスラムの民達に分け与えている作物も、いずれはその大部分が糧秣として国に献上される事になるとお考えくださいませ」
それまでの親しみを感じさせていた彼女の眼差しが、水の冷たさを思わせる温度へと変わる。
「思うところもお有りでしょう。ですが貴方はハルモニア神聖国の司祭。ご自分の役目を果たすのです。この国に属する誰しもが戦に組みするは、必然なのですから」
言い返す言葉が見つからなかった。こんなかたちでハルモニアの侵略戦争に加担するはめになるとは、思いもよらなかったからだ。
だが例えば反抗心で薬の生産を止めてしまったとしても、状況は振り出しに戻ってしまうだけだろう。いずれにせよ薬が枯渇すれば最も困るのは市民であり、お金の無い三等市民であり、冷遇されている亜人奴隷だ。これからも彼らに十分な薬を届けるつもりならば、軍も民もまかなえる量を作りつづけるしかない。
「聞いていない」「信じていたのに」そんな浅はかな言葉を言う気にもなれなかった。彼女は政治家であり、こちらもそれは承知の上で助力を得た。ステラが言っていた通り、元々お互いに利用しあう関係だったのだから。
心を陰らせる不安を、雨が降るでもなく悪戯に空を埋め尽くす窓の外の暗雲のせいにしたくなる。上げた顔を戻すと、少々空気が冷えた部屋の中で、氷菓子を食べ終えた少年がルディスをじっと見つめていた。
扉の外がにわかに騒がしくなったのは、その時だった。外で警護にあたっていたフュルスト卿の部下が入り口に現れ主へと告げる。
「閣下。ルディス様の迎えだと申す者が来ております」
「お迎え? まあ、もうそんな時間かしら」
老婦人はゆったりと首をかしげた。部屋の主の許しを待って部屋の中に現れた人物。それは、
「火急の用にて失礼をお許し下さい。フュルスト卿」
先日の出来事からまた行動を共にするようになっていたラッシュだった。
「貴方は、ラトキエ家の……」
軽い驚きを示した神官将にレナの指導の賜物である優雅な一礼を披露をすると、青年はルディスの前で止まり、こう切り出した。
「クロッツェオ教会に戻るんだ、ルディス」
「えっ、まだ早いよ? それにわざわざ来てくれるなんて、どうしたの?」
彼がこんな所まで迎えに来てくれたのも初めてならば、そんな一方的な物言いを聞いたのも、雑用係をやっていた時以来だ。クロッツェオ教会でまた一緒に過ごせるようになってからは、兄貴風を吹かせてあれこれ口を出すのも控えて見守ってくれていたのに。
「亜人が教会に駆け込んで来たんだ」
「そんなの、いまさら珍しいことじゃ……」
「鉱夫奴隷だよ! 鉱山で働いていた数十人の亜人たちが、クロッツェオ教会に一斉に逃げ込んで来たんだ!」
いつもの余裕めいた彼らしからぬ、額に汗を浮かべた切迫した表情が、明らかな異常事態である事を告げている。
「その者たちを受け入れてはなりません」
初夏の香りに包まれた部屋に似つかわしくない、硬質な声が響き渡った。けして大声という訳ではないのに、老境に差しかかった人間の声とは思えないほど、不思議とよく通って聞こえた。突然の宣告を飲み込めずに固るルディス達へと、更にフュルスト卿は有無を言わせない声色で告げる。
「鉱山から来たと言うその亜人たち、即刻一人残らず神殿へ引き渡すのです」
ついさっきまで穏やかに談笑していた老女は、そこにはもう居いない。居るのは大国ハルモニア神聖国を動かす力を持つハルモニア神聖国神官将のひとりだった。
「何故今になって、そのようなことを仰るのですか? 今までも逃げ込んで来た者たちを引き取る時は、手順を踏んで問題無く受け入れていました。それをどうして今回に限って引き渡せなどと……!」
本来慈悲深いはずの彼女の口から飛び出た信じがたい言葉に、思わずこちらも語気を強めてしまう。そんな事をすれば、救いを求めて来たその人達は行き場を失ってしまう。話も聞かずに追い払うなんて出来るわけがない。
作った薬が戦争に使われるかもしれないという長期的な懸念よりも、よほど看過出来ない言葉だった。
これまで彼女は、亜人を助ける事を咎めはしなかった。にも関わらず、なぜ今回に限って明確に「見捨てろ」などと言うのだろうか。
「率直に申し上げましょう。わたくしは近い将来、貴女に民衆派の旗印となっていただきたいと考えております」
最初に耳を疑い、そして次に言葉を失った。返ってきた思いもよらない言葉にラッシュと共に目を見開いたのは言うまでも無い。
民衆派の旗印。その言葉の意味は、ハルモニアの2大派閥の一方である民衆派の指導者と同意義だろう。
それはかつてのラトキエ家当主、そして現在の実質的な民衆派の指導者であるフュルスト卿の後継者になるという事に他ならない。それにルディスを据えようと彼女は口にしたのだ。
「認めましょう、貴女を見くびっていたことを。期待以上の……いえ、その手中に有る紋章の力もあったとは言え、よもや短期間のうちにここまでの影響力を持つとは、誰も思いもよらなかったのですから」
フュルスト卿はこちらから目線を外す事なく、続けて言い放つ。
「そのためには、つまらない問題などで躓いてもらっては困るのです。神殿に逆らうような真似だけは避けてもらわねばなりません」
花を民衆に配る。亜人を助ける。薬の生産に力をそそぐ。そういった今まで民の為に動いた行為が、驚くべきスピードでルディスの名声を高めた。そして今やクロッツェオ教会そのものが、クリスタルバレーの中でも無視できない存在に育ちつつあるのだと彼女は言いたいようだった。
一方的に授けられたお飾りの役職。それに見合う一廉の人物に成る為に、教会を盛り立てたというわけではない。神殿の中に閉じ込められていた間は、ただ自由を渇望していただけだった。
神殿の中で自分の不甲斐なさを思い知らされ、何かをしなければ腐ってしまうと、半ば衝動的に飛び出したあの頃。
行動した結果、評価が後から付いて来た。それだけの事なのだろう。だとすれば、望まなくなってから箔を得たというのは、なんとも皮肉なことだった。
「民衆派の、旗印……? ハハッ、冗談にしても笑えませんよ、こいつはそんなんじゃあ……」
ルディスを庇って発言したラッシュに返されたのは、彼の心を踏みにじる言葉だった。
「ラトキエ家との養子縁組、わたくしは賛成ですのよ。かつて民衆派最大の家であったラトキエ家から、民の為に立ち上がった民衆派の新たなるリーダーが生まれれば、それこそわたくしたちが長年求めていた英雄像となりましょう。もし言う通りに従ってくださるのであれば、ラトキエ家の再興をお約束するのも容易きことですわ」
じくじくと痛み続ける生傷をえぐるような発言に、隣に立つ青年の顔が歪んだ。
「まさか、こいつとラトキエ家をあんたらの政治の道具にしようっていうのか……? やめてくれ。こいつはハルモニアの貴族社会なんかとは関係ない! 利用したいのなら俺を狙えばいいだろう!?」
その瞬間、主を守らんと、控えていた複数の衛兵がルディス達3人をバタバタと取り囲んだ。剣の柄に手を添えて牽制を見せつける彼等を、フュルスト卿は手を払うような動作で部屋の隅へと下がらせる。
「ラッシュ!」
怒りに震えるその腕を、両手で必死に掴んで引き止める。
ラトキエ家の問題を、何も知らない者に無遠慮に掻き回されたくないのはルディスも同じだ。彼の気持ちは痛いほどに分かる。しかしここで騒ぎを起こせば、彼の直属の上司であるササライにまで迷惑が掛かってしまう。それだけは避けなければならなかった。
それまでの慇懃な態度をかなぐり捨てて家族を守ろうと抗議した青年の言葉は、相手には届かなかった。
「ラトキエの坊や。残念ながら、貴方では力不足ですのよ」
無力な青年を見下す水色の瞳は、あくまで冷ややかだった。
ラッシュでは力不足と言ったのは、紋章を持っていないからなのだろうか。それとも、もっと他の要因が絡んでの事か。それは自分には分からない。ただ彼女にとってラッシュは利用価値の無い人間であり、この場において耳を貸す価値が無い存在だと認識している事だけは、一目瞭然だった。
「ねえさん」
下から袖を引かれて視線を落とす。
「いこう。みんな、まってるよ」
一部始終を目にして縮こまってしまった少年が、か細い声でそう訴えた。
「あ、ああ……。悪い。お前さんの言う通り、教会に戻らなきゃな……」
完全に頭に血が上っていたラッシュも、末弟のような存在の少年の諭しに頭が冷えたのだろう。苦々しい表情のままではあるが、この場は引き下がることを選んでくれたようだった。
ルディスはというと、ラッシュが自分の分も怒ってくれたお陰でその分冷静になれた。ネウトの言う通り、今は一刻も早くクロッツェオ教会に戻るべきだろう。
「本日はこれで失礼させて頂きます。ですが、その前にお訪ねしたい事がございます」
「なにかしら?」
「以前卿は、民は我が子同然だと言っておられました。そこには亜人は含まれているのでしょうか?」
老婦人は後ろめたさからか、寂しげに瞼を閉じて俯く。
「………亜人は人間ではありませんわ」
わずかに残っていた期待を裏切る非情な答えに肩を落とす。思えば不遇の者を救いたいのだと耳にした事は有っても、亜人奴隷についての見解を聞いた事は無かった。彼女の認識では救いの手を差し伸べるべきは人間であり、本来そこに亜人は含まれないのだろう。 亜人をも平等に助けたいと願っているルディスとは、また異なる思想の持ち主だったのだ。
聡明な彼女はルディスを思うように動かすために、それを悟らせないようにと、巧妙に考えの違いを隠していたのだろう。
これ以上この場で語れる事も無いと判断して、その場を辞する為に席を立った。
「お待ちになって」
踵を返して向けた背越しに目線で振り返ると、さっきまで厳格な炎が燃えていたフュルスト卿の瞳の中には、今は戸惑いの色が浮かんでいる。
「これだけは理解なさって。今回ばかりは、貴女の手には負えるものではありません。どうか賢明な判断を……」
「……ご忠告、ありがとうございます」
彼女なりに案じてくれているのが分かるのが余計に辛かった。だから最後に交わしたのは、表面上は今までとそう変わりない感謝の言葉だった。
Next … ⅩⅢ Coming Soon
2017年04月22日初稿作成
2020年07月01日サイト移転